■20200320(金曜日:晴れ)

伊香保温泉の宿から見た風景です。

■昨日は仕事を終えて一休みしてから、富士山静岡空港へ向かい、北九州空港へFDAで舞い降りました。海上に埋め立て空港として造成された空港の周囲には、ほとんど何もないような状態ですが、唯一のホテルである東横インに宿泊しました。

食事を取る店も空港内に三件だけあるのみで、どうしようかと思いましたが、ホテルで無料のカレーライスを出してくれると知って驚きました。空港で夕食を取り、送迎バスでホテルまで行き、チェックインした後、さらにカレーを少々いただきました。明日に備えて早めに休みましたが。

北九州空港のホテルから見た連絡橋です。

■さて今朝は9時からレンタカーを借りて山口県に向かう予定です。ホテルの裏になるレンタカー店に行き、予約してあったアクアを借りて出発進行です。目的地は錦帯橋です。Wikipedia によれば、

日本三名橋や日本三大奇橋に数えられており、名勝に指定されている。藩政史料には「大橋」と表記されることが多く、また「凌雲橋(りょううんばし)」、「五竜橋(ごりゅうばし)」、「帯雲橋(たいうんばし)」、「算盤橋(そろばんばし)」などとも呼ばれていた。「錦帯橋」という美名は完成後に定着した説が有力とされている。文書による初出は宇都宮遯庵の記述した文書内である。

5連のアーチからなるこの橋は、全長193.3メートル、幅員5.0メートルで、主要構造部は継手や仕口といった組木の技術によって釘は1本も使わずに造られている。石積の橋脚に5連の太鼓橋がアーチ状に組まれた構造で、世界的に見ても珍しい木造アーチ橋として知られる。また美しいアーチ形状は、木だけでなく、鉄(鋼)の有効活用がなされて初めて実現したものである。杭州の西湖にある堤に架かる連なった橋からヒントを得て1673年に創建された。西湖の錦帯橋とは2004年に姉妹橋となっている。現在そのほとりには錦帯橋友好の石碑が建立されている。

1950年(昭和25年)の台風で全て流失したため、現在の橋は1953年(昭和28年)に建造当時のまま復元されたものである。

桜の名所として、吉香公園と共に日本さくら名所100選に選定されている。

グーグルマップで調べると北九州空港から錦帯橋までは3時間弱と出ましたが、急ぐ旅でもないのでのんびりと一般道を行きました。まずは137キロほど走って、「道の駅 ソレーネ周南」で一休みです。

販売されている海の幸、そして山の幸が新鮮で、しかもとても廉価なのです。びっくりしました。惣菜やお弁当の豊富なことも驚きでした。いくつか惣菜を買って、隣接する施設でいただきました。本当に素晴らしい食材でした。また立ち寄ってみたい思いでいっぱいです。

■さて、さらに64キロを走り、錦帯橋に到着です。到着したのは午後2時前でした。最高の青空です。ただ一つ残念だったのは、桜の開花には数日早かったことです。明日には咲き始めるのではないか、とはガイドさんのお話でした。

  • ケーブルカーを降りて市内を見渡しました。

ボランティア・ガイドの方が案内と説明をしてくださいました。退職後にガイドを始められたそうです。

とても勉強されている様子が私にも分かりました。

ケーブルカーに乗り岩倉城に向かいました。ケーブルカー駅から見晴らす景色は、とても見事でした。これで桜が満開なら、絵も言われぬ風景でした。それでも吉田兼好が言うとおり、

花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。

雨に向かいて月を恋ひ、垂れ籠めて春の行方知らぬも、なほあはれに情け深し。

咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見どころ多けれ。

なのです。つまりは想像力を働かせろ、ということです。明日になったら、この桜の木々は、どれほど美しく咲き誇っているのだろうか、と想像する心。錦帯橋から眺める桜の無数の蕾を見ながら、明日の様子、明後日の様子を想像する心こそが、美を愛でる心ということなのでしょう。

帰りがけ、写真を撮ってもらった若者グループの一人と。明るい若者たちでした。

■のんびりと散策の後、「旅館 白為」に落ち着きました。6室のみのこぢんまりした旅館ですが、落ち着いた佇まいは、ただものではありません。新型コロナウイルス騒ぎで、キャンセルが相次ぎ、今夜宿泊したのは、私達二人だけ。独占でした。

地酒を用意してくれました。三種類から私達が選んだ二種類を、2合ずつ提供してくれました。

主な地酒には5種類あるそうですが、女将が用意してくれた三種類の中には、かの有名な獺祭が選択肢にはありませんでした。女将の趣味でしょうか。

辛口の2銘柄は、甲乙つけがたい美味しさでした。

次々から次に出てくるお料理の見事なこと。2時間かけて、ゆっくりといただきました。

私達以外のお客さんがキャンセルされたのは、旅館にとっては大変な災難でしたが、こうしてこの旅館を独占できたのは、私達には至福の時でした。