ファースト・ネイム (1997年9月掲載)

 昨年末からの派遣切りの問題を見るにつけ、日本は変わったと思わざるを得ません。構造改革の名の元に人件費の安い派遣という名の労働者を自由に使い捨てにできることを可能にした政治の問題もあるでしょう。しかし、正社員として組織に縛られるのを嫌がる若者たちがいることも事実です。

 数ヶ月単位で仕事を転々とすれば、その間に技術が身に付くはずもなく、何年経っても結局は未熟練労働者が増えるばかり。パソコンを代表とするIT技術の進歩が多くの分野で熟練を必要とさせなくなったことも事実です。

 チラシに書かれてある、「明日からでも働けます」というコピーは、実は「明日からもう要りません」と表裏一体なのです。

 子ども達には、いつも私はこう言います。「10年かかって身に付けたものは10年もつ」と。多くの職人さんといわれる方々は、10年、20年とかかって、やっと一人前の仕事ができるようになります。気の遠くなるような話です。

 映画「天国と地獄」の中で三船敏郎演じる主人公、ナショナル・シューズの権藤は、自分が会社の実権を握りたいのは、ただ自分の好きな靴を作りたいだけなのだ、と靴作りへの愛情を語ります。
 
 結局幸せな人生とは、本当に自分の好きな事を見つけ、そして死ぬまでそれに関わることのできる人生なのではないか。これから社会に出る若者たちが、ぜひそうしたものに出会えることを祈るばかりです。

(2009年1月)

ホームページ掲載時コメント(1998年)

 毎朝インターネット電話で、欧米の友人達と話していて不思議に感じることがあります。それは自分の名前に付いてです。日本では姓、名の順ですから、まず姓を呼ぶわけです。しかし、例えば鈴木さんの場合たくさんの鈴木さんがいますから、同定するのは大変困難です。また姓は家族全体をあらわしますから、その中の特定の人間をさす場合本当は姓で呼ぶのは、不適当です。

 英語ではファースト・ネイムというぐらいで、まず最初に名を持ってきます。ですから親しくなれば、名で呼び合うことは、べつだん不思議でもなんでもないのでしょう。これはつまらない、些細な違いのようですが、私には大変大きな意味があるように思えるのです。どうも私には日本人は、まだまだ独り立ちしていないというか、いつも誰かに依存していないと、生きていけないような、そんな気がします。みんながみんなに依存して生きている、そんな気がするのです。そんな中では、自分の考えを主張することも、ましてや自分ではおかしい、間違っている、と思っても、それを指摘することは大変困難です。多くの方が、毎日経験されていることです。

 しかしこれからもそんなやり方を続けていって良いのでしょうか?。毎日新聞を賑わしている損失補填や厚生省の補助金汚職を見ていると、私にはどうも日本人は精神的に奴隷根性が染み付いたのではないか、としか思えないのです。いつも誰かに頼って何とかしてもらおう、そんなことばかり考えているようにしか見えません。誰もが東京を向いて生活している。誰もが東京にすがって何とかしてもらおうとしている、そんな風にしか見えません。

 ファースト・ネイム(以下FN)とは、要するに名前のことです。私の場合なら、「りょうすけ」です。欧米人が親しい間柄になると、FNで呼び合うことは良く知られています。インターネット電話で毎朝のように欧米の友人と話しをする時も、お互いFNで呼び合います。私は「SUKE すき」と呼ばれます。相手は、「ディック」であったり、「ボブ」であったりします。

 ところで、こうしたFNで呼び合う30分ほどが過ぎて日常生活に戻ってみると、自分の名前が呼ばれることは、日本の日常生活ではまず無いことに気付きます。また自分も相手を名前で呼ぶことはありません。○○製薬の佐藤さんや田中さん、となります。名刺をもらっても、まず名前を記憶することはありません。これは仕事を離れても、親しい友人同士でも同様です。つまり日本では名前というのは、いわば日陰の身であってお妾さんのような存在です。実家に家族で出かけ家内が母に、「良輔さんが、−−」などと言い出されると、なんだかどこかがこそばゆくなってきます。毎朝の30分との落差が実に大きいのです。また、親しい方の奥様を呼ぶ時には本当に困ります。田中さんの奥様、と呼ぶのが慣例です。これを、田中さんのあけみさん、などど呼ぼうものなら大変なことになりかねません。しかしこれは実はおかしなことなのです。奥様も一人の独立した人間であって、決して名無しの人間ではないはずです。最近は、私も極力名前を呼ぶようにしています。

 さて、こんなことを考えるのは、日本の置かれた今の状況があります。2007年には人口が減少に転じ、2020年には4人に一人が65歳以上の高齢者となります。国の借金は現在でも440兆円余りといわれ、国が全ての面倒をみる時代は終わろうとしています。戦後のいわば、「分け合う社会」は完全に破綻しています。これからは、「取り合う社会」がやってきます。「分け合う社会」のルールが談合であったとすれば、「取り合う社会」のルールは何でしょうか?。損失補填や補助金をめぐる汚職事件のニュースを見るにつけ、この国の住人は未だに、『官を慕い官を頼み、官を恐れ官にへつらう』(以下、引用は福沢諭吉より)状態です。みんなが組織や国にぶら下がり埋没している限り、この国に未来はありません。今こそ、『立国は私なり、公に非ざる』ことを思い起こし、『一身独立して一国独立す』ることを肝に銘ずる時です。

 いささか大袈裟ですが、名前で呼び合うことが、もしそれぞれの人間のかけがいのない個性を呼び覚まし、常に自覚させるとすれば、これこそが、この国で一人一人が個性を発揮し、社会が生き生きと輝く出発点となるような、そんな気がするのです。



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