長老(1996年7月掲載)

 2020年には私自身も65歳以上の高齢者になります。あと5年で自分自身が還暦とは想像もできません。しかし、年をとることは誰も避けることができません。肉体的にも精神的にも衰えていく現実。

 一方、10年前には経験不足から理解できなかった人生の哀歓も、今ではしみじみと心に迫ってきます。情感という面から見れば、ずっと豊かになっている自分を感じます。人生や家族が以前よりずっと愛しいものになっています。

 これから先、人生をどのように実りあるものにしていくか。子ども達が次々と自立していくこれからの数年は、自分にとっても人生最後の曲がり角なのでしょう。

(2009年1月)

ホームページ掲載時コメント

 急速なスピードで高齢化社会が進んでいます。2020年には4人に一人が65歳以上の高齢者になります。年を取るということは、成熟するという反面、体力や気力の低下など、マイナス面も当然多くなります。

 高齢者が尊重され、物質的な面だけでなく、精神的にも幸福感の得られる社会を、どうすれば築き上げることができるでしょうか。やはり社会的な「仕掛け」といったものを考えることが大切ではないでしょうか。

 長老とは広辞苑によれば、『その方面で経験を積んだ、頭(カシラ)立った人』とあります。映画「七人の侍」を観て、私が大変印象深かったのは、野武士が襲ってくると分かった村人達が、水車小屋に住む長老を大挙して訪ねる場面です。どうしたらよいか、助言を仰ぐためなのです。スイッチを入れれば、あらゆる情報を容易に入手できる現代社会と異なり、当時の農村社会では長老の経験が大変貴重であったわけです。

 2025年には人口の四分の一が高齢者になろうという現在、「七人の侍」の時代ほど高齢者が尊重されているとは、残念ながら言い難いようです。年を取るということ、経験を積み重ねるということが、かつてのように貴重な財産として評価されなくなっているのです。日進月歩で進む現代の技術革新を、若者ほど容易に身に付けることのできない高齢者は、社会の進歩から取り残される可能性が大きいのです。特に、いったん現役を退いた高齢者にとっては、社会の中での自分自身の位置づけ、あり場所を確認する作業は、多くの苦痛を伴いがちです。高齢者自身の努力だけでは、高齢者が尊重される社会はやってきません。人生の先輩として、その貴重な経験が若者達にとってかけがいのない財産になるような、そんなシステムを社会に作り上げることがまず必要ではないでしょうか。

 先輩達の人生から、それは自分の親をも含めて、学ぶべき情報をきちんと我々が手にしているとは言い難いのです。人がおのれの人生について語る事はごく稀ですから、よほどの著名人か作家を除けば、その人生を知ることは大変困難です。生きてきた軌跡を知ることから、互いの理解が始まるのです。

 そこで人生のデータベースともいうべきこんなシステムを沼津で作ったらどうでしょうか。書くことは人によりかなりの苦痛を伴いますが、語ることは少しは容易なものです。高齢者の人々に語ってもらった内容をすべてデジタル化し、図書館のコンピュータに蓄積、電話回線を通じて市民の誰もが容易に検索できるようにするのです。

 たとえば、「原地域の昭和10年代」というキーワードで検索すると、大塚のAさんが貴重な経験を語っているのが分かる、というシステムです。現在の技術を持ってすれば、実現困難なものではありません。書籍を通してだけでなく、具体的な生きた経験を通して、地域をそしてそこに住む人々を知ることにより、身近な高齢者に対する尊重の念が生まれるのではないか。高齢者が尊重されない社会というものは、誰にとっても不幸なものです。入力された情報はみんなの財産なのです。

 こんなシステムがあれば、地域がもっと生き生きとした触れ合いの多いものになるのではないでしょうか。



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