母の背中(1995年5月掲載)

 2009年1月現在、14年近い月日が経過しました。その日、母がくも膜下出血で倒れたのです。藤沢の市役所を訪れていた時に発作に襲われました。本当に運が良かったのです。異変に気付いた周囲の方が救急車を呼んでくださり、そのまま脳外科の病院で緊急手術。一命を取り留めました。

 外来終了後に車を飛ばして家族で病院に駆けつけたのが、つい昨日のような気がします。執刀医の先生から、「後遺症が残る可能性がある」というお話を伺い将来への不安を抱えていたものの、とりあえず危機を脱したことに安堵の思いでした。術後間もない母を病室に見舞った時の、母の体の小ささに驚きました。

1998年ホームページ掲載時

94年12月に母がクモ膜下出血で倒れました。

以前から高血圧でお薬を飲んでいましたが、まさに晴天の霹靂でした。自分が病人の家族になってみて、始めてその気持ちが実感できたように思います。人はその立場に立たないと、なかなか身に詰まされないものなのでしょう。

3歳で風邪をこじらせて以来、ずっと病弱でした。自分がまだ幼児の頃、母に背負われて病院通いをした頃を思い出しました。あれから40年近くが経とうとしています。

 昨年12月、母がクモ膜下出血で倒れました。市役所に午前中書類を取りに行って倒れたのです。見ていた人の話では、玄関を入った時から足下が心もとなかったようです。昼休みに父から電話があり、その後入院中の病院からも連絡があり緊急手術が必要とのこと。主治医の先生に、お任せしますとお願いしました。それからの5時間ほどの時間はとても長く感じました。午後の診療を早目に切り上げて、家族5人で車を飛ばしました。

 ようやくたどり着いた病院は、湘南海岸を少し入った所にある、江の島電鉄片瀬江ノ島駅のそばでした。病棟に行くと、さっそく担当の先生が説明をして下さいました。幸い手術は成功したが、後遺症が残るかどうかは経過をみてみないと何とも言えないとのこと。誠意の感じられる、とても信頼できそうな先生でした。その日見た母は麻酔から覚めやらないものの、それでもこちらの言っている事は分かっているようでした。とにかくその日はゆっくり休むしかありません。

 翌日行ってみると、母はかなりしっかりした受け答えが出来るようになっていました。「どう?」と聞くと、「背中が痛くって」「分かった、少しさすってあげるよ」。それから40-50分ほどでしたでしょうか、何だかやけに小さく感じられる、曲がった母の背中をさすったのです。私は3歳の時に風邪をこじらせて以来、病弱でした。幼稚園は入退院の繰り返しで、半分も通えませんでした。当時住んでいた埼玉県川口市の市民病院までの30分ほどの道程を、よく母に背負われて通いました。母の背中から見た街の風景は今でも網膜に焼き付いています。35年余り前のことです。その時の母の背中は大きくて頼り甲斐がありました。

 そんな母が70歳を目の前に倒れたのです。「もういいよ、疲れたろう。」と気遣う母の言葉に、当時の事が思い出されて思わず涙がこぼれてしまいました。「大丈夫。この背中におんぶしてもらって、よく病院に通ったね。早く元気にならないと。」その後、母は幸いにも後遺症を残す事無く回復しました。


小児期の思い出

 私の家族はもともと京都の出身でした。母方の祖父母は富山の出身でしたが、事情があって京都に移り住み両親は結婚しました。母方の祖父が野球のボールを作る会社を経営。戦後の一時期は羽振りが良かったようです。

 戦後間もない頃、京都でも野球が復活し、某大会で進駐軍のお偉いさんが始球式に来たそうです。そして、その時使われたボールが祖父の会社の製品だった、というのが母の取っておきの自慢話でした。その話を私が母から聞いたのは、小学校の頃でしょうか。生活のやり繰りから内職をする母から聞いた記憶があります。しかし、戦後の羽振りの良い時期は瞬くに過ぎ去り、会社はあえなく倒産。私の両親は伝手を頼って東京に出てきました。巣鴨に一時住んだようですが幸いにも夢の文化住宅、公団住宅の抽選に当選。めでたく埼玉県川口市に移り住みました。

 私の記憶を遡ると、一番古い記憶は家族で出かけた琵琶湖への水遊びのような気がします。どこか林か森の中を歩いているのです。聞くところによると、その時引いた風邪が原因で、その後私は病弱になったようです。

 その後の記憶は、川口の幼稚園の様子に移ります。放課後園庭に並んだ幼稚園生に一粒ずつ肝油ドロップを配っている場面です。ビタミンA不足による鳥目がまだ深刻な問題だったのですね。

通院の日々

 幼稚園、小学校と私は病院通いが続きました。遡れば琵琶湖から始まったとも言えますが、一時住んでいた巣鴨の頃でしたでしょうか、川口に移り住んでからか記憶が確かではないのですが、法定伝染病のジフテリアに罹ってしまい、今思うと都立墨東病院らしき病院に隔離入院となりました。当時何歳だったか、それもはっきりしないのですが小学校入学前だったように思います。今でも忘れませんが、家族揃ってタクシーで病院に乗りつけたものの、所定の時間になると家族は私を残して帰っていくのです。あの時の驚きは一生忘れません。

 子どもにしてみると、ずいぶんとだだっ広い病室、10床はあったでしょうか、に収容されているのは私たった一人なのです。ベッドからベッドへ飛び移っては遊んでいた記憶があります。

 小学校へ入学しても病院通いは続きました。気管支系が弱かったのか熱を出しては川口市民病院に通いました。川口駅の西口から徒歩10分ほどのところに住んでいましたが、市民病院は反対側の東口からやはり徒歩10分ほど。時おり母に背負われて東口の商店街を病院まで通った日々を鮮明に覚えています。道路の反対側にある商店がずいぶんと遠くに感じました。

 私に取っては母の背中はずいぶんと広く暖かなものでした。

母の病室にて

 手術を終えて病床に横たわる、そんな母の背中がずいぶんと小さく縮んで見えました。麻酔から覚めたばかりの母の背中に手を当てながら、そんな昔を思いだし、涙が止まりませんでした。

 幸い母は後遺症を残すこと無く全快してくれました。あれからも、大腸がんで開腹手術を受けるかどうかの危うい場面も切り抜け、今は元気で暮らしています。

 その後一緒に台湾旅行をしたり、最近では姉夫婦とも一緒に温泉旅行を楽しんでいます。

父との思い出

 父親というのは寂しいものです。自分自身のことを考えても、父との思いでとなると母と比較するとやはり数少ないものになります。といって父が子ども達との時間を大切にしていなかったというわけではありません。いやむしろ大切にしていた、と言えます。

 父に連れていってもらった今はなき後楽園球場で巨人の長嶋選手がホームランを打った事を覚えています。電車の都合で帰らなければならない間際だったように思います。会社に連れて行ってもらったこともありました。新宿にあった父の勤める会社は、子どもの私にするとずいぶんと大きなビルにありました。

 とはいうものの、やはり男通しというのは言葉が少ないものです。進学問題で私が岐路に立った時など父にしてみれば相談に乗ってやりたかったに違いありません。しかし医学の道に進もうと考えていた私のことは、父にとってはまるで宇宙人のように映ったに相違ありません。助言のしようもなかったでしょうし、私も求めるつもりもありませんでした。

 医師になってからも同様です。やはり男にとっては異なる仕事の世界は別世界になってしまいます。傍らで黙って応援してやることしかできなかったのでしょう。

 そんな父も昨年の誕生日で85歳になりました。何歳頃でしたでしょうか、男盛りの父はある時体を鍛えるためにエキスパンダーを始めました。その甲斐あって立派な胸板になりました。私にとって父は、あの立派な胸板を持った家族を支える力強い父だったのです。

 そんな父もここ二三年は足腰の衰えが目立って来ました。今まででしたら、ひょいひょいとどこまでも歩いていた父が、歩くことに辛さを覚えるようです。昨年辺りからは一緒に温泉に入っても、足元が心許なくなり、転びやしないかと腕を取らないと心配なほどです。

 とは言っても、80を越えた二人が色々病気を繰り返しながらも、姉の助けを借りつつも、元気で生活してくれていることがどれほど有難いかは、様々なテレビドラマを見る度に痛切に感じる今日この頃です。

 こうして両親との思い出を辿り直してみると、親の有難さを今更ながら痛感するばかりです。今夜、電話でもして様子を聞いてみましょうか。


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