素材の時代(1998年1月掲載)

 11年前の原稿ですが、ここで触れているネット書店、アマゾン・ドット・コムの躍進が現実になりました。あの頃、本は本屋さんで買うものでした。しかし、今どれほどの割合が書店で販売されているのでしょうか。

 自分自身のことを考えても、地元の書店で購入するよりも、ネット書店で購入する方が多いのは事実です。欲しい本を検索でき、しかも確実に注文できる、という点は何にも代えがたいものがあります。さらに一定以上の注文額であれば送料無料です。

 包装から発送まで裏方として働いている低賃金の労働者の事に気付くことはありません。便利でありさえすれば消費者としては有難いのです。消費者とは、わがままなものです。

 いつまで継続可能か、いつ潰れるか、と影で囁かれていたアマゾン・ドット・コムの将来を危惧する声は、今や聞こえなくなりました。そしてアマゾンはネット・ショッピング・センターという枠をすでに越えて、クラウド・コンピューティングと呼ばれる壮大なネット・サービス・センターになっているのです。

(2009年1月)

ホームページ掲載時コメント

 最近の雑誌類を見ると、やたらと「コンテンツ」という言葉が飛び交っています。日本語では素材と訳されています。デジタル・コンテンツの時代、などといわれます。実態が良く分からないのは、こうした外来語で分かったような気分になっている多くの場合と同じです。

 地方分権の時代、などと地方がもてはやされていますが、ようは自分達で勝手にやりなさい、ということ。横並びから自立へ、ということでしょう。しかしそうなると、何も発進できる素材を持たない地方は本当に埋もれてしまいます。素材が無い、などということはありえないのですが、われわれはどうも自分の意見を述べるとか、人の意見にコメントする、ということに慣れていません。

 そして極めつけは受験勉強です。あまりごちゃごちゃ考えるより、丸暗記したほうが確実です。そんな教育のもとで、自分なりの素材を発進するのはかなり困難です。何とか変えていかないと、本当に日本のそして沼津の将来は暗いと考えざるを得ません。

 素材の時代、といっても今はやりのグルメ番組の話ではないのです。98年度は日本においてもインターネット利用者人口が一千万人を突破しようとしています。アメリカでは五千万人に接触できるメディアを、メスメディアと呼ぶそうですが、ラジオで38年、テレビは13年かかってこの数字を突破。ところがインターネットは94年からたったの5年でこの数字を越えようとしています。

 あるアメリカのオンライン通販書籍販売ベンチャーは、物理的な書店では不可能な二百五十万冊という膨大な書籍のデータベースを用意し、24時間体制で注文に応じています。その売り上げは、3ヶ月ごとに30-40%も増加。こんな例はアメリカでは事欠きません。日本では残念ながら、通信費がアメリカに比べてかなり割高なため、なかなかこうした爆発的な広がりは見せていません。しかし、それもやがて時間が解決するでしょう。

 情報を検索する単なる巨大な図書館とだけ考えるか、それとも一市民として世界中の一億人以上の人間に情報を発信できる媒体としてインターネットを考えるかの違いこそ、実はその時点で最も大切な点だと私は考えるのです。地方分権が叫ばれて久しいのですが、その意味するところは、霞ヶ関で全ての面倒をみるのはもう不可能だから、それぞれ勝手にやりなさい、ということです。そうなると、地方によって明らかな格差が生じます。そこに住む人間がどれだけ発信できる自分なりの素材を持ち加工、表現できるか。そこに人が集い産業が生まれるわけです。

 といっても、ことさら高価な素材が必要なわけではありません。必要な素材はどこにでも転がっています。私の好きな与謝蕪村の句、「凧(いかのぼり)きのうの空の有りどころ」のように、凧も空もずっと昔からあったのです。それを自分固有の感受性で捕らえて表現する。それこそが、これからの私たちに求められていることではないでしょうか。学校での教育がともすると、受験優先から芸術教育がおろそかにされているのは、その意味からも日本の将来にとっては由々しき問題だと私は考えるのです。子ども達が常に発信する心で素材に接することができるかどうか。沼津の未来はそこにかかっているのです。



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