アラビアのロレンス再考(2008年)

 沼津医師会には医師クラブという懇親を目的とした組織があります。私も以前メンバーを務めました。その大きな仕事の一つが、「杏林ぬまづ」という雑誌の発行です。医師会関係の皆さんの原稿を掲載する雑誌として、長い歴史を誇っています。

 私も何度か投稿しました。今回は幹事の望月先生の依頼で執筆しました。

 アラビアのロレンスは、映画であまりにも有名です。始めて映画館でこの映画を見たとき、砂漠のシーンの美しさに息を飲んだ記憶があります。この原稿執筆のためにDVDも買い求め、デジタル・ハイビジョン(DH)液晶テレビに映し出してみて、がっかり。DVDをあれほど美しいと思っていた自分が、まるで他人のようでした。それほど、DVDとDHの差は大きいのです。ブルーレイでぜひとも観てみたいものです。

 さて、映画で巷間知られたロレンス像と現実には、それこそDVDとDHほどの落差があることを、医師会の皆さんに知ってもらいたい、と思ったのが執筆の動機でした。時あたかもイラク戦争でイスラエルを巡る状況が様変わりそうな段階を向かえていました。

(2009年3月)

ホームページ掲載時コメント

 沼津医師会 医師クラブが発行する雑誌、「杏林ぬまづ」に久しぶりに投稿しました。編集長の望月健太郎先生にお願いされたからです。先生とは、糖尿病の勉強会でいつもお世話になっている関係で、直接お電話をいただき依頼された以上、断るわけにはいきませんでした。

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 中東情勢が緊迫化しています。ある論説では、いよいよ最後の中東大戦争が勃発するのではないか、という予想すらあります。アメリカが世界を仕切ることを止め、世界を多極化する一端として、イスラエル問題の最終決着を付けようとしている、という論旨です。

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 アメリカではイスラエルに異を唱える政治家は選挙で必ず落選する、という神話が、現実と化しているようです。ユダヤ人の力がそれだけ強いということのようです。ネオコンと呼ばれる人々は、イスラエルの肩を持つふりをして、実はイスラエルを破滅に導こうとしているのではないか、といういささかうがった見方もあるようです。

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 何にしても、中東問題の根っこの部分にアラビアのロレンスが深く関わったことは間違いありません。我々が映画を通して知るアラビアのロレンスは、恣意的にかなり歪められたロレンス像だ、ということは、知っていなければなりません。

 そんな思いで書きました。


 ある日曜日の夕方、一人下宿に篭りながら国試の勉強をしていた頃ですから、あれは1978年の秋頃でしょうか。気晴らしに聞いたNHKラジオ第二放送で英文学者の中野好夫さんが、ある本について語っていました。それが、岩波新書「アラビアのロレンス」[改訂版]だったのです。奥付によれば、1940年第 1刷発行、1963年第4刷改版発行、1978年第21刷発行とありますから、なかなかのロングセラーと言えます。番組を聞きながら、妙に引き込まれていく自分を今でもはっきり覚えています。イギリスの一青年将校がアラブ人たちを率いてオスマン帝国に対して反乱を起こす。砂漠、アラブ、大英帝国。たぶん、それ以前に映画は見ていたとは思うのですが、二回に分けて放送された内容はとても新鮮でした。

 アラビアのロレンスと聞いて、まず頭に浮かぶのは映画ではないでしょうか。ウィキペディア(Wikipedia)によれば、--『アラビアのロレンス』(Lawrence of Arabia)は、1962年のイギリス映画。歴史映画。デーヴィッド・リーン監督、ピーター・オトゥール主演。実在の英国陸軍将校のトマス・エドワード・ロレンスが率いた、オスマン帝国からのアラブ独立闘争を描いた歴史映画であり、戦争映画である。映画史に燦然と輝く、不滅の大金字塔である。日本での公開は1963年12月。上映時間は227分。主人公の交通事故死で幕が開く衝撃的な冒頭から、彼が失意の内にアラビアを離れる余りに悲痛な終局までを、実に雄大に描く。その中でも、ロレンスがマッチの火を吹き消した後に砂漠に大きな太陽が昇る場面や、地平線の彼方の蜃気楼が次第に黒い人影となるまでの3 分間、敵の要塞を陥落したロレンスが、ラクダに乗って夕日が照らす海岸を悠々と歩く場面、そして延々と続く広大な白い砂漠と地平線を背景にロレンスが跨ったラクダが駆ける場面等は、特筆に価する見事な名場面と言える。--とあります。これ以上の説明は無用でしょう。日本公開が1963年というと、東京オリンピックの前年ということになります。そんな昔の映画だったとは、今更ながら驚くばかりです。傑作と言われ、アカデミー賞7部門を受賞したこの名画は、アラビアのロレンスの名をまさに不朽のものとしました。多くの日本人、いや世界中の人々にとってはアラビアのロレンスといえば、ピーター・オトゥールが演じたロレンスが、アラビアのロレンスそのものになっているに違いありません。しかし、その後の中東情勢を決定したともいえる当時の歴史を、英製作のこの映画が中立的な立場で描いているとは思えません。あくまでロレンスという一イギリス軍人にスポットライトを当てたドラマに過ぎません。つまり、かなり作為的なフィルターが掛かっていることを知っておく必要があります。

 中野版アラビアのロレンスでは、ロレンスの主著である「知恵の七柱」をもとに、文学者らしくロレンスの心の葛藤を中心に解析しています。そこがこの本の魅力であるわけですが、執筆時の制約と言えば良いのでしょうか、この本には現在から見ると明らかに抜け落ちている部分があります。それは、アラブから見たアラビアのロレンスという視点です。

 ここにある本があります。「アラブが見たアラビアのロレンス」著者スレイマン・ムーサ、訳者 牟田口義郎・定森大治、1988年3月25日初版第一刷発行。ヨルダンの歴史家であるムーサ氏が書いたこの本の目的は、何よりもまず牟田口氏の言う「遊牧民(ベドウィン)主体のアラブ独立軍を指揮する金髪碧眼の青年考古学者」というロレンス伝説の打破にありました。ロレンス学という分野まで存在する、と言われるほど無数の本が出版されている中で、ムーサ氏によれば西洋におけるロレンスの伝記作者のだれ一人として、賛美者も批判論者も、彼が行動したアラブ世界を実地調査していなかった、というのです。西洋人のアラブ蔑視の典型例だ、と訳者の牟田口氏は指摘しています。

 この本によれば、砂漠の反乱においてロレンスは英国とアラブ側の単なる連絡役以上の活躍はしておらず、映画の中で登場する有名なアカバ攻略も、ロレンスの発案したものではなく、映画の中でアンソニー・クインが演じていたアウダ・アブー=ターイが立案・指導した、というのが真実のようです。また映画の最後で、英国がフランスと秘密裏に締結したアラブ分割案、サイクス・ピコ条約をロレンスは知らなかった、という設定になっていますが、これも事実ではないようです。そして、第一次世界大戦後の枠組みを決定したパリ講和会議における彼の活躍、つまりはアラビア後のロレンスの活躍こそ彼の本質を表している、と指摘しています。

 彼が個人としては大変魅力的だったことは、「友人たちが見たT.E.ローレンス」に寄せた、彼のアラビア語の教師を務めたミス・ファリーダ・エル=アクリ氏の一文を見ても容易に想像できます。当時求めうるアラブ世界における最高の知性を備えた数少ない女性の一人だった彼女は、ロレンスの人柄を要約して、

●ロレンスは内気な性格だったが、見るもの聞くもの全てに興味をもつという行動派で、付き合う人のしきたりや作法をやすやすと身につけた。

●賢明な相談役、健全な判断力を持った男。

●茶目っ気があり、親切なので、子どもたちの心もつかむ。ユーモアの持ち主。

●いつも他人の美点を見分けるよう心がけ、人の心を見抜く洞察力と、人の立場への理解力を備えていた。

●天才的な話し上手。

●不屈の精神力。冒険好き。

●ただし、アラビア語は大して上手でない。

 これだけを見ても彼が魅力ある人間であったことは間違いありません。他の英国将校が、アラブ人と関わる際、決して英国流の行動を崩さなかった事とは対照的に、郷に入っては郷に従った彼の態度がアラブ人たちの心を掴んだのも事実です。しかしそのことと、アラブの反乱が終了し、戦後の秩序を取り決める場であったパリ講和会議、そしてその後の中東における英国の戦後政策を決定したカイロ会議において彼が果たした役割とは峻別する必要があります。英国の取った三枚舌外交は、あまりにも有名ですが、それは決して当時だけのものではなく、今も昔も変わらない欧米列強諸国の手前勝手な国益中心の外交に他なりません。

 アラブの史家が「災いの年」と呼ぶ1920年、英仏はアラブに対する全ての約束を破り、4月のサンレモ協定により、アラビア半島以外の西アジアのアラブ地域を支配化に置いたのです。現地では流血事件が続発、英国は問題処理のため1921年植民地省を新設。ウインストン・チャーチルが責任者となります。彼は、中東専門家をカイロに集め中東における戦後のイギリス政策を決定します。カイロ会議です。ロレンスは、この会議にチャーチルの特別顧問として出席します。そしてチャーチル式解決法に尽力します。それが大シリア(現在のシリア・ヨルダン・レバノン・イスラエルを含む地域)の分割だったのです。知恵の七柱の中でロレンスは、アラブの反乱について以下のように総括しています。「カイロ会議で、チャーチル氏は全ての紛糾を片付け、わが帝国の利益、あるいは関係国民の利益を何ひとつ犠牲にすることなく、(人道上できうる限り)文書や精神面での約束を果たして(と思うのだが)、解決を見出したのであった。われわれはかくて戦時の東方作戦から、手をきれいにして身を引いたのであるが、それにしても、諸国家とはいわずとも、諸人民がささげ得る感謝の念をかちとるには、遅きにすぎた三年であった」。また彼はイスラエル建国運動であるシオニズムにも賛同していたのです。アラブの独立という理想を自国の現実主義に踏みつぶされたという「ロレンス伝説」は、全くの幻想だったのです。彼は英帝国主義の忠実な尖兵だったのです。

 こうしたことを知った上で見た、2007年9月30日NHKにて放映された「新シルクロード 望郷の鉄路」は、大変興味深いものでした。アラビア半島の海岸線に沿うようにシルクロードが走っていたことを、恥ずかしながら始めて知りました。西海岸イスラームの聖都メディーナとダマスカスを1,300キロに渡って結ぶ、この番組の中で主人公とも言うべきヒジャーズ鉄道こそは、アラブの人々が「ダイナマイト王」と呼んだロレンスの活躍した舞台なのです。そして最も印象に残ったのは、ダマスカスのユダヤ人街の現実。イスラエル建国により、いまや30万人にまで膨れ上がったパレスチナ難民と入れ替わるように、かつて5万人を数えたユダヤ人が今では15名にまで減少。彼らの祖先が迫害を逃れて15世紀スペインから移住してきたという指摘は、スペインにおけるイスラームとカトリックの攻防と、カトリック勝利後に起こった追放と迫害、異端審問の歴史を思い起こさざるを得ませんでした。イスラーム・スペインのもと、能力を存分に発揮していたユダヤ人たちが、キリスト教支配の欧州において受けてきた迫害の数々。そして今、以前は共存していたイスラームとユダヤがパレスチナの地でいつ果てるとも知れない戦いに明け暮れている。15名となったダマスカスのユダヤ人の一人が、取材の記者の「家族はいますか?」という問いに対して、「ここにいるのは、みんな独身なのです」と答える。500年を超える祖先の歴史がまさに消えさそうとしている、その現実の重さを、その瞬間痛感せざるを得ませんでした。

 英仏の国益から蒔かれた紛争の種は、いまや米国を中心に泥沼化しつつあります。その端緒にアラビアのロレンスが深く関わっていた事は、映画からは想像もできない歴史の真相なのです。

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