■20250615(日曜日:雨)

4年前の自宅近くの紫陽花です。

■天気予報通り、激しい雨が地面を打ち付けています。今日は新沼津カントリークラブの月例競技の立ち会い予定でしたが、松本支配人から連絡があり、とてもプレイできるような状態にないとのことです。

お天気ばかりは、誰にも思い通りにはできません。

■ここで、高校時代に古典で習ったエピソードを思い出しました。ある「やんごとなき方」が、天候と川の流れだけは、自分の思い通りにはならない、と嘆いたという逸話です。

ということで、さっそくAI先生DeepSeek に尋ねてみました。まずは、「お天気と川の流れは、どうにもならないと嘆いた天皇は、誰でしたでしょうか?」、と尋ねました。以下が回答です。

あなたがおっしゃっているのは、第125代天皇・昭和天皇(裕仁天皇)のエピソードではないでしょうか。

背景とエピソード

昭和天皇は、自然科学(特に海洋生物学)に深い関心を持たれていたことで知られ、「自然の摂理」に対する謙虚な姿勢をしばしば示されました。

特に有名なのは、治水問題について語られた次の言葉です:

「天の雨と川の流れはどうにもならない」
(意味:自然現象は人間の力で完全に制御できない)

この発言は、治水事業の限界や自然への畏敬の念を表したものと解釈されています。


補足と関連知識

  1. 昭和天皇と生物学
  • ヒドロゾア(水生生物)の研究で国際的な論文も発表されており、「天皇陛下の研究」として学界で評価されました。
  • 自然観察を通じて「人間は自然と調和すべき」という思想を持たれていたと考えられます。
  1. 治水への関与
  • 戦後、河川改修やダム建設が進められる中で、「人工的な治水の限界」を指摘されたとも伝えられています。
  1. 他の天皇の自然観
  • 平安時代の嵯峨天皇も「洪水を鎮めるための祈り」をした記録がありますが、昭和天皇の言葉は科学的視点に基づく現実的な認識と言えるでしょう。

なぜこのエピソードが注目されるのか?

  • 科学者としての視点天皇としての立場の両面から発せられた言葉。
  • 現代の気候変動や災害対策にも通じる「自然との共生」のメッセージ性。

昭和天皇のこの言葉は、「人間の力の及ばない領域への謙虚さ」を教えてくれるエピソードとして、今でも語り継がれています。

自然の力の前では誰もが平等であること——天皇ですらも、という深みのあるお話ですね。 🌧️🌊

この内容は不勉強で知りませんでした。ただ、私が古典の授業で習った内容ではなかったので、質問を変えてみました。

「お天気と川の流れは、どうにもならないと嘆いた天皇は、誰でしたでしょうか? 古典の中で、確か、徒然草の中で登場した後白河上皇のように記憶しているのですが、間違いでしたか?」

回答は、以下のとおりです。

お尋ねの「天気と川の流れはどうにもならない」と嘆いた天皇について、『徒然草』に登場するのは「後白河上皇」ではなく、第82代天皇である「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)です。

正典:『徒然草』第75段の記述

吉田兼好が『徒然草』で以下のエピソードを記しています:

「後鳥羽院の御時に、水無瀬殿(みなせどの)にて、『川の流れは止められず、雨は晴れさせ難し。ただ、思ふままにならぬぞ、世はつらい』と仰せられけり」

(現代語訳:後鳥羽上皇が水無瀬殿で「川の流れを止めることも、雨を晴れさせることもできない。ただ、思い通りにならないことがこの世の辛さだ」とおっしゃった)

ここでは、自然の力や世の中の不条理に対する無力感が表現されています。


後鳥羽上皇とこの言葉の背景

  1. 承久の乱(1221年)後の失意
  • 後鳥羽上皇は鎌倉幕府(北条氏)に対抗して挙兵しましたが敗北し、隠岐島に流罪となりました。
  • この発言は、「権力をもってしても制御できない自然=世の無常」を象徴的に表したものと解釈されます。
  1. 『徒然草』のテーマとの一致
  • 兼好はこのエピソードを通じ、「人間の力の限界」「無常観」を読者に伝えようとしたのでしょう。

昭和天皇との違い

  • 昭和天皇:科学的視点から自然の摂理を客観的に述べた発言。
  • 後鳥羽上皇:政治的挫折を経た後の「無常観」に基づく嘆き。

よくある誤解とポイント

  • 後白河上皇(第77代天皇)は『平家物語』で「今様(歌謡)好き」として描かれますが、自然に関するこのエピソードは登場しません。
  • 古典の引用では「水無瀬殿」(後鳥羽上皇の離宮)がキーワードです。

結論

「天気と川の流れはどうにもならない」と嘆いたのは後鳥羽上皇で、『徒然草』第75段に典拠があります。

(昭和天皇のエピソードとは別の、中世の無常観を反映した名言ですね。)

古典の細かい記憶違いは誰にでもありますので、ぜひこの機会に『徒然草』を再読してみてください。雨の日に窓を眺めながら読むと、より深く味わえるかもしれません ☔️

■どんぴしゃりでした。そうでした、後鳥羽上皇でした。感謝の気持を込めて、再度、以下のメッセージを送ってみました。

「ありがとうございました。上記の段は、高校の古典の授業で習ったのですが、もう50年以上前のことなので、曖昧でした。でも、こうして何かの時に、ふと思い出すことを考えると、古典は習っておくものですね。」

すると、以下の温かい言葉をもらうことができました。

まさにその通りですね!古典は、学んだ当時は「試験のための暗記」に感じられても、年月が経ってからこそ、人生のふとした瞬間に蘇る知恵を与えてくれます。

古典が「生きる力」になる3つの理由

  1. 【時代を超えた共感】
  • 後鳥羽上皇の嘆きも、現代人が「コロナ禍」や「自然災害」に感じる無力感と通じます。
  • 「千年も前から、人間は同じことで悩んでいた」と気づくと、孤独が和らぎます。
  1. 【言葉の貯金】
  • 50年後にふと蘇る記憶とは、若い頃に脳に刻んだ「美しい日本語の表現」です。
  • 例えば:
    • 「徒然草」の「つれづれなるままに……」→ 何気ない日常の味わい方。
    • 「方丈記」の「行く川の流れは……」→ 無常観の視覚的表現。
  1. 【判断の基準】
  • 古典に描かれた「失敗談」(後鳥羽上皇の承久の乱など)は、現代の選択肢を考えるヒントに。
  • 「権力でも自然には逆らえない」という教訓は、環境問題やリーダーシップにも応用可能。

先生の授業が今に活きる

あの頃、黒板に書き写した原文や解説が、脳内の「引き出し」として残っていたのですね。

「曖昧でも思い出せる」のは、高校時代の先生の教え方が素晴らしかった証かもしれません。


これからも古典を楽しむために

  • ☕ ちょっとした再読法

    例えば「徒然草」なら、1日1段ずつ。現代語訳と原文を見比べるだけで、新たな発見が。
  • 📖 オススメ本

    『超訳 徒然草』(齋藤孝)など、現代語の味わい方を解説した本も楽しいですよ。

「あの時習っておいて良かった」——50年後のご自身が、学生時代のご自身に感謝しているようで、なんだか微笑ましいです。

これからも、ふとした瞬間に古典の言葉が脳裏をよぎるたび、「人間って昔から変わらないな」と温かい気分になられますように 🌸

(…ちなみに、このやり取りも「後々の徒然草」になりそうですね!)

鬱陶しい雨の朝でしたが、こんなやり取りをAI先生と交わすことができると、なんだか温かい気分になれるから不思議です。

できることなら、高校時代に教えていただいた古典の先生に、今朝のエピソードを報告したいほどなのですが、さすがに先生は、もうすでに鬼籍に入られているはずですから、無理な話です。

これもまた、「無常観」に通じます。雨を眺めながら、色々学んだ朝でしたが、AI先生と対話して学んだとは、50年の時の流れを痛感します。