北朝鮮に帰還したものの生活に困窮して韓国に亡命した元在日朝鮮人の方が、脱北の経緯などについて国会内で証言した、との報道を読みながら、ある映画の一場面を思い出していました。その映画は、「キューポラのある街」。昭和三十七年に封切られ、主演の吉永小百合さんがブルー・リボン賞主演女優賞を史上最年少で受賞しました。鋳物の街、埼玉県川口市を舞台にしたこの映画は、忘れがたい映画の一つです。

 その場面は、主人公ジュンと親友ヨシエとの別れのシーン。彼女と父親、弟サンキチの三人が故国である北鮮に帰ることになり、夜の川口駅前に集うチョゴリを着た同胞達が、故国の歌をハングルで歌い出発を祝っているこのシーンを、ご記憶の方も多いと思います。

 昭和三〇年代から四〇年代にかけて、幼少年期を川口で過ごした私には、とりわけ思いで深い映画です。当時、市内に点在する数多くの鋳物工場の屋根からは真っ赤な火柱が上がり、夜などそれは美しいものでした。最盛期は昭和三八年頃で、一三〇〇軒もの工場が操業していました。映画の中で描かれていた、従業員が住む長屋風の住宅も、至る所に存在していました。その玄関先を流れる、悪臭を放つ薄汚れたドブのような排水溝の傍らで、子どもたち同士でベーゴマをした記憶が今でも鮮明です。

 そんな川口も現在は人口五〇万になろうかという大ベッド・タウン。昨秋、久しぶりにこの街を訪れました。川口を離れてほぼ三〇年。両親も転居し、今では訪れる事もない街の変わり様を、この目で確かめたかったのです。

 京浜東北線川口駅西口から、当時住んでいた公団住宅跡地までの所要時間は、区画整理が進んだおかげで思いのほか短時間でした。映画で描かれていた面影はもちろん、高校への電車通学に毎日通ったあの当時とも、駅前の様子は全く異なっていました。

 川口は荒川の街です。ジュンが通った中学校も、荒川の土手沿いにありました。ジュンが懸命に自転車をこいだあの土手は、中学のクラブ活動で私が懸命に走った土手でもありました。母校の西中学校は、偶然にもその日、体育祭の真っ最中。土手から見下ろすグランドの様子は、当時のまま。かつては、自分もあの輪の中にいて、草に覆われた土手を見上げていたものです。

 駅へと向かう帰り道、土手を東へ向かって歩いて行くと、秋の爽やかな青空を背景に荒川を渡る鉄橋が、はるか向こうに見えました。当時と同じく、電車がひっきりなしに往来しています。やがてその光景は、遊び疲れて家路に向かう、当時の私が見た鉄橋へとフラッシュバックしていったのです。

 凧(いかのぼり)きのうの空のありどころ

        (与謝蕪村)

2002年8月