■ 「すこやか 誌」 → 由来

 何もここで、シェークスピアを論じるつもりはありません。眼の一生を考える時、マクベスの中で語られるこの言葉こそ、まさに正鵠を射ている、と私は思うのです。

 生まれたばかりの赤ちゃんは、我々と同じようにものを見ているわけではありません。誕生直後から物を見つめる反応はあるものの、2か月くらいから両眼で物を見つめられるようになり、3か月くらいで動く物を目で追うようになります。そして、半分以上の子どもが、3歳で1.0 見えるようになり、6歳になると大部分の子どもが大人と同じ視力を持つようになるのです。「自然は経験を必要としない」というユクスキュルの言葉は、少なくとも視機能には、当てはまりません。

 遠視の状態にある赤ちゃんが、眼球の発育にともなって正視に向かい、やがて学校での生活と共に近視化していくことが多くなってきています。そして、成人期での安定期を経て、中年以降は老視と軽度の遠視化プラス乱視化がやってくるのです。こうした眼の自然経過というものを理解しておくことは、極めて大切です。

 昔は中学生になってから近視化し眼鏡装用し始めたものですが、早熟化に伴い、最近では小学校高学年から近視の眼鏡を装用し始めることが多くなってきました。「子どもの目が悪くなって困っています」という母親の声を、この頃から頻繁に聞くようになります。しかし子ども達はそれほど不便を感じていないことが、意外と多いのです。急激に近視が進むことは稀ですから、なんだか見にくいな、とは思いながらも、かなり進んでからでないと、「見えない」とは子ども達は言いません。したがって、「子どもは、見えるといっています」という母親の言葉は、あまり参考になりません。「遠くを見るとき、目を細めませんか?」、あるいは、「家にいる時、テレビに近付いて見ませんか?」と尋ねてみると、「そういえば、近付きますね」という答えが返ってきます。テレビは近付けば見えますが、黒板はそうはいきません。授業のたびに、黒板に近付くわけにはいかないからです 。必要であれば躊躇することなく、授業中に眼鏡を装用させることは、授業内容をしっかりと理解させる上で、必須なのです。

 試しに、子ども達に眼鏡を装用してもらうと、「良く見えます」と感動したように答えます。見えることの素晴らしさを実感した子ども達は、もはや眼鏡装用に躊躇しません。遠くが良く見えるというのは、実際感動ものなのです。逆に、遠くがしっかり見えないと、季節の変化など、周囲に対して無関心になるので要注意です。

 しかし、近視の眼は果たして、「悪い目」なのでしょうか?

 ちなみに、私は中等度の近視であり、眼鏡を掛けないと0.1 もあやしいほどです。従って映画を観たりスポーツをする時は、大変困ります。学生時代、真夏に眼鏡をしてテニスをしていたおり、試合途中で汗のため眼鏡が外れて飛んでいってしまった時は、まさにお手上げでした。今では使い捨てのソフトコンタクトレンズの出現により、こうした悲喜劇は無くなりました。(ただし、使い捨てのコンタクトレンズによる眼障害例が、それも角膜潰瘍にいたるほど重傷の患者さんが、ここ数週間の間に驚く程の頻度で来院されています。なんらかの形で、広く警告がなされる必要を感じています。)

 近視の人にとって、眼鏡はまさに命綱。大学時代に観た映画「パピヨン」の中で、近視の主人公を演じたダスティー・ホフマンの眼鏡が踏み割られた瞬間、主人公と共に思わず悲鳴を上げたことを、つい昨日の事のように思い出します。40代後半になるまで「近視は悪い目」だ、と私も思っていました。

 ところが、老眼の年代になって気付いたのは、自分の目で本が読める、ということのありがたさでした。寝床に入り眠りに付くまでの30分ほど、毎晩好きな読書ができる幸せを痛感しています。若い頃、近眼にもめげず勉学に励んだご褒美を、今になって頂いている思いです(本当かな?)。

 一方、40代後半となり夕方になると、眼がシバシバする、眼を開けていられない、眼の奥が痛くなる、肩が凝る、頭が痛くなる、などなどの症状を訴えて、毎日たくさんの患者さんが来られます。「眼の良さだけには、自信があるのです」というのが、こうした患者さんたちの決まり文句です。若い頃視力の良かった遠視の人には、老視の症状がより早く、そしてより強くでるのです。

 若い頃の取り柄が中年以降は重荷になる一方、若い頃日常生活にはハンディとなっていた近視が中年以降はおおいに助け船となる。まさに、「良いは悪いで、悪いは良い」のです。シャーロック・ホームズを生み出したコナン・ドイルが眼科医だったことは、知られざる歴史的事実ですが、これほど眼の自然経過に通じたシェークスピアも、ひょっとすると眼科医だったのではないか、と想像してみたい誘惑に駆られるほどです。

 さて、この言葉は何も目に限ったことではありません。日本ではフロンと呼ばれる、今ではオゾン層破壊の元凶としてやり玉にあがっている科学物質も、以前は科学技術のヒーローだったのです。物語は1928年アメリカ、ゼネラルモーターズ社の技師ミッジリーが電気冷蔵庫の冷媒として当時用いられていたアンモニアに代わって、より安全なガスを開発したことに始まります。1930年に開かれたアメリカ化学会で、発明した物質がいかに無害・無毒であるかを示すために、彼自ら胸一杯にこのガスを吸い込み、ローソクの炎の上に吐き出して消して見せたのは有名な逸話です。冷却媒体としてすばらしい性能をもつこのガスはただちに工業化されることになり、デュポン社の協力を得て「フレオン」の名で商品化されることになりました(「フロン」は和製英語)。

 大気中にあるフロンが分解するのは、高度35-40kmの上空のみのため、地上で放出されてから大気中を漂い分解されるまでに要する時間は、実に平均20-30年かかるといわれています。つまり、現在オゾン層を破壊しているフロンは、ほぼ1970年よりも前に地上で放出した分なのです。その後に放出した2,000万トンにも及ぶフロンは、まだそのままの姿で大気中を漂っているわけです。それらはこれから上部成層圏に達して、オゾン層破壊に荷担していきます。20世紀のヒーローが、癌の発生を増大させることなどにより、今や人類の生存を脅かしているのです。

 一方、ビジネスの現場に欠くことのできない、ポスト・イットと呼ばれるアメリカ3M社の製品誕生の物語は、まさにその逆をいくものです。物語は1969年に始まります。3M社中央研究所の研究者スペンサー・シルバーは、接着力の強い接着剤の開発要求を受け、実験を繰り返し試作を重ねるうちに、ひとつの試作品を作りあげました。ところがテスト結果は期待していたものとは全く違っていたのです。「よくつくけれど、簡単に剥がれてしまう」、なんとも奇妙な接着剤ができあがりました。接着剤としては明らかに失敗作でした。しかし、彼はこう確信したのです。「これは何か有効に使えるに違いない!」1980年の全米発売に至る悪戦苦闘の月日が、こうして始まったのです。1974年のある日曜日、教会の聖歌隊のメンバーであった同僚のフライは、いつものように讃美歌集のページをめくりました。すると目印に挟んでおいたしおりがひらりと滑り落ちてしまいました。またか…と思った瞬間、フライの頭の中にひらめくものがありました。「これに、あの接着剤を使えばいいんだ!」5年前にシルバーが作り出した奇妙な接着剤の用途が、この時初めて具体的なイメージとなったのです。翌日からフライは、「のりの付いたしおり」の開発に取りかかったのです。役に立たないと思われていたこの接着剤が、試行錯誤の末、世界中で欠くことのできない製品に、やがてなっていったのです。

 フロンとポスト・イットの物語も、「良いは悪いで、悪いは良い」の具体例なのです。そして、この言葉はなにも物に対してだけ当てはまるわけではありません。ごくごく身近かに起こっていることだけからも、この言葉の持つ奥深さは容易に察しが付きます。一見、品行方正、学術優秀と思われていた子どもが親に毒を盛る一方、学習障害、ひょっとすると知恵遅れではないか、とさえ思われていた子どもが、立派に自分自身の道を見付け出し、着実にその道を歩んでいる姿に、成人式でしばらくぶりに会って驚くことは、珍しいことではありません。私たちの持つ判断力など、実は高が知れているのだ、とシェークスピアは教えてくれているのかもしれません。シェークスピアは、まさに人類の偉大な教師なのです。