20170911(月曜日:曇)

積丹半島の美しい海です。最高の青空でした。

■今朝は走りました。昨日は新沼津カントリークラブで楽しい時間を過ごしましたが、いささか疲れました。それでも昨夜は早めに休んで今朝に備えました。

5.69km を走り、これで今月は総計 43.75km を積み重ねました。兎にも角にも、積み重ねていくしかありません。

■土曜日はNonちゃんと夕食を取りましたが、フィットネスクラブに入会したようで、トレーナーの作成してくれたプログラムに基づいて、鍛錬を初めたようです。90分単位で行うようです。

私自身は、残念ながらそうした機会がないので、完璧な自己流です。走る前後のストレッチも自己流、走る距離も、何もかにも自己流です。本当はそれではいけません。

ただ今のところは、それが自分には合っているようで、特別の筋トレなどもしていないのですが、腹も出ることもなく、腰回りの筋肉は次第に増加しています。体脂肪率は低下し、13% を超えることは無くなりました。

血液所見も、以前のように悪玉コレステロールが高いので乳製品は控えよう、といった食事制限は一切する必要が無くなりました。早寝早起きだけを心がけています。単純そのものです。

■先日の東京新聞に、みんなの広場という紙面で、「長生きは幸せか」という特集を掲載していました。実に不思議な特集です。なぜかというと、長生きは喜ぶべきことなのは当たり前だ、とこれまでは考えられてきたからです。なぜなら、長生きできることは稀なことだったからです。宝くじに当たるようなものですから、当選して喜ばない方がおかしい。長生きも、これまでは宝くじに当たるようなものだったのです。

ところが平均寿命が男女とも80歳を超え、人口の四分の一が65歳以上という、超高齢化社会になると話は違ってきます。俗に言うピンピンコロリで全ての人が旅立てるのなら、こんな質問は愚問でしょう。そうはいかないから、こんな質問が俄然重みを持ってのしかかって来るのです。

私自身も両親や、平均寿命からすればまだまだ若い姉をガンで亡くしました。死というものが本当に身近なものとして、まるで霧の中から死神のように現れてきたのです。そして私にこうささやき始めたのです。「次はお前の番だ」と。

歌人の岡井隆さん、作家で医師の久坂部羊さん、そして社会学者の立岩真也さんが、それぞれの立場から意見を述べられています。

ただ一つだけの正解など、もちろんありません。久坂部羊さんが言われているように、幸せの定義は自分の心が作るもの、ですから、他者が幸・不幸を決めることはできません。しかし現実は、そんな通り一遍の話を飛び越えているのです。医療の進歩は想像を超えています。昔なら、とっくに旅立っている人々が、いわば生きながらえています。

それは素晴らしいことなのですが、生きていれば良い、と言い切れないところが苦しいところです。

自分はどうするのか。考えても、考えなくても死はもう背中まで迫っているのです。在原業平が辞世の句として詠んだように、

ついに行く 道とはかねて 聞きしかど

 昨日今日とは 思はざりしを

なのです。

と、いうことで、私自身は毎日アーモンドを10粒食べて、22時には床に入って、朝5時には起きて、毎月 100km を走り続けているのです。他に取るべき道など私には思い浮かびません。頼まれた役は極力引き受けて、与えられたチャンスは極力逃さないようにして、健康に気をつけて、家族や仲間と仲良く楽しく過ごすしか、私には取るべき道は残されていないように思えるのです。