人生の四期(2005年5月掲載)

 いったい人はいつまで生き続けるつもりなのでしょうか。人生50年と言われていた時代には、人は自分の人生を俯瞰できたのかも知れません。徒然草155段には、「死は、前よりしも来らず。かねて後に迫れり。」とあります。やはり、無理だったのでしょうか。

 しかし、人生80年の時代になると、退職後の20年があまりに長すぎて、逆に途方に暮れてしまいそうです。

 そんな思いで書きました。

(2009年2月)

ホームページ掲載時コメント

 5月22日、紙面に掲載されました。

 今年私は52歳になります。自分が夏目漱石より長生きしている、という事実は、実に不思議な気持ちに陥ります。いつまでの生きられない事は自明なのですが、そんなことは日常の中でついつい忘れがちです。

 自分の人生の節目を明確に意識することは、充実した人生をおくる上で、きわめて大切な行為なのでしょう。

 もう自分はそういう年齢になったということに、いささかの寂しさを感じないわけにはいきませんが、明確に意識することから、始めるしかないのでしょう。

 インドには四季はないが四期がある、と言われます。必要な知識を得るための「学習期」。家族のために働く「家住期」。ゆったりとした老後を送るために町を離れ、静かな森の中にささやかな住まいを持ち、そこで思索や瞑想の日々を送る「林住期」。そして最後に、夫婦で聖地を巡礼する「遊行期」。インド人の頭の中には、こうした人生の節目が明確に刻まれているようです。

 昭和28年生まれの私は、家族のためにまだまだ働かなければならない家住期にあると言えますが、少なくとも心のあり方としては、そろそろ林住期に足を踏み入れるべきなのではないか、と思い始めています。

 かつては、人生50年と言われました。自分自身が夏目漱石よりも長生きしていることに、とても不思議な気がします。とはいえ、人は誰も永遠には生きられません。いつかは、旅立つ日がやってくるのです。そうであるなら、人生の節目を明確に意識し、日々の有り様を思い描きながら生きていくことは、充実した一生を送るためには、不可欠のことではないでしょうか。

 2年ほど前から体調管理のために始めた早朝ウォーキングが、そうした意味で、これからの生き方に、とてもプラスになっていることに気付きました。毎朝、近くの愛鷹山を歩くのです。一時間半ほどのウォーキングで、最近は体調も良好です。ただ歩くことに精一杯だった頃には気付かなかった四季の変化の発見という望外の収穫は、林住期の成果かもしれません。最近は柿の葉を見るのがとても楽しみです。春になり新しい芽が現れ、それが実に瑞々しい若葉になる。そして秋になると何とも言えない渋い色あいに変化する。もう瑞々しい若葉になれない自分も、努力すれば秋の柿の葉のようにはなれるかもしれない。

 俳人与謝蕪村の句に、「茨野や夜はうつくしき虫の声」があります。茨の生い茂った野原が、夜になると虫かごのように美しい虫の音を響かせている、というのです。もちろんこれは単なる草むらを詠んだ句ではありません。昼の茨野は俗世、そして虫の音が響く夜の茨野は蕪村の頭脳の中に作られる美の王国だ、というのです。人は誰しも、日常というしがらみの中で生きざるを得ない。しかし、その中に自分なりの美を、想像力により作り上げることはできるのです。全体を見渡せるだけの余裕を心に持ちつつ、美しきことを発見しながら、幕末の志士、高杉晋作の歌を蕪村風にもじった以下の歌のように、残りの人生を生きてみたいものだ、と私はいま思っているのです。

 「美しき ことも無き日を美しく すみなすものは心なりけり」

TO:随筆の部屋