2022 年 02 月 11 日 北海道小樽市街と石狩湾です。

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娘の幸せ

■ いいたい放題

 二〇〇八年から続けているベトナム枯葉剤被害者支援の旅に、六名の仲間とともに今年も出かけました。三年連続でバクザン省職業訓練センターを中心に、女医でもある施設長のトゥイさんが選んでくれた十二軒の被害者家庭を訪問し、家庭状況を確認の上、皆様から寄付していただいた医薬品や生活支援金を、お渡ししました。

 センターでは医薬品の贈呈とともに、子ども達や職員の皆さんの眼科検診を行いました。さらに今年は、障害を持つ子ども達の運動機能回復のために必要なリハビリ機器と、施設運営資金として千ドルを寄付することができました。今年は施設の子ども達の数が少なくて拍子抜けだったのですが、施設長さんのお話を聞き納得しました。施設で受けた職業訓練を土台にして子ども達は仕事に付き活躍中で、そのために多くの子が不在だったのです。施設での活動が実を結びつつあるようです。

 最初に訪問した家庭では、グエンさん父娘にお話を聞くことができました。枯葉剤の後遺症として、お二人とも顔を中心に全身に多数のコブ、腫瘍があり時々痛むとのことでした。

「私が従軍したのは、フエ省、クアンチ省で枯葉剤散布のひどい場所でした。一九七五年に戦争は終わりましたが、皮膚症状は一九七七年時点ではありませんでした。それ以後に出現してきたのです。六人の子供がいますが、症状があるのは、四番目のこの娘だけです。生まれた時点では、お尻に大きな腫瘍があり摘出しました。ずっと病弱でした。六歳から小さい腫瘍が出現、次第に増大してきました。知的障害もありますが、自分のことは自分でできるし、私の仕事を手伝うこともできます。兄弟からの支援は無理なので、生活資金は国からの援助金のみ。月の支援金は二人合わせて全部で二〇〇万ドン(日本円で一万円弱)。農業をして自給自足に近い状態です。苦しいことが多いが、後ろ向きに考えても仕方がないので、いつも笑顔で過ごすように心がけています。みなさんには、ここまで来ていただいて感謝しています。妻は九年前に死にました」

 父親は私と同じ歳、そして障害を持つ娘さんは、私の長女と同じ歳でした。帰りがけ、一人で玄関前に立つ娘さんに、幸せあれ、と心から願いバスの中から手を振りました。顔の腫瘍を手で隠しながら、恥ずかしそうに手を振り返してくれた娘さんの顔が、忘れられません。

 帰りの飛行機を待つハノイ・ノイバイ国際空港でのこと。バスを待つ列に並んでいた若い女性のキャリーバッグに置かれた英語の本に目が止まりました。お話を聞いてみると日本の会社でシステムエンジニアとして働いているとのこと。日越を往復する日々のようです。私達のベトナムでの活動をお話し、枯葉剤被害について尋ねてみると、全く聞いたことがない、と言われ驚きましたが、これまでにも何度か同じような経験をしたことがあります。どうやらベトナムでは若い世代にベトナム戦争での枯葉剤散布、そしてその後の被害について積極的には教育していないようです。支援活動と同じように、広報活動も大切だと痛感し、帰国の途についたのです。

百年の果てに

■ いいたい放題 ■

 ベトナム枯葉剤被害者支援の旅に六名の仲間とともに、今年も出かけました。昨年同様バクザン省職業訓練センターを中心に、女医でもあり施設長のトゥイさんが選んでくれた 14 軒の被害者家庭を訪問し、家庭状況を確認の上、皆様から寄付していただいた医薬品や生活支援金を、お渡ししました。

 センターでは医薬品の贈呈とともに、障害を持った子ども達と運動機能回復のための音楽療法、そして私は子ども達や職員の皆さんの眼科検診を行いました。被害者家庭訪問では、排泄など身の回りの世話を全て家族が行っていたのが 14 軒中 7 軒。その内の 5 軒では、ほとんど寝たきりで終日ベッドの上で生活しており、家族の負担は大変重いものでした。

 その中の一人、グエン・バン・カン(男性)さんは 1972 年生まれで 45 歳。母屋とは別の小屋で一人暮らし。放置していると徘徊してしまうので、普段は鍵を締めて閉じ込めてある。母は七四歳。父は南部カンボジア近くで従軍、枯葉剤に被曝し、その後 31 年前に死亡。カンさんは知的障害のため、食事のコントロールができない。大きな声を出すが暴力をふるうことはない。排泄の始末ができないので世話が大変だ。毎月 140 万ドン(約7千円)の支援金。収入は支援金のみの生活。人民委員会に増額を要請したが断られた。母親の年金は無い。カンさんも以前は薬を服用していたが、効果がないので止めた。母親は米を作って生活の足しにしている。夫が死んだ後の子育てが一番たいへんだった、とのこと。父方の祖父が手伝ってくれた。母方の祖父はフランスとの独立戦争で戦死。そして夫も被曝した枯葉剤の後遺症で死亡。夫の実家に現在住んでいる。

 1887 年フランスによる植民地支配が確立、その後のフランスとの独立戦争、そしてアメリカとのベトナム戦争が集結した 1975 年のサイゴン陥落で、ようやく百年ぶりの平和をベトナムは取り戻しました。植民地時代には庶民の暮らしは徹底的に収奪され、政治犯収容のためにフランスはひたすら監獄を作り続け、1910 年からの十年間、毎日三人の政治犯がギロチンによって首を切断された計算になる、と言われています。そしてベトナム戦争での枯葉剤の散布です。樹木の葉を枯らすだけだ、と喧伝された枯葉剤は、遺伝子を損傷し、未だに被害者の発生は止む気配がありません。ベトナムは苦しみ続けているのです。

 いったん戦争が始まれば、敵も味方もありません。開始を命じた人間は天寿を全うしても、戦った人間たちは、子々孫々まで苦しむことになるのです。

 我々はいつの時代にも、歴史に学ぶ必要があるのです。

母の願い

■ いいたい放題

 二〇〇八年から続けているベトナム枯葉剤被害者支援の旅に昨年も出かけました。初めての訪問施設、バクザン省職業訓練センターを中心に活動しました。施設では医薬品、運営費の寄贈、仲間の音楽療法士による訓練、眼科検診、そして子ども達との交流を行いました。一歳から四十六歳までの障害を持った、主に子ども達が施設に住み込み様々な教育、訓練を受けていました。枯葉剤に含まれていたダイオキシンによる被害は遺伝子を介するために、第三世代、第四世代にまで被害が及んでいます。施設長のホン・ティ・ツゥイさんは、二十年間軍医として活動し、この施設を全て寄付で立ち上げました。彼女の長男も枯葉剤による障害を持ち、治療が欠かせません。

 被害者協会が選んでくれた家庭を一〇軒訪問し、通訳を通じて家庭の状況、枯葉剤による被害の経緯などを確認し、医薬品や経済状況に応じて仲間から集めたお金の中から生活支援金を寄贈しました。前回も訪問した千九百七十五年生まれグエン・ヴァン・ティンさんは重い障害のため生まれてから寝たきりの生活。千九百七十九年に父親が亡くなってからは、三十七年余り母一人の手で面倒を見てこられました。前回訪問した時には褥瘡が酷く、今回は予防のためのマットを届けようと準備しました。一年の間に、母も子も一回り小さくなっているように感じました。三時間ごとの体位変換もあり、母親には二十四時間休む暇がありません。自分が死んでしまえば、息子の面倒を見てくれる施設も親戚もいない、と涙ながらに語っていました。

 施設長のツゥイさんのお宅も訪問し、ご家族と懇談しました。長男は筋肉が次第に萎縮する病と血友病も合併され、アメリカ製の高価な医薬品治療が欠かせません。アメリカ軍が散布した枯葉剤のために、このような病を背負い込み、同時にアメリカ製の高価な医薬品によって命を永らえている、という実に不条理な状況を知りました。

 多くの被害者家庭では障害を持って生まれた子ども達の世話を母親がしています。枯葉剤被害への周囲の無知から、その障害の責任を押し付けられ、辛い思いをしたと涙ながらに語る母親も少なくありません。戦争の犠牲者を実際に目の前にして思うことは、ただひとつ。こんな辛い思いを、我が子や孫たちにさせてはならない、というその一点です。それは被害者の母親の思いであると同時に、世界中の母の願いでもあるはずです。

連帯

■ いいたい放題 ■

 2008年から続けているベトナム枯葉剤被害者支援の旅に、今年も出かけてきました。ハノイからバスで一時間半ほどの所にある、ハンディキャップ・チルドレン村という施設を中心に活動しました。施設では仲間の音楽療法士による訓練、眼科検診、そして子ども達との交流を行いました。


 6歳から16歳までの障害を持った子ども達 41 名が施設に住み込み、保育園から小学四年生までの様々な教育、訓練を受けていました。炊事場を始め衛生面では、まだまだ不十分と思われる設備があり、支援できる部分の多さを痛感しました。


 施設が選択してくれた被害者の家庭を今年は10軒訪問し、通訳を通じて家庭の状況、枯葉剤による被害の経緯などを確認しました。医薬品や経済状況に応じての生活支援金を贈呈しました。


 様々な家庭がありましたが、中でも心に残ったのは、37歳の障害を持つ息子と、母ひとり子一人の家庭でした。73歳の母親は関節痛、高血圧に苦しみながら、一人きりで家事、農作業、そしてほとんど身動きのできない寝たきりの息子の身の回りの世話をしているのです。三時間ごとの体位変換もあり24時間休む暇がありません。自分が死んでしまえば、息子の面倒を見てくれる施設も親戚もいない、と涙ながらに語っていました。これからも継続して何とか支援をできないものか、と仲間で語り合いました。

 さて、ある家庭を訪問した際に驚きました。テレビカメラが持ち込まれ、六名のお連れを伴ってチュオン・クオン・ハイ人民委員会副会長が同席されたのです。挨拶の中でハイ副会長は、こう語りました。「バクザン省インゾン地区(人口19万)だけで3,000名の枯葉剤被害者がいる。戦争が終わっても被害者は絶えていない。被害者の状況を、ぜひ日本に伝えて欲しい」。これほど心のこもった挨拶は、かつて無かったことでした。その疑問も通訳の解説を聞いて氷解したのです。


 彼は、こうも語っていたのです。「私は一度、広島に行ったことがある。原爆の被害者の様子を見て、日本はベトナムと近いと思った。日本とベトナムは助け合っていくべきだ。いまこそ、連帯が必要だ。」


 これからの日本の進路を考える上で、とても大切な言葉だと私は思ったのです。

それぞれの不幸

■ いいたい放題

 沼津、三島に住む仲間とともに、ベトナム枯葉剤被害者支援の旅に、今年も出かけました。新しい仲間も一人加わり初めて10月に訪問しました。これまでは八月の猛暑の中での活動でしたが、それがいかに過酷だったのかを、あらためて実感しました。今回は五日間という短期間に絞り、ハノイから車で二時間ほどの距離にある障害児療育施設バクザン省ハンディキャップ・チルドレン村を中心に活動しました。さらに被害者の家庭を六軒訪問し支援活動を行いました。

 ハンディキャップ・チルドレン村では、これまで通り音楽療法と眼科検診を行い、子ども達と交流しました。この施設では、通いの子どもさんも含めて現在五十名ほどが在籍しています。肢体不自由児、聴覚障害児、知的障害児などが学んでおり、教育訓練の質および障害児の社会参加を含めた療育の向上を図るという目標で、施設は運営されています。まだまだ在宅で生活している障害者が多く、家族の負担は大きなものです。

 被害者の家庭では、それぞれの家庭が、それぞれの問題を抱えており、支援のあり方も難しいものでした。障害児が生まれたと知り、父親が家を出てしまった家庭が二軒ありました。遁走し再婚した夫が、再婚後に生まれてきた子ども達には障害がなかったのだから、原因はお前にあるのだと責められた、とある母親は語っていました。

 そんな中で印象深かったのは、キム・カィンさん宅への訪問でした。一人息子が障害を持って生まれたキムさんは、私と同じ歳。私が大学での生活を始めた頃、彼女は軍隊に志願し、後方支援の活動を行っていました。活動地域には多量の枯葉剤が撒かれました。帰省後に結婚。生まれた息子に障害があることを知った夫は、その後に家を出てしまい、母一人子一人で生活してこられました。会社勤めで何とか育て上げましたが、右半身に麻痺があり車いすでの生活をする息子さんは知的障害のため、母親としか意思の疎通が出来ません。それでも最近、地域の支援もあり小さな雑貨店を開くことが出来ました。街の主道路に面した店には、地域の人々が買い物ついでに立ち寄り、何くれと無く息子さんに声をかけてくれるそうです。それが何よりも嬉しい、とキムさんは語っていました。地域社会との関わりが、いかに大きな支えとなるのかを再認識しました。

 活動を終えて思い起こしたのは、トルストイの作品、アンナ・カレーニナで語られる以下の言葉です。『幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである』。アメリカ軍により八千万リットルもの枯葉剤がベトナムの各地に散布され、被害者の総数は、四百万人とも言われます。現在では従軍した第一世代ばかりか、第三世代、第四世代にも障害が及んでいます。それぞれに不幸な家庭に少しでも幸あれ、と願いながらベトナムを後にしました。

タブレットの時代

■ いいたい放題   

 タブレットとは、元来は携帯できるサイズの石板や木板などのことでしたが、最近では板状のコンピュータ機器の事を指すことが多くなりました。情報端末というとスマートフォンが注目されがちですが、これまで何度も失敗を重ねて来たタブレット端末では、アップル社のアイパッドという製品が大ヒット。新しい分野を切り拓きました。先日東京へ出かけた際に驚いたのは、やにわにタブレットをバックから取り出して操作を始めた人が、一車両に二人もいたことです。以前には無かった光景です。

 パソコンとスマートフォンの中間サイズ画面を持つタブレットは、性能など、中途半端な面が克服できずに普及しなかったのですが、ここに来て半導体などの性能が向上した事、また使用目的がインターネット利用が主になってきたことなどが追い風となって普及を後押ししています。さらに決定打と思われる規格のタブレットが、ここに来て続々と発売になりました。それはアイパッドよりも更に小型の 7 インチタイプです。新書版よりも一回りだけ大きく 300 グラム超の重さですと、片手で長時間保持しても負担になりません。しかもスマートフォンでは小さすぎて低かった視認性も格段に向上しました。グーグル社から発売されたネクサス七を、私も購入し使用してみましたが、アイパッドよりも遥かに使いやすいことに驚きました。

 使用目的はネットへの接続と電子書籍の購読です。メールを中心としたネット関連の情報検索もキビキビとこなせる上に、読書用端末として誠に便利なのです。端末を横長にして左右二ページ単位で縦書で読む方法は、特に読みやすいのでお勧めです。

 スマホもタブレットもパソコンを完全に代替するわけではありません。仕事机の上にはパソコンが、そして作業現場では 10 インチ、持ち歩きには 7 インチのタブレットが標準になっていくように思います。内ポケットに 7 インチのタブレットが入るようにデザインされた背広が発売されているほどです。

 この 7 インチのタブレットによって、本当の意味でのパーソナルコンピューターが実現した、と私には思えるのです。標準が決まれば、あとは一気呵成です。パソコンの時代には脇役に甘んじていた日本企業にチャンス到来です。時代のルールが変わりつつあるのです。革新的な端末、革新的なサービスを新たに生み出すことで日本企業にはぜひ復活を遂げて欲しい、と心から願っているのです。

ある少女からの手紙

■ いいたい放題

 二年前からベトナムでの枯葉剤被害者支援活動に参加しています。昨年は計十五名の子ども達に学業の支援にと奨学金を贈呈しました。会の中心メンバーであるジャーナリストの北村元さんのアイデアで、切手を貼った封書を同時に手渡し、春と秋に奨学生のみなさんに近況を報告してください、とお願いをしました。私が贈呈役を仰せつかったクアンガイ省の高校三年生レ・ティ・キム・チュンさんからも手紙が届いたのです。その手紙からは、日本では想像もできない険しい状況の中で必死に学ぼうとする彼女の強い決意が感じられます。贈呈式で彼女が見せた強い意志を秘めた、あの凛々しい瞳を私は忘れられません。

 ひるがえって日本の状況を調べると内容や程度に違いはあるものの、同年代の若者たちも厳しい状況にさらされていることに気づきます。

 事実一。厚生労働省の発表では二〇〇九年度九月末現在の高校生の就職内定率は三七.六%で前年同期を一三.四ポイント下回り過去最大の下落率。

 事実二。年収二〇〇万円未満の家庭での高校生の四年制大学進学率は三割に満たない一方、千二百万円以上の家庭では倍以上の六割強に達していること。さらに母子家庭の調査などから世代を超えて貧困が連鎖している実態が明らかとなった。

 グローバル化のもとでは二極化は避けられません。しかしながら、どんな状況下でも自分の未来を切り拓くのは、自分自身の努力しか無いのです。以下に引用するチュンさんからの手紙の一部を読むことで、日本の若者たちが力強く生き抜くための勇気を少しでも取り戻してくれればと心の底から私は願うのです。

 『皆様お元気ですか? 皆様にお会い出来ることを願っています。支援隊から奨学金を頂いて、沢山の励ましを頂戴しました。そして頑張る力も与えて頂きました。学校の友達には、日本人の優しさ、親切さ、人を愛する心について話をしました。そして友だちには、あの時下さった富士山の写真を自慢して見せました。友だちは皆、日本の素晴らしさと日本人の事を感心してくれました。

  私の故郷はとっても貧しいです。両親は二人とも軍人でした。兄弟は五人です。女三人男二人です。しかしお兄さん二人は枯れ葉剤の影響を受けて普通の生活はできません。全ての事は誰かにやってもらわなければなりません。私が中学二年のとき兄が一人亡くなりました。家族は少しの水田を耕作しています。両親は戦争の時負傷しています。しかし両親は私を養うのに一生懸命です。生まれつき障害を受けている子ども達を悲しく思っているようですが、それにもかかわらず負ける事無く私達を養って、教育も受けさせてくれています。

 両親を悲しませないようにしようと考えています。そして自分自身いつも願っていることは、早く大人になって家族を助けられるようにしたい。そして、いつか日本に行ってみたい、ということです。日本人はとっても親切な人たちだと思います。

 最後に皆様のご健康と仕事が順調でありますように、そして今後意義のある活動を続けてくださる事を心から願っています。』

幸せへの道

■ いいたい放題

 今年も夏休みを利用してベトナム枯葉剤被害者支援の旅に出かけました。今回は八名と少人数の旅でしたが、新たに三名の方が参加しました。一人は元高校教師で平和運動家、沖縄問題研究家という経歴の持ち主。豊富な経験をユーモアを交えて話される様子は旅の貴重なスパイスでした。残りの二人はオーストラリアから参加された若き女性。日本でいったん職に就きながら現在はアルバイトをしながら現地の学校へ通う毎日。自分が本当にやりたいことは何なのかを探しての旅の途上といったところ。窮屈なアルバイト生活の中、自腹を切って参加される勇気と行動力には頭が下がる思いでした。


 クアンガイ省では、今年も九名の方に奨学金を贈呈しました。会のリーダーであるジャーナリスト北村元さんから、奨学生に贈る言葉を依頼されました。原稿用紙二枚にベトナムの若者だけでなく、心の中では日本の若者にも向けて語りかけました。


「本日は皆様に奨学金を贈ることができることを、心から嬉しく思います。このお金で少しでも安心して、みなさんが勉強に打ち込めることを願っています。北村元さんも私も学生時代、奨学金のお陰で勉強に打ち込むことができました。


 これからみなさんは一生懸命勉強されるはずです。でもその前に、一度は次のことを考えてみてください。何のために人は勉強するのか、ということです。もちろん幸せになるためです。では幸せとはなんでしょう。自分が本当に好きなことを見つけ、仕事として毎日それに取り組むことができること、それが幸せなのだ、と私は思うのです。自分が本当に好きな事は何なのかを見つけるために人は勉強するのです。


 映画監督の黒澤明は、こう言っています。

自分が本当に好きなものを見つけて下さい。見つかったら、その大切なもののために努力しなさい。君たちは、努力したい何かを持っているはず。きっとそれは、君たちの心のこもった立派な仕事になるでしょう。

 人の幸せには四つあります。一つは、人に愛されること。二つめは、人にほめられること。三つめは、人の役に立つこと。四つめは、人から必要とされること。そして人に愛されること以外の三つの幸せは、働くことから得られるのです。


 自分が本当に好きなことは何なのか、それを一生続けていくことができるのか。勉強することは自分発見の旅でもあります。幸せへの道は意外と遠回りなのです。時間もかかります。私たちの奨学金が、その旅に少しでもお役に立つことを心から願っています。


 健康に注意して、毎日、毎日を大切にすること。その積み重ねが幸せへの道なのです。

 みなさんの頑張っている様子を知らせてください。それは私たちの幸せでもあるのです。ぜひ夢を実現してください。応援しています」。

ベトナム支援の旅を終えて

■ いいたい放題

 夏休みを利用してベトナムを訪問しました。ベトナム戦争でアメリカが散布した枯葉剤の後遺症に苦しむ人々を支援するためです。沼津、三島に住む人々を中心に十年以上活動している会に家族で初めて同行しました。アメリカは1975年までに主として南ベトナムに約8,000万リットルの枯葉剤を散布し、その中には約400キログラムのダイオキシンが含まれていたのです。推定では400万人以上の被害者が年間の生活費200米ドル以下で暮らしている、と言われています。

 今回の旅では戦争に参加し被爆した第一世代のみならず、子ども達にも深刻な被害を及ぼしていることを知りました。そうした被害者の家庭を訪問し、様々な支援物資を直接手渡すとともに、自立を支援する目的で今年初めて農家五軒に子豚を贈りました。

 ベトナム戦争に参戦した退役軍人らの呼びかけで建てられた支援施設ハノイ友好村では植樹をするとともに、障害を持って生まれてきた子ども達に奨学金を贈りました。また同行した音楽療法士の指導の元、子ども達と共に機能回復のための音楽療法にも取り組みました。さらに私自身は眼科医として、障害を持った子ども達の施設のみならず、農家や学校でも眼科検診を行いました。ベトナムでは未だに、学校ですら医師による検診は行われておらず、一生の間に医師の診察を受けることは、極めて稀とのこと。中枢神経を冒されているためか施設の子ども達には強度の眼振が多く、治療の困難なことを伺わせました。
 
 最も印象に残ったのは、十代の二人の少女でした。支援に訪れたある農家には、後遺症から働くことのできない父親と障害を持った4人の子ども達がいました。それぞれが知的障害と視力障害を併せ持ち、働き手である母親を唯一手伝えるのは、視力障害を持つ次女ただ一人。彼女は以前3ヶ月間だけ小学校へ通ったものの、今では家で母親を手伝う毎日。訪問した日、豚小屋のような部屋でワラを燃やし炊事をしていました。診察したところ、補助器具を利用すれば十分教育を受けられるだけの視力と知能を持っていることが分かったものの、家庭状況から通学困難なことは歴然としていました。一方、ハノイ友好村にボランティアとして訪れていたある女子高生は、流暢な英語を操り、来年からは英国に留学し経済学を学ぶ予定とのこと。その瞳は夢と希望に溢れていました。同じ国に生まれ、共に夢を持って生きる権利を持つはずの十代の二人の少女。その境遇のあまりの落差に、私は暗澹たる思いに沈まざるを得ませんでした。

 支援の難しさを実感するとともに、全ての子ども達に医療と教育の光の当たる日が、一日も早く訪れることを心から願ったベトナムの旅でした。

良いは悪いで、悪いは良い

■ 「すこやか 誌」 → 由来

 何もここで、シェークスピアを論じるつもりはありません。眼の一生を考える時、マクベスの中で語られるこの言葉こそ、まさに正鵠を射ている、と私は思うのです。

 生まれたばかりの赤ちゃんは、我々と同じようにものを見ているわけではありません。誕生直後から物を見つめる反応はあるものの、2か月くらいから両眼で物を見つめられるようになり、3か月くらいで動く物を目で追うようになります。そして、半分以上の子どもが、3歳で1.0 見えるようになり、6歳になると大部分の子どもが大人と同じ視力を持つようになるのです。「自然は経験を必要としない」というユクスキュルの言葉は、少なくとも視機能には、当てはまりません。

 遠視の状態にある赤ちゃんが、眼球の発育にともなって正視に向かい、やがて学校での生活と共に近視化していくことが多くなってきています。そして、成人期での安定期を経て、中年以降は老視と軽度の遠視化プラス乱視化がやってくるのです。こうした眼の自然経過というものを理解しておくことは、極めて大切です。

 昔は中学生になってから近視化し眼鏡装用し始めたものですが、早熟化に伴い、最近では小学校高学年から近視の眼鏡を装用し始めることが多くなってきました。「子どもの目が悪くなって困っています」という母親の声を、この頃から頻繁に聞くようになります。しかし子ども達はそれほど不便を感じていないことが、意外と多いのです。急激に近視が進むことは稀ですから、なんだか見にくいな、とは思いながらも、かなり進んでからでないと、「見えない」とは子ども達は言いません。したがって、「子どもは、見えるといっています」という母親の言葉は、あまり参考になりません。「遠くを見るとき、目を細めませんか?」、あるいは、「家にいる時、テレビに近付いて見ませんか?」と尋ねてみると、「そういえば、近付きますね」という答えが返ってきます。テレビは近付けば見えますが、黒板はそうはいきません。授業のたびに、黒板に近付くわけにはいかないからです 。必要であれば躊躇することなく、授業中に眼鏡を装用させることは、授業内容をしっかりと理解させる上で、必須なのです。

 試しに、子ども達に眼鏡を装用してもらうと、「良く見えます」と感動したように答えます。見えることの素晴らしさを実感した子ども達は、もはや眼鏡装用に躊躇しません。遠くが良く見えるというのは、実際感動ものなのです。逆に、遠くがしっかり見えないと、季節の変化など、周囲に対して無関心になるので要注意です。

 しかし、近視の眼は果たして、「悪い目」なのでしょうか?

 ちなみに、私は中等度の近視であり、眼鏡を掛けないと0.1 もあやしいほどです。従って映画を観たりスポーツをする時は、大変困ります。学生時代、真夏に眼鏡をしてテニスをしていたおり、試合途中で汗のため眼鏡が外れて飛んでいってしまった時は、まさにお手上げでした。今では使い捨てのソフトコンタクトレンズの出現により、こうした悲喜劇は無くなりました。(ただし、使い捨てのコンタクトレンズによる眼障害例が、それも角膜潰瘍にいたるほど重傷の患者さんが、ここ数週間の間に驚く程の頻度で来院されています。なんらかの形で、広く警告がなされる必要を感じています。)

 近視の人にとって、眼鏡はまさに命綱。大学時代に観た映画「パピヨン」の中で、近視の主人公を演じたダスティー・ホフマンの眼鏡が踏み割られた瞬間、主人公と共に思わず悲鳴を上げたことを、つい昨日の事のように思い出します。40代後半になるまで「近視は悪い目」だ、と私も思っていました。

 ところが、老眼の年代になって気付いたのは、自分の目で本が読める、ということのありがたさでした。寝床に入り眠りに付くまでの30分ほど、毎晩好きな読書ができる幸せを痛感しています。若い頃、近眼にもめげず勉学に励んだご褒美を、今になって頂いている思いです(本当かな?)。

 一方、40代後半となり夕方になると、眼がシバシバする、眼を開けていられない、眼の奥が痛くなる、肩が凝る、頭が痛くなる、などなどの症状を訴えて、毎日たくさんの患者さんが来られます。「眼の良さだけには、自信があるのです」というのが、こうした患者さんたちの決まり文句です。若い頃視力の良かった遠視の人には、老視の症状がより早く、そしてより強くでるのです。

 若い頃の取り柄が中年以降は重荷になる一方、若い頃日常生活にはハンディとなっていた近視が中年以降はおおいに助け船となる。まさに、「良いは悪いで、悪いは良い」のです。シャーロック・ホームズを生み出したコナン・ドイルが眼科医だったことは、知られざる歴史的事実ですが、これほど眼の自然経過に通じたシェークスピアも、ひょっとすると眼科医だったのではないか、と想像してみたい誘惑に駆られるほどです。

 さて、この言葉は何も目に限ったことではありません。日本ではフロンと呼ばれる、今ではオゾン層破壊の元凶としてやり玉にあがっている科学物質も、以前は科学技術のヒーローだったのです。物語は1928年アメリカ、ゼネラルモーターズ社の技師ミッジリーが電気冷蔵庫の冷媒として当時用いられていたアンモニアに代わって、より安全なガスを開発したことに始まります。1930年に開かれたアメリカ化学会で、発明した物質がいかに無害・無毒であるかを示すために、彼自ら胸一杯にこのガスを吸い込み、ローソクの炎の上に吐き出して消して見せたのは有名な逸話です。冷却媒体としてすばらしい性能をもつこのガスはただちに工業化されることになり、デュポン社の協力を得て「フレオン」の名で商品化されることになりました(「フロン」は和製英語)。

 大気中にあるフロンが分解するのは、高度35-40kmの上空のみのため、地上で放出されてから大気中を漂い分解されるまでに要する時間は、実に平均20-30年かかるといわれています。つまり、現在オゾン層を破壊しているフロンは、ほぼ1970年よりも前に地上で放出した分なのです。その後に放出した2,000万トンにも及ぶフロンは、まだそのままの姿で大気中を漂っているわけです。それらはこれから上部成層圏に達して、オゾン層破壊に荷担していきます。20世紀のヒーローが、癌の発生を増大させることなどにより、今や人類の生存を脅かしているのです。

 一方、ビジネスの現場に欠くことのできない、ポスト・イットと呼ばれるアメリカ3M社の製品誕生の物語は、まさにその逆をいくものです。物語は1969年に始まります。3M社中央研究所の研究者スペンサー・シルバーは、接着力の強い接着剤の開発要求を受け、実験を繰り返し試作を重ねるうちに、ひとつの試作品を作りあげました。ところがテスト結果は期待していたものとは全く違っていたのです。「よくつくけれど、簡単に剥がれてしまう」、なんとも奇妙な接着剤ができあがりました。接着剤としては明らかに失敗作でした。しかし、彼はこう確信したのです。「これは何か有効に使えるに違いない!」1980年の全米発売に至る悪戦苦闘の月日が、こうして始まったのです。1974年のある日曜日、教会の聖歌隊のメンバーであった同僚のフライは、いつものように讃美歌集のページをめくりました。すると目印に挟んでおいたしおりがひらりと滑り落ちてしまいました。またか…と思った瞬間、フライの頭の中にひらめくものがありました。「これに、あの接着剤を使えばいいんだ!」5年前にシルバーが作り出した奇妙な接着剤の用途が、この時初めて具体的なイメージとなったのです。翌日からフライは、「のりの付いたしおり」の開発に取りかかったのです。役に立たないと思われていたこの接着剤が、試行錯誤の末、世界中で欠くことのできない製品に、やがてなっていったのです。

 フロンとポスト・イットの物語も、「良いは悪いで、悪いは良い」の具体例なのです。そして、この言葉はなにも物に対してだけ当てはまるわけではありません。ごくごく身近かに起こっていることだけからも、この言葉の持つ奥深さは容易に察しが付きます。一見、品行方正、学術優秀と思われていた子どもが親に毒を盛る一方、学習障害、ひょっとすると知恵遅れではないか、とさえ思われていた子どもが、立派に自分自身の道を見付け出し、着実にその道を歩んでいる姿に、成人式でしばらくぶりに会って驚くことは、珍しいことではありません。私たちの持つ判断力など、実は高が知れているのだ、とシェークスピアは教えてくれているのかもしれません。シェークスピアは、まさに人類の偉大な教師なのです。

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