■20190831(土曜日:曇)

高倉健さんへの思いは、尽きることがありません。

■いよいよ今日で8月も終わりです。つい昨日、元日を迎えたように思い返すのですが、あっという間に夏も過ぎ去ろうとしています。昨年のように猛暑日が何十日も続くといったような天候ではありませんでしたけれども、今年も暑い夏でした。梅雨が長く、毎日毎日雨ばかりでした。梅雨が明けた途端蒸し暑い毎日が続きました。

 

今年は梅雨に入る前に、壊れていた寝室のエアコンを買い替えました。おかげで今年は、蒸し暑くて眠れないということはありませんでした。決して高価なエアコンではありませんが、エコモードという運転タイプでは、つけっぱなしでも室温が下がりすぎるということが無く、そういう意味では安心して眠ることが出来ました。今週に入ってからは、さすがにエアコンをつけっぱなしで寝る事は無くなりました。寝る前に三十分ほど掛けておけば、もうそれで十分なのです。

 

■さて遠藤周作さんの講演集「人生の踏絵」を、毎晩読み続けています。戦国時代に日本へやって来た宣教師たちが、幕府の拷問に耐えかねてキリスト像が描かれた踏絵を踏んで、転向していく様子を描いた「沈黙」を中心に講演されています。

 

人は誰でも生きている間には、それぞれの踏絵を踏むことで生き永らえているのではないか、という遠藤さんの問いかけです。聖人君子など、いようはずがない、ということです。端から見れば、好々爺と見える人でも、生きている間には何度も人を傷つけ、そして傷つけられて来た。それぞれの人が持つ、そうした業を描くのが文学だ、ということでしょうか。

 

まだ読み終えてはいないのですが、とても面白いと思ったのは、フロイトなどの精神分析が出現し、無意識という世界が知られるようになってからは、昔のように人間を単純に描くことが、文学者はできなくなった、という指摘です。つまり主人公は嫉妬のあまり犯罪を犯した、と一直線には描けなくなった。どうしてそんな行動を取ったのか、実は本人にもよく分かっていないのではないか、というです。作者の描く人物の行動が、とても不可解に見える。その不可解さを、どう描くのかが文学なのだ、とも言えるのでしょうか。