ベトナム支援の旅を終えて(2008年8月掲載)

 昨年の8月に家族でベトナム支援の旅に出かけました。拓は国試の勉強があり四人での旅となりました。

 始めて見るベトナムの現状は驚くことばかりでしたが、経済発展の真っ只中にある国の勢いも感じることができました。まさに、光と影の一週間でした。

 アメリカと戦争をするということは、こういうことなのか、と今さらながら実感した旅でもありました。

(2009年2月)

ホームページ掲載時コメント

 2008年家族で出かけたベトナム支援の旅をまとめました。

 9月19日朝刊に掲載されました。夕方には、沼津北ロータリークラブの大先輩でもある大村 勝則先生からお電話をいただき、「原稿読んだよ。涙が出ちゃったよ。」との、お言葉をいただきました。

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 澄代、希実、彩香と四人での旅。娘二人を伴っての旅は、これまで知らなかった二人の一面を見ることができ、私には大変大きな収穫がありました。

 知らない間に二人はしっかりと大人になっていました。今目の前で起きていることを冷静に判断し、何が起きているのか、自分たちは何をすべきなのか、今起きていることに何が足りないのか、何が問題なのか。実に驚きでした。

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 人は教育によって人間になります。教育を受ける力も意欲もありながら、教育を受けられないことほど辛いことはありませんし、社会にとっての損失もありません。ベトナムの全ての子ども達が等しく教育を受けることのできる日が、一日も早く訪れることを心から願った旅でもありました。


 夏休みを利用してベトナムを訪問しました。ベトナム戦争でアメリカが散布した枯葉剤の後遺症に苦しむ人々を支援するためです。沼津、三島に住む人々を中心に十年以上活動している会に家族で初めて同行しました。アメリカは1975年までに主として南ベトナムに約8,000万リットルの枯葉剤を散布し、その中には約400キログラムのダイオキシンが含まれていたのです。推定では400万人以上の被害者が年間の生活費200米ドル以下で暮らしている、と言われています。

 今回の旅では戦争に参加し被爆した第一世代のみならず、子ども達にも深刻な被害を及ぼしていることを知りました。そうした被害者の家庭を訪問し、様々な支援物資を直接手渡すとともに、自立を支援する目的で今年初めて農家五軒に子豚を贈りました。

 ベトナム戦争に参戦した退役軍人らの呼びかけで建てられた支援施設ハノイ友好村では植樹をするとともに、障害を持って生まれてきた子ども達に奨学金を贈りました。また同行した音楽療法士の指導の元、子ども達と共に機能回復のための音楽療法にも取り組みました。さらに私自身は眼科医として、障害を持った子ども達の施設のみならず、農家や学校でも眼科検診を行いました。ベトナムでは未だに、学校ですら医師による検診は行われておらず、一生の間に医師の診察を受けることは、極めて稀とのこと。中枢神経を冒されているためか施設の子ども達には強度の眼振が多く、治療の困難なことを伺わせました。
 
 最も印象に残ったのは、十代の二人の少女でした。支援に訪れたある農家には、後遺症から働くことのできない父親と障害を持った4人の子ども達がいました。それぞれが知的障害と視力障害を併せ持ち、働き手である母親を唯一手伝えるのは、視力障害を持つ次女ただ一人。彼女は以前3ヶ月間だけ小学校へ通ったものの、今では家で母親を手伝う毎日。訪問した日、豚小屋のような部屋でワラを燃やし炊事をしていました。診察したところ、補助器具を利用すれば十分教育を受けられるだけの視力と知能を持っていることが分かったものの、家庭状況から通学困難なことは歴然としていました。一方、ハノイ友好村にボランティアとして訪れていたある女子高生は、流暢な英語を操り、来年からは英国に留学し経済学を学ぶ予定とのこと。その瞳は夢と希望に溢れていました。同じ国に生まれ、共に夢を持って生きる権利を持つはずの十代の二人の少女。その境遇のあまりの落差に、私は暗澹たる思いに沈まざるを得ませんでした。

 支援の難しさを実感するとともに、全ての子ども達に医療と教育の光の当たる日が、一日も早く訪れることを心から願ったベトナムの旅でした。

TO:随筆の部屋