両親が高齢化するとともに、自分自身の肉体に起こる様々な変化を経験すると、誇りと尊厳を持った人生の晩年ということの難しさを痛感します。

 あれだけ元気だった両親の老いることからくる避けられない精神的あるいは肉体的な機能の衰えを目の当たりすることは大変辛いことです。

 14年近く前の投稿原稿が未だに、いや今だからこそ再読する価値があるのではないでしょうか。
(2009年1月)

1998年ホームページ掲載時

 自分で体験してみるまで、なかなか人は物事を真に自分自身のものとできません。そうなると、すべての人の体験や経験を、自分自身で繰り返してみないとならないことになります。しかし一人間のできることは限られています。となると人間はいつまでも自分の殻から抜け出せません。

 そのギャップを埋めるのが、想像力ではないでしょうか。想像力によって人は、人間になるのです。

 先日、所属する沼津西ロータリークラブの例会で、県立沼津盲学校教諭芦川昌代先生のお話しを聞く機会がありました。先生は沼津で最初のアイメイト(盲導犬)の使用者であり、5年と3か月間愛犬ブラウニーと共に勤務されてきました。講演内容は本紙9月3日の紙面でも取り上げられましたので、お読みになった方も多いと思います。

 事故により15歳で中途失明されましたが東京教育大学を卒業後、盲学校教員として社会人のスタートを切りました。ご両親や友人の、また結婚後はご主人の助けを借りながら通勤されていましたが、何とか自分の力で通勤出来ないものかと考え、様々な苦労を重ねられた後、職場の方々の協力もありブラウニーとの人生が始まりました。お話の中で私が一番感銘したのは、アイメイトの使用者となるまでに克服しなければならない、膨大な苦労が容易に想像できたにもかかわらずあえてそれにチャレンジした、芦川先生の勇気に対してでした。想像力を駆使して人生を描き上げ、勇気を持ってチャレンジし、そしてそれを自分の力で実現する。私はそうした人々を心から尊敬するものです。

 ところで視覚障害者をはじめ障害を持つ人々を、英語ではthe handicapped、つまりハンディキャップを持つ人々と以前は呼んでいましたが、これは適切でないということで、最近はthe disabledと呼ぶようになりました。つまり、dis( 反対を意味する接頭語)・able(可能な)という意味です。これが一般的なようです。ところが最近インターネットでthe challengedという言葉を知りました。「the challenged」とは米語で「障害を持つ人」を表すそうで、障害に立ち向かう人々、という意味でしょうか。とても素晴らしい言葉だと思いました。

 老いてなお、いや老いてこそ人間としての尊厳と誇りを持ち続け、社会と関りを持って生きて行くには何が必要か。こうしたthe challenged 挑戦し続ける人々にこそ、私達は多くを学ぶ必要があるのではないでしょうか。



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