■20180930(日曜日:曇)

 

 

■静かな朝です。起き出した6時20分現在では、沼津の空には、ほんの少し青空すら見えるほどです。風もほとんど無く、奇妙に静かな朝です。テレビのニュースを観ると、沖縄や奄美地方では暴風雨に見舞われ大変な状態です。こちらは午後から大荒れになりそうです。

 

今日予定されていた県眼科医会のゴルフコンペも中止になりました。致し方ありませんが、二度も続けて台風で中止というのも、めったにあることではありません。誰か雨男ならぬ台風男がいるのでしょうか。

 

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■さて昨日TakuとYukoさんが新婚旅行に出かけました。結婚式が終わって二ヶ月が経ちましたが、Takuの仕事の関係で、今の時期になったようです。Sunと私が結婚式を上げたのが、1982年2月27日でしたから、丸々36年が経っています。式を挙げて、その夜にスペインに向かって新婚旅行に旅立ちました。

 

今年は本当に色々な事が立て続けに起こった年として記憶される年になりました。三人の子ども達が、それぞれ家庭を持ちました。私は思いもかけず県眼科医会の副会長を仰せつかりました。そして私ども夫婦の仲人をしてくださった元教授が亡くなられました。とにかく色々なことがあり私どもの家族に大きな変化があった年でした。

 

子ども達が家庭を持てば、今までのように一緒に時を過ごすことは困難になります。当たり前です。それで良いのです。親は親で自分自身の人生を生きていくしかありません。先日もNonちゃんと話をしたのですが、三人の子ども達を授かって本当にありがたいと思うのは、夫婦の間に何があっても、どんなに刺々しい会話にたとえなったとしても、最後は子ども達の小さかった頃のことを二人で思い出しては、笑って終わることができるという点です。

 

三人の子ども達は、三者三様でした。それぞれが違う個性を持ち、異なる反応を示し、別々の問題で頭を痛めました。今思うと気付いてやれなかった点も多々ありました。二人して、もっとこうしてあげれば良かったね、と反省することも、しょっちゅうです。でも誰でも親は、その時点では新米なのです。

 

今こうして子ども達が家庭を持ってみると、冷静に昔を振り返ることができ、腹を抱えて笑うこともできるのです。もちろん、それぞれが私達の思い通りになってくれたわけではありません。でも三人が三人とも、自分の意思でそれぞれ自分の道を歩んでいる姿は、頼もしくさえあります。それで良いのです。

 

親にできることは、静かに応援してあげることしかないのです。

 

■いま久しぶりにホームページのバックアップを取っています。アメリカの会社から、日本の「さくらインターネット」に昨年、住所を移動しました。つまりは情報を移したこということです。さくらインターネット社は、先日の北海道地震でもコンピューターを止めること無く停電を乗り切ったとして賞賛されました。24時間365日ダウンの許されないサーバー(情報提供コンピューター)を運営しているのですから、当然と言えば当然なのですが、実行は難しいのです。

 

久しぶりでしたので、なんと 12,265個のファイルをバックアップする必要がありました。いま手元のHDDにコピーを取っているところですが、いつまで経っても終わりそうにありません。それだけのファイルを掲載した、ということです。つまりはアウトプットしたのです。毎日、毎日ブログを更新し、そして旅行に行く、マラソンを走った、Takuが結婚式を挙げる、などなど大きな出来事があれば、その度にまとめのページを作成していくと、そんな数になってしまうのです。

 

これをデジタル遺産というのでしょう。遺産と言っても何の役にも立ちません。ただ生きてきた証にしか過ぎません。単なる自己満足です。

 

自分自身の両親が亡くなってみて思うのは、実は両親のことを自分はよく知らない、ということでした。とても奇妙なことです。親がどこで生まれて、どんな若い時代を送ったのか、そしてどうして知り合って、どんな経緯で家庭を持ったのか、などなど、考えてみると知らないことばかりです。毎日同じ屋根の下で暮らしていたのに、なんでそんなことも知らなかったのか、と思うのですが、その通りなのです。

 

自分自身が親になり、子育ても一段落してみると、不思議なことに今度は自分の親について知りたくなるのです。ところが知るすべがありません。残っている写真を見ることぐらいしかありません。それも、ほんの僅かです。

 

デジタル遺産も、それぞれの子ども達が家庭を持ち、様々な問題を乗り越え、子育ても終わり、晩年と言える年代になった時に、少しは参考になるのかもしれません。

 

■午前10時38分現在、西の空が薄暗くなってきました。いよいよ台風の影響が出てきたようです。雲の切れ間から青空すら見えるので、もう今月は100キロの目標は達成していたのですが、軽く走ってきました。5.10km を走り、今月は総計 107.66km を積み重ねました。それにしても暑くて参りました。蒸し暑いのですキロ6分24秒ですから自分としては悪くありません。走っている感じでは、キロ7分半ぐらいかと思っていました。足取りが重かったのです。

 

走り終わってストレッチをしていると、汗が滴り落ちてきます。その汗の程度で気温や湿度を実感できます。お陰でシャワーを浴びた後での体重測定では、57キロ台の体重でした。体脂肪率は13%ですので、まぁ中間値というところでしょうか。

 

■さて日曜日の新聞では、読書欄が充実しています。「書く人」の欄では、脚本家 内館牧子さんの「すぐ死ぬんだから」を取り上げています。副題は「高齢者こそ見た目」です。内館牧子さんが80代が集まる場に行く機会があった時に、若く見える人と老けて見える人、見た目の差が激しいことに驚くと同時に、そんな後期高齢者を観察していて気付いたのは、

 

「どうせ死ぬんだから」という台詞が何もしない免罪符になっていること

 

だったというのです。そして、こう言われています。

 

「こんな便利な言葉はなくて、そう言うと全部どうでもよくなり、自分を楽にする。おしゃれする必要もない。でも、そういう姿を見る娘や息子は嫌ですよね。いつまでもお母さんはきれいで、お父さんもかっこよくいた方がいい。反対する人はいっぱいいるだろうけど、年を取ったら『見た目ファースト』っていう話を描きたかった。高い物を着てるとか顔がいいとかじゃなくて、いかに自分に手をかけているか」

 

私も毎日たくさんの高齢者を診察していて思うのは、年を取るほど格差が生じるということです。しかし、その差の大部分は、実は経済的な格差よりも、自分にどれだけ手間ひまをかけているか、という点の差であることに気付くのです。どうせ死ぬんだから、とだらしなくなってしまうのです。

 

人は死ぬ瞬間までは生きているのです。その瞬間までは、自分自身に手をかける義務があるのです。だらしなくなってしまっては、周りの人に迷惑をかけるのです。できるだけ迷惑をかけずに生きることが大切です。可能な限り。

 

自分に手をかけることは自分のためでもあるのです。

 

外見は内面に作用し、見た目が変われば生きる姿勢も変わる。おしゃれな高齢者は周囲の人も気持ちよくさせる。

 

のですから。最後に記者は、こう書かれています。

 

『終わった人』刊行後の取材で、品よく老いるために必要なものを問うた私に、内館さんは「美意識」と答えてくれた。今作の登場人物は、その具体像を示しているようにも思えた。

 

そのとおりだと思います。その人なりの美意識です。同じである必要はありません。

 

最後に、じゃあ、お前の美意識は何なのだ、と問われれば、「メタボにならないこと」と答えます。そのために毎月100キロのランニングを自分に課しているのです。旅立つその瞬間まで、娘達にメタボな自分などはさらしてはいけない、という一心で自分を律しているのです。それが私の美意識なのです。