2014年01月19日(日曜日:晴れ)2014東京マラソン・ラン完走:2012 年 7 月からの通算走行距離 1,500 キロ突破










■新橋で降りて日比谷公園地下駐車場内にあるランニングショップで受付を済ませました。今回初めて利用するランニングショップでしたので、まずは見つけるのに苦労しました。HIBIYA RIDE というランニングショップが企画した東京マラソンのコースに沿って歩道の上を 42 キロ走ろう、という東京マラソン・ランです。コーチがペースメーカーとして先導してくれますし、また最後尾には併走してくれるコーチが付いてくれますので、私のような初心者でも安心して走ることができます。

 全員集合したところで、ペースごとに三組に別れました。キロ 6 分、6 分 30 秒、そしてキロ 7 分です。私は、もちろんキロ 7 分組に入れてもらいました。

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 キロ 7 分組は、総勢 21名でした。地下鉄で日比谷から都庁へ移動し、午前 9 時にスタートしました。21 名の仲間の中にも 6 名ほどでしょうか、東京マラソンの抽選に当選している人がいて、コーチも人数の多さに驚いていました。残念ながら去年行われた今年の出場権の抽選では、私はハズレでした。スタート前に気付いたのは、とにかく風の強いことでした。日陰にいると、寒いほどでした。どの程度着込んで走ったら良いのかも迷いました。昨年の 11 月 17 日に走った中野での 40 キロ走では、半袖のTシャツに長袖の薄いフリースを腰に巻いて、万が一寒い時に備えて走りましたが、結局半袖のままで大丈夫でした。基本的には走り続けている限りは寒くはないだろう、と高を括っていたのが、大きな間違いでした。半袖のTシャツに長袖の薄いフリースを着た上に、さらに念の為にランニング用のリュックに薄手のダウンのジャッケットを持っていったのは、本当に幸いでした。背負ったリュックが背中を守ってくれたのです。寒さは背中から冷えてきます。リュックを背負っているだけで、ずいぶんと楽でした。

 20 キロまでは快調でした。コーチのすぐ後ろで、キロ 7 分よりも少し早めのキロ 6 分半ほどのペースで走り続けることができました。ところがここからが、いけませんでした。左の膝が痛み始めたのです。中野ランでも、30 キロ地点の井の頭恩賜公園辺りから痛み始めたのですが、何とか屈伸運動などで、騙し騙し走り切ることが出来ましたので、今回も何とかなるだろうと、これも高を括っていたのが大失敗でした。












 一つには気温の違いがあったと思います。とにかく寒い一日でした。記録によれば、19日の東京の最高気温は、7.1 度、最低気温は 2 度 とのことですが、風が強く日向と日陰を走った時の体感気温の違いは、驚くほどのものでした。とにかく日向を走って欲しい、と願いながら走り続けました。膝の具合も次第に悪くなり、30キロ過ぎからは屈伸運動をするのも辛くなってきました。もうギブアップして帰ろうと、何度も思いましたが、みんなと一緒に走っているということは、本当に心強いものです。とにかく付いて行こう、とそれだけを思って赤信号で止まる度に屈伸運動をしたり膝をさすったりしながら、走り続けました。

 それでも 35 キロ過ぎからは、もう限界でした。皆に付いて行くのが無理になってきました。スピードが落ちると体感温度が下がる。するとさらに膝の痛みも酷くなる。痛みが酷くなると、さらにスピードが落ちるという完璧な悪循環に入ってしまいました。次第に皆さんから遅れ始め、最後の休憩地点残り3キロののコンビニで一旦追いついたものの、その後は先頭が見えなくなるほど遅れてしまいました。

 さらに追い打ちをかけたのが、低体温症からでしょうか、お腹を壊してしまったのです。残り3キロのコンビニでトイレに駆け込んで、何とかピンチを切り抜けましたが、何と残り500メートルになって、再度どうしても我慢できなくなりました。東京ビッグサイト(江東区有明)ゴール手前のゆりかもめの終着駅 豊洲駅から50メートル程走った所で、コーチにお願いして駅に戻ってトイレを借りました。用を足して駅の階段を降りて道路を走り始めると、ゴールから戻ってきた皆さんと行き違いました。皆さんからハイタッチで励ましてもらいました。

 一旦ゴールした西谷コーチが、再度私と同伴してゴールまで走ってくださいました。本当にコーチが仏様に見えました。一人ではとても心細くて、たとえ残り300メートルでもゴールに辿りつけなかったと思います。私のような落ちこぼれを見捨てずに、最後まで一緒に走ってくださいました。心の中で、ひたすら手を合わせて感謝し続けました。

 ゴールで証拠の写真を撮っていただき豊洲駅に戻るために歩き始めました。午後五時を過ぎて日が暮れて、一段と寒さが募りました。寒くて寒くて、駅までの道程が何と遠く感じたことか。本当に震えながら歩きました。膝の痛みさえ無ければ走れば済む事なのですが、そうできないところが、本当に辛かったです。

 豊洲駅でゆりかもめに乗って、暖かな座席に座った時の嬉しさと言ったら、例えようもなかった程です。ゆりかもめから地下鉄日比谷線に乗り換え、降りてからはランショップに一番近い出口まで地下通路を歩きました。都営地下鉄・東京メトロ「日比谷駅」A14番出口 徒歩1分ということで、 これは助かりました。普段なら新橋駅から歩いても、どうということもないのですが、とにかく寒かったのです。ようやく集合地点のランニングショップに戻ってきました。朝の8時前に到着して受付をしてから、何と9時間近くが経過していました。さっそく熱いシャワーで体を暖めないと、と思ったのですが、普段なら熱いぐらいに感じるシャワーが、何だかいくら温度を上げても、少しも熱くならないように感じました。何分間でしょうか腰掛けたまま、ずっとシャワーを浴び続けました。ようやく少し体温が上がった気がしました。

 ランニングショップを出て西谷コーチとご一緒に新橋駅まで歩き、品川駅から下りのこだま号に乗ったのは、18時6分でした。7時9分に京浜急行線に乗ってから、何と11時間が経過していました。自宅へ帰るために武蔵小杉駅への電車に乗った西谷コーチを長時間拘束してしまい、本当に申し訳ありませんでした。私がいなければ、あと一時間は早く電車に乗れていたはずです。まだお若いコーチにとっては、家族の元へ一時間早く戻れるかどうかは大きな違いです。駅で別れる時に、深々と頭を下げてしまいました。誠実で責任感のあるコーチの人柄に本当に助けられました。しかも、少しも恩着せがましいところが無いのです。逆の立場に自分が立たされたとしたら、はたして西谷コーチのように振る舞うことができたかどうか。私にはそんな自信は、とてもありませんでした。深く自省しました。

画像の説明

 ようやくゴールに辿り着きました。西谷コーチに携帯で写真を撮っていただきました。私の後ろ、今はゲートが閉まっていますが、実際の大会では写真の奥にゴールが特設されるようです。

 本当に、精も根も尽き果てました。豊洲駅から、このゴールまでは何百メートルでしょうか。普段なら、何ということのない距離なのですが、本当に遠く感じました。この日のことは一生忘れることは無いでしょう。



■スライド写真にもあるように、いわば東京の名所見物も途中できるところが、こうした企画の長所でもあります。ただし、それは余裕のある時の話です。私のように、必死に脚を前に運ぶだけで精一杯の人間には縁遠い話です。

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 歩道を走りますので赤信号では一旦停止です。余裕のあるうちは早く青に変わらないか、と思っていたのですが、次第に膝の痛みが募り余裕もなくなってくると、赤信号が待ち遠しくなるのですが、さらにそれを通り過ぎると逆に一旦停止するのが辛くなります。止まってしまうと、走りだすのが困難になってしまうのです。惰性で走っているしかなくなってきました。それでも銀座の歩行者天国や歌舞伎座、東京タワー、スカイツリー、雷門と澄み渡った青空のもと、素晴らしい景色を楽しむことができました。

 途中何度かコンビニで休憩を入れてもらい、昼ご飯はシュークリームとゼリーを食べました。15分ほどでしょうか、その時は、まだ膝の痛みも大したこともなく余裕がありましたので楽しい昼食でした。20名が一度に入ることのできるコンビニを前もって調べてくれてありましたので、店によっては椅子に座って休むことも出来ました。トイレ休憩の意味もありますので、コンビニは確かに助かりました。

 銀座の数寄屋橋交差点では、あの有楽町マリオンが取り壊されているのを知って、本当にびっくりしました。今は更地になっているのです。あそこに昔は円形の日劇があったことを知る人は少なくなりました。日劇が取り壊されて有楽町のマリオンが完成したのが、1984年。そして、いままた更地になって生まれ変わろうとしています。

 東京は、今まさに建設ラッシュ。あちらでもこちらでも、高層ビルやマンションが建築中でした。日本中探しても、こんな所は東京だけに違いありません。なかでも銀座の中央通り、歩行者天国が行われる、あの通りにビルが建設中なのには驚きました。これまで何度も訪れましたが、あの通りにビルが建設中だったことは記憶にありません。2020年までは、こんな状態が続くのでしょうか。

■さて 20 時前には、ようやく家に戻ることが出来ました。Sunに頼んであった熱いお風呂に入って、ようやく体温も元に戻りました。温かいご飯とお味噌汁。やっと生き返りました。それでも、そのあと二時間近くは寒気との戦いでした。着込めるだけ着込んで、コタツの中でじっと耐えるしかありませんでした。ようやく床に入ったのは、夜の10時近くなってからです。苦しみに満ちた長い一日が、こうして終わりを告げたのです。