■新年度になり、沼津医師会の理事の顔ぶれも変わりました。もう一期、私も務めることになり、沼津医師会報の編集後記執筆担当当番表が、ガラガラポンになり、9月号の当番に当たってしまいました。

何を書こうか、もちろん迷いましたが、今の正直な心境を綴りました。

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 昨年古希を迎え、人生の第4コーナーを回ったという思いが、ひしひしと実感され、そろそろ視界に入ってくるゴールの有り様を自分なりに想像することは、身近な問題になりつつあります。ここからゴールまでの道のりは、千歳ノーザンホースパークマラソンで走った、競走馬訓練のための坂道コースのように、たぶん辛い道のりになりそうです。いつまでも今のような生活ができるわけもなく、仕事を離れる時が必ずやって来ます。新しい生活を、どのように組み立てるのか。決して短い期間ではなさそうですから、前もって考えておく必要があります。

 そんな事を考える時に、大変参考になるのが、この本です。

 10年前から定期的に、マラソン大会に参加するようになって良かったと思うことの一つに、村上春樹さんの書かれた「走ることについて語るときに僕の語ること」の内容に、強く共感できるようになったことがあります。

 その中に書かれている、自ら選んだ生活環境の激変に対して、人生の先輩として村上さんが、どう対応したか、という点も参考になるのです。

 村上さんは大学生時代からジャズクラブを経営し、独立事業主として忙しく働く毎日でした。世間知らずの彼では商売などうまくいくはずがない、という周囲の人達の予想を裏切って、経営を軌道に乗せます。「正直言って、自分にとくに経営の才覚があるとは、僕にも思えない。失敗したらあとがないから死にものぐるいでがんばった、というだけだと思う。勤勉で我慢強く体力があるというのが、昔も今も僕の唯一の取り柄である」と、村上さんは語っています。1978年からの作家生活を、いわば二足の草鞋を履きながら続けていたのですが、ある時彼は決心します。順調な店を売り払い、作家として生きていくことを。

 1981年、専業作家となることを決意し、7年間続いた店を人に譲り、新しい生活に入ります。夜の営業が主体であるジャズクラブと作家生活では、朝型人間の村上さんにとっては、180度の転換を日常生活にもたらしました。もともと太りやすい体質だった村上さんは、生活の激変によってマラソンランナーになっていくのです。勝負事や他者との競争に興味が無い性格も、マラソンにはうってつけだったようです。

 「日常的に走り始めたのはずいぶん昔のことになる。正確にいえば1982年の秋だ。僕はそのとき三十三歳になっていた」。

 こうして、新しい日常生活を確立していきます。

 「朝の五時前に起きて、夜の十時前には寝るという、簡素にして規則的な生活が開始された。一日のうちでいちばんうまく活動できる時間帯というのは、人によってもちろん違うはずだが、僕の場合のそれは早朝の数時間である。その時間にエネルギーを集中して大事な仕事を終えてしまう。そのあとの時間で運動をしたり、雑用をこなしたり、あまり集中を必要としない仕事を片づけていく。日が暮れたらのんびりして、もう仕事はしない。本を読んだり、音楽を聴いたり、リラックスして、なるべく早いうちに寝てしまう。おおよそこのパターンで今日まで日々を送ってきた。おかげでこの二十年ばかり、仕事はとても効率よくはかどったと思う」。

 『毎日走り続けていると言うと、そのことに感心してくれる人がいる。「ずいぶん意志が強いんですね」とときどき言われる。ほめてもらえればもちろん嬉しい。けなされるよりはずっといい。しかし思うのだけれど、意志が強ければなんでもできてしまう、というものではないはずだ。世の中はそれほど単純にはできていない。というか正直なところ、日々走り続けることと、意志の強弱とのあいだには、相関関係はそれほどないんじゃないかという気さえする。僕がこうして二十年以上走り続けていられるのは、結局は走ることが性に合っていたからだろう』。

 誰もが作家になるために職を辞するわけでは、もちろんありませんが、仕事を離れるという誰もが通る関門という点では同じです。その後に残された時間の長さは違いますが、私にとっても、その時間は決して短くはありません。それほど意思が強いとも思えない自分が、その時間を充実したものとするには、やはり「性に合った」ものを見つけて、新しい時間割の中で、それを続けていくしか無いようです。

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