律する言葉(2000年5月掲載)

 安倍元総理が教育改革を最優先課題として登場したとき、まさに時代が変わり始めた、と私は感じたものです。そろそろ曲がり角に差し掛かってきました。戦後の総括が必要です。変わるべきところ、そして変えてはいけないところ。

 戦後日本は一度も戦争をすること無く、半世紀以上過ごしてきました。これは素晴らしいことです。江戸時代の平和な250年余りの記録を抜いてほしいものです。

 17、18世紀ヨーロッパは戦争に明け暮れていました。圧倒的な軍事力で世界を収奪していたのです。その間、日本は平和を謳歌し鉄砲すら捨てました。映画「第三の男」の中でオーソン・ウェルズが創案したという台詞。

「ボルジア家の30年の圧制はミケランジェロ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、そしてルネッサンスを生んだが、スイスの500年のデモクラシーと平和は何を生んだ? 鳩時計さ。」

 は、少なくとも日本には当てはまりません。250年の平和は、同時に浮世絵、俳句を初め数々の素晴らしい文化を生んだのです。19世紀ヨーロッパは、その日本の文化に熱狂するのです。

 本日のハリウッド、アカデミー映画賞で日本の2作品が賞を取りました。うれしい限りです。今また日本は平和と芸術で世界を魅了する時なのです。

(2009年2月)

ホームページ掲載時コメント(2,000年)

 子どもたちの残虐な事件が相次いでいます。しかも17歳が立て続けに、事件を起こしています。たまたま玄関が空いていたので、と女性をナイフで殺害した高校生。成績優秀で特待生だった彼の心の中では、いったい何が起きていたのでしょうか?

 そしてバス・ジャックで女性を殺害した17歳。

 豊かになる、文明国になる、ということはこうした事件から逃れられないのでしょうか? それとも、戦後の日本が豊かさを追い求めてきた、その55年の歳月のどこかに間違いがあったのでしょうか?

 もちろん私などには分かろうはずもありませんが、ただ感じることは、自分自身も含めて、親と子が共通の基盤を持って語り合える言葉を失っている、ということではないでしょうか?

 人は言葉でしか心の内を示し得ません。もちろん言葉で全てを表現できるわけも無いのですが、最低限の基盤すら失われている、と思えるのです。そんな思いで書きました。

 日本民間企業の父と呼ばれる渋沢栄一は、若き頃家業の養蚕と製藍を手伝っていたのですが、幕末尊王攘夷運動に飛び込むことになります。国を憂えて出奔する彼を、論語の一節を引用して父親が諭した話は有名です。その言葉に父親は思いを託し、栄一青年もその言葉の中に父親の思いを受け取めることができたのです。

 昨今多発する子どもたちの事件や先日の駐輪場でのストーカー殺人事件の犯人を知るにつけ、この国ではもはや、親が子を諭し、子が自分を律する際の言葉を失っている、と私は判断せざるを得ないのです。

 戦前の教育勅語への反動からか、会社に入り社訓を暗唱させられるまでは、若者は自分を律する言葉を獲得するチャンスすら与えられて来なかったのが、戦後日本の常態でした。これは考えてみれば大変異常なことです。かつてのような、ほとんどの国民が農民であった時代には、それでも良かったかもしれません。なぜなら、農民は常に自然と対話し、自然の前では謙虚にならざるを得ないからです。ところが物が溢れ、土と切り離された生活を送る現代の我々が謙虚になるためには、大震災や火山の噴火が繰り返し必要になってしまうのです。キリスト教徒やイスラムの人々のように、唯一絶対神との絶え間無い対話を通して自己を律する、という文明を持たなかった我々日本人には、この問題は極めて大きな重荷のように、私には思えます。

 そんな現代において、世界的奉仕団体ロータリークラブの唱える基本理念の一つである、以下の「四つのテスト」は、大いに力を持つのではないでしょうか。

★言行はこれに照らしてから、
【一】真実か どうか?
【ニ】みんなに公平か?
【三】好意と友情を深めるか?
【四】みんなのためになるか どうか?

 それぞれは、ごくありふれた言葉で綴られています。それでいてそこには、生きていく上で必要な規範が過不足無く含まれています。まさに先人の智慧の結晶です。

 21世紀に向かう日本が克服しなければならない大きな課題の一つが、この心の問題です。この四つのテストが、広く家庭や教育現場で利用されれば、今のような殺伐とした心の荒野に、少なくとも何がしかの道標が築けるのではないか、そう私には思えるのです。


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