2011年8月31日(水曜日:晴れ)


今朝の沼津朝日新聞、言いたいほうだい欄に掲載された原稿です。ニューウェルサンピア沼津でお風呂に入った時の体験です。色々な読み方があると思います。今時の若い父親はどうしようもない、とか。親の教育力の無さを嘆く声も聞こえてくるのですが、私が一番伝えたかったのは、少年の勇気です。

 父親に、いわば逆らってまで自分が正しいと判断したことを貫く勇気。少年は間違いなく人生の階段を一段上がったのです。


父と子

 ある温泉施設での出来事です。身体を洗って露天風呂に入ると、小学校二、三年生でしょうか、たった一人で少年が湯船に入っていました。何気なく会話が始まりました。

「僕、家族で来たの?」
「はい。お父さんとお母さんの三人で来ました」
「どこから来たの? 車で? 混んでなかった?」
「神奈川の相模原からです。東名は混んでいました」

 そこで、私はあることに気付きました。少年がタオルを着けたまま湯船に入っていたのです。少し迷ったのですが、少年にこう伝えました。

「僕、湯船の中にタオルは入れないほうがいいよ。みんなが入るのにお湯が汚れるからね」

 少年はさっそく素直にタオルを湯船から出しました。しばらくすると父親がドアを開けて入ってきました。そしてタオルを着けたまま湯船に入ったのです。父親と並んで湯に浸かっていた少年は、父親にこう問いかけました。

「お父さん、湯船の中にタオルを入れていてもいいの?」
「別に、かまわないさ」

 二人と対面する形で湯船に浸かっていた私は、少年がどうするかを何気なく観察していました。父親の返事を聞いた少年は、一瞬戸惑ったものの、外に出したタオルを再び湯の中に入れようとはしませんでした。

 やがて湯から上がり脱衣所で再び、その親子と一緒になりました。父親が外へ出た後に、冷たい水を飲むために残っていた少年にそっと近づいた私は、こう言ったのです。

「僕、偉かったね」

 少年は少しはにかみながらも嬉しそうに出ていきました。

 玄関脇のソファーで休んでいると、少年が両親に手を引かれて駐車場へ向かって歩いていました。来た時と同じように両親と一緒に楽しく家に戻ったに違いありません。しかし、心の中には来た時とは違う何かが芽生えたはずです。今まで知らなかった世界を垣間見たからです。
  
 三十年後、彼自身が親となり自分の子どもを連れて湯船に入る時、彼ならば、きっと私の言葉を思い出してくれるに違いない、と私は信じています。その時、私はもうこの世にはいないでしょうが、一人の少年の心に小さな、しかし新たな光を灯した、この夏の出来事は、私の心の中にも消えることのない大切な思い出を残してくれたのです。