■20190521(火曜日:豪雨)

 

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昨年Melbourneを訪れた際に投宿した Swanston Hotel です。隣が有名なチョコレート屋さんです。

 

■今朝はゆっくりと休みました。昨夜の天気予報では、今日の昼までは大雨の予想です。その予想通りに、昨夜から降り始めた雨は、午前7時4分現在、激しく降り続いています。 予定されていた小学校の遠足も午後からに延期されたようです。こんな時はジタバタしても致し方ありません。静かに雨音に聞き入るか、黒い雲に覆われた空を眺めるかしかありません。

 

■さて今朝の朝刊には、「裁判員・強制起訴施行10年」と題して記事が掲載されています。共同通信が行った全国の裁判員経験者へのアンケート調査によると、「判決に市民感覚が反映された」と回答された方が92%でした。こうした市民が参加した判決を、裁判官だけで審理する控訴審が覆す割合が、昨年は1割を超えています。「経験してよかった」が87%、「ある程度」が11%となり、ほぼ全員が肯定的な評価を示しています。「裁判員制度を続けるべきだ」としたのは84%。「やめるべきだ」は3%。「分からない」 は13%でした。

 

私は裁判員制度を経験したことはありませんが、アメリカの制度である陪審員制度を描いた名作「12人の怒れる男」を何度も観ていますので、少しは想像できるのではないかと思っています。陪審員制度では、有罪か有罪でないかを、12対0になるまで議論を続けて決着をつける方式のようです。 有罪か無罪かを決めるわけではないところがミソでもあります。 映画の中では何度も「reasonable doubt 」 という言葉が語られます。 つまり、どう考えてもおかしいという点が拭い去れないのであれば、それは有罪にはできない、という考え方です。 被告は有罪であるということを立証する責務が、検察官にあるのであって、自分自身が無罪であることを立証する責任が、被告にあるわけではないのです。その点は憲法に保障された個人の権利であると、映画の中では陪審員の一人であるヘンリー・フォンダが語っています。 法律には、もちろん私は詳しいわけではありませんが、映画を観ながら思うことは、この点がアメリカと日本では違っているように感じるのです。 まさかそんなことはないとは思いますが、日本では自分自身が無罪であることを被告自身が立証しない限り、有罪になってしまうのではないかとすら感じてしまうのです。

 

アメリカのテレビ映画「Law and Order 」を観ていると、アメリカの容疑者がまず言うことが、「弁護士を呼んでくれ」です。アメリカでは弁護士の立会いを要求することは、当然の権利なのです。残念ながら、日本では異なるようです。 そして裁判所で、まず決めなければならないことが、保釈するかどうかの決定です。検察官が勾留請求の理由を述べ、それを裁判官が勘案して保釈するか勾留するかの決定を下します。拘留期間の長さの違いも、両国間の裁判制度の違いを反映してるようです。 それぞれの国にはそれぞれの文化・歴史がありますので、どちらかが正しくて、どちらかが間違っている、というものではないのでしょうが、もしも自分が被告の立場に立たされたとしたら、どちらの制度を希望するかは明らかであるように私は感じます。

 

reasonable doubt 合理的な疑い、についてはWikipediaには、以下の記載がありました。

 

日本の刑事訴訟において、裁判所が公訴事実を認定するには、当該事実につき「合理的な疑いを差し挟む余地のない程度の立証」あるいは「合理的な疑いを超える証明」が必要であるとされる。ここでいう「合理的な疑いを差し挟む余地がない」というのは、「反対事実が存在する疑いを全く残さない場合をいうものではなく、抽象的な可能性としては反対事実が存在するとの疑いをいれる余地があっても、健全な社会常識に照らして、その疑いに合理性がないと一般的に判断される場合には、有罪認定を可能とする趣旨である」とされる(最判平成19年10月16日)。被疑者及び弁護側からみれば、無罪を主張する際には容疑について完全無実を証明する必要は無く、犯罪行為を行ったことについて合理的な疑いを示すことができればよいことになる。

戦後、英米法から導入された概念であり、アメリカでは、陪審員は「合理的な疑い」が排除されない限り、有罪の評決をしてはならないとされる。