■20190216(土曜日:晴れ)

ゲレンデの途中にある白樺の木です。滑っていても、これがわかりやすい目標になります。

■今朝は走りませんでした。Sunが東京での仕事のために6時40分の電車に乗らなければならず、私が駅まで送っていったのです。走ってしまうと間に合わなくなってしまいます。玄関を出て富士山を見ると、いつもの年ですと真っ白な帽子をかぶっているのですが、もう今年はほとんど雪がありません。1月にほとんど雨が降りませんでしたから、致し方ないのでしょう。あの程度の雪の降り方で、富士山からの湧き水の量が維持できるのか心配になるほどです。

■週刊現代に掲載された「カレーハウスCoCo壱番屋」の創業者、宗次徳二氏の記事には色々考えさせられました。70歳の宗次氏の人生は、まさに波瀾万丈でした。実の両親も知らず、物心がついたのは、兵庫県尼崎の孤児院でした。三歳の時に尼崎で雑貨屋をしていた、宗次夫婦に引き取られました。養父がギャンブル依存症のために有り金を使い果たし、生活破綻の状態でした。電気もなく、家具と言えばリンゴ箱が唯一の家具だったそうです。ろうそくの明かりで生活をしていました。宗次氏は連れて行かれたパチンコ屋で落ちている吸い殻を拾うように言われ、タバコが好きだった養父のために、ポケットいっぱいに拾い集めると、父は喜んでくれたそうです。宗次氏は、こう語っています。

父には父なりに私への愛情があったのだと思います。怒ることはあっても、出ていけとは一度も言いませんでしたから。だから、父への恨みは一切ありません。自分が不幸だとも思いませんでした。当時は日本全体が裕福ではありませんでしたし、他の家庭がどうなっているのかも知りませんでしたから。ただ、父が喜ぶ顔を見るのがとても幸せな時間でした。

高校卒業後、就職した不動産会社で知り合った妻に喫茶店をさせて、自分は不動産業を続けようと思っていたそうです。ところが、喫茶店オープンの当日、喜ぶお客さんの笑顔を見て飲食店経営に心を奪われ、その日の夕方には不動産業を廃業し喫茶店を手伝う、と決心したそうです。独特の営業方針の為に名古屋ではなかなか受け入れてもらえず、生活も決して楽ではなかったようです。場末の喫茶店の店主だった宗次氏が、最初に作った標語が「お客様/笑顔で迎えて/心で拍手」でした。宗次氏は、これは私にとって「日本一の標語です」と語られています。

やがて、喫茶店の経営も軌道に乗り、3号店を出されました。それはカレー専門店でした。妻の作るカレーが、喫茶店で好評だったのが始まりだそうです。カレー専門店を出すにあたり、東京の有名カレー屋を食べ歩きましたが、宗次氏が出した結論はこうでした。妻の作るカレーが一番美味しい。「ここのカレーが一番や」。CoCo壱番屋の誕生です。

開店から四十一年経った現在では、全世界に 1,500 店舗近くを展開するまでになりました。宗次氏は、こう語っています。

二十五歳から五十三歳で引退するまで、真面目にコツコツやっていたら、知らない間に大きくなっていたというのが実感です。毎期の目標を必達でいくために、まずは誰より自分が一生懸命になろう、と思ってやって来ました。失敗する経営者は、途中でよそ見をしたり、油断したりしたのではないかとしか考えられないのです。だって、私みたいな人間でも、やり続けたらこうなったのですから。

53歳で引退後はハウス食品に持ち株を譲渡した私財をもとに、困っている人達を助ける活動を続けています。宗次氏はこう語っています。

妻と稼がせていただいたお金は、自分たちのものではなく、一時預かりという形にして、世の中に返していこうと決めていました。

記事は最後に、こう結んでいます。

宗次氏の生き方は、りんご箱越しに養父の笑顔を見た幼少時代から変わらない。だから、今日もコンサートホールの前に立ち、笑顔で人を迎える。心の中で盛大な拍手を打ち鳴らしながらーーー。

宗次氏と同じように、辛く壮絶な幼児期を送った人間は、とても多いはずです。こどもの頃に受けたトラウマが、その後の人生を狂わせてしまう、とはよく言われることです。しかし、当然のことながら、全員がそのトラウマのために歪んだ人生を送る訳ではありません。「嫌われる勇気」を読んでいて、そこに書かれていたこと。アドラーは決してトラウマを認めなかった、そのトラウマを本人がどう解釈するかが大切なのだ、という言葉を思い出しています。