1953年(昭和28年)8月21日、京都で生れました。名古(なご)という珍しい姓は、どうも京都が本場のようですが、詳しいことは分りません。 母方の祖父が若い頃始めた硬式野球ボールの生産会社が、今の大手スポーツメイカー、ミズノと競い合うほどにまでに戦後の一時期発展したそうです。その頃を語る母の目は、どこか遠くを見るように、過ぎ去ってしまった往時を懐かしむと同時に、いまだに口惜しさをのぞかせます。逃した魚は、実際以上に大きく見えるのでしょう。戦後物の無い時期、人々は空っぽのおなかを抱えて娯楽に飢えていました。進駐軍の幹部が始球式に来た、京都でのある地方野球大会では、満員の観客席を背に、祖父の会社のボールが使われたそうです。その頃が会社の、そしてわが名古家のピークだったのです。 その後、どういう訳か知りませんが会社は倒産。わが家族の流浪が始まりました。東京にしばらくいた後、当時文化住宅の走りである公団住宅の抽選に見事当選。キューポラのある街として有名な埼玉県川口市に、ようやく腰を落着けました。当時私は4歳。 したがって、からくも手繰り寄せられる幼児の記憶は、川口からということになります。 したがって私の故郷は、川口ということになります。その後、道路の拡幅工事に伴って両親は立ち退きを迫られました。そんなわけで5年前、両親は藤沢に転居しました。こうして、私の故郷はどこにも無くなりました。ごみごみして活気に溢れ、同時にどこか貧乏たらしい当時の川口の街の、懐かしい面影を心の中に残したまま。それは映画「キューポラのある街」で、浦山桐朗監督が描き、吉永小百合さんが演じた街そのままでした。 そんな私が終焉の地として、この沼津に暮らし始めて今年で丸10年。日々の暮らしを綴ってみました。 |