作者別: aiaiganka Page 1 of 70

出張

■20190526(日曜日、晴れ)

 

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紫陽花が、少しずつ色づいてきました。

 

■今日は会議のため名古屋へ出張です。原駅7時18分発の東海道線で静岡駅に行き、そこでひかり号に乗り換える予定です。こだま号に比べると、45分ほども早く名古屋駅に到着します。東海道線に乗るのは十分ほどしか違いませんので、到着時刻の違いはとても大きくなります。10時から午後の2時まで、様々な課題を議論しました。6月の全国代議員会議に向けての準備です。

 

■さて今日は、全国で異常な高温を記録しました。北海道の佐呂間町で39.5℃、5月としては全国で史上最も高い気温を記録しました。来週の日曜日、つまりちょうど7日後にJAL 国際千歳マラソンを走る予定ですが、いくらなんでも35°を超える気温の中では走るのは危険です。もし30°を超えるようでしたら走るのは止めて、観光旅行に切り替えようと思っています。今年で6回目になる千歳マラソンへの参加は、私にとっては毎年の恒例行事になりました。昨年からはTakuが参加することができなくなりましたので、Sunと二人での北海道となっています。果たして天候がどうなるか、それだけが心配です。前日の土曜日に北海道に行くのですが、あまりの寒さに震えてしまい、風邪を引いたのではないかと翌日の参加を断念するか迷ったことも、以前にはありました。それが一転して、今年は暑さの心配をしています。その日を迎えてみないと、 本当に分かりません。

 

■土曜日にはアメリカのトランプ大統領が来日しました。午前中は安倍首相とゴルフを共にし、 大相撲は千秋楽でしたので、優勝力士に賜杯を手渡していました。友好ムードの中で毎日を送られているのは素晴らしい事なのですが、あまりの祝賀ムードに、私などはいささか違和感を感じています。 一色に塗りつぶされているマスコミの報道も、どこか変なのです。世界中でトランプ大統領に対する少なからずの批判が、まき起こっているわけですが、日本だけは別世界のようです。

 

まるで御領主様を迎える領民のように、見えなくもありません。暗黙理のうちに批判が許されない祝賀ムードというのは何か変です。国民の全てが、トランプ大統領に対して賛同しているわけでは、もちろんないのです。それにもかかわらず、批判することが許されないような雰囲気というのは、まるで戦前を思い出させます。日本は本当に、変わっていないのだなと、つくづく感じるのです。ひょっとすると、岸田秀さんが指摘しているように、明治以降の日本人の精神性というのは、未だに未解決のままなのではないかと、感じざるを得ないのです。

 

繋がりの信頼感

■20190524(金曜日:晴れ)

 

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Pan Pacific Melbourne Hotel のフロント近く。一時、憩える空間です。

 

■今朝は走らずにゆっくりと休みました。昨日は今年度最後の担当学校の学校検診が終わりました。 午前中に二つの小学校を掛け持ちして学校検診を行いました。数年前からは、学校へも手軽に持ち込むことのできる携帯用の機器を使用して、子供たちの目の状態を確認するようにしています。 3歳児検診があり、目の発達に問題がある子供達が、その時点で見つかれば問題はないのですが、残念ながらその検査をすり抜けてしまう子供たちが未だに後を絶たないのです。 特に遠視性の不同視弱視の子供達を見つけることは、とても大切です。100人に1人、こうした問題を抱えた子供達がいると言われています。小学校に入るまでに見つけて、メガネの装用や、適切な訓練を行えば、両眼ともに1.0以上の視力を獲得でき、両眼視機能も正常に発育します。

 

両眼視機能、つまり物事を立体的に見たり、あるいは動体視力の発育に問題をきたすと、様々な場面で困難をきたします。 動体視力が発達しないと、動きの速いスポーツ、例えばテニス、卓球などでは、ボールを的確に捉えることが、とても困難になります。運動神経には何の問題もない場合でも、 空振りしてしまうのです。運動神経が悪い、という一言で片付けられてしまう場合もあります。子供さんにとっては大変な不幸です。たとえ百人に一人ではあっても、その子供さんにとっては1回きりの人生ですから、 避けることのできるハンディキャップは、少しでも減らしてあげるのが社会の役割ではないでしょうか。

 

■今朝の東京新聞朝刊には、村上春樹さん特別インタビュー記事が掲載されています。「小説家40年と騎士団長殺し」です。第6回の今日は、「暗闇抜け 許しの心得る」。

 

この中で主人公の「私」が物語の最後に「私が免色のようになることはない」「なぜなら私には信じる力が備わっているからだ」と語っている言葉を取り上げています。 免色という登場人物が、「よその世界と繋がりを持つか、持たないかということの、その狭間にいる人です。何かに自分がコミットしているのか、していないのかということが自分でもよくわからない」のに対し、「私」は「結局もう一度結婚生活をやり直すことになった」のです。二人の違いはどこにあるのでしょうか、という問いかけに対して、村上さんは以下のように語っています。

 

もちろん愛なのですが、それ以上に、人と人との繋がりの信頼感というものが大事なことになります。免色さんには、そういう感覚が欠落しているんじゃないかな。

 

この村上さんの言葉を聞いて、私が思い出すのは、やはりアドラー心理学です。「人間の持つ全ての悩みは対人関係の悩みである」 とする、あのアドラー心理学です。 アドラー心理学の目指す最終目標である「共同体感覚」獲得への道。自己受容、他者信頼、そして他者貢献。 全ての道は、そこへ向かっているのかもしれません。

 

人民の学校

■20190523(木曜日:晴れ)

 

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今回投宿したPan Pacific Melbourneホテル・フロントです。

 

■今朝はゆっくりと休みました。昨日はさすがに疲れました。朝10 km を走り、仕事も無事にこなしましたが、さすがに疲れが蓄積してしまい、一日中気だるい思いをしました。早々に床に入り休みました。そのおかげか、今朝は気持ちも少し軽やかになりました。

 

今日は最後の学校検診です。午前中休診にして、二つの小学校を回る予定です。そして昼休みにはロータリークラブの例会があります。今日はいつも司会役をしているSAAの土屋さんが、仕事の関係でどうしても出席できず、副SAAの私が代役を務めなければなりません。今日の例会には、静岡第二グループの山口ガバナー補佐がお越しになりますので、粗相のないように会の進行をしなければなりません。いろいろありそうな1日になりそうです。

 

■5月20日付の東京新聞社説では、「民主主義を学ぶために 市民裁判員10年」と題して書かれています。 市民の司法参加は現代では先進諸国で広く行われており、米国の陪審制、西欧の参審制などがあるようです。

 

刑事裁判に市民の感覚を反映させる目的で、2009年5月21日に導入されたのが裁判員制度だ。二十歳以上の有権者から選ばれた市民6人が、裁判官3人とともに審理する。殺人や強盗致死傷など最高刑が死刑又は無期懲役・禁錮か故意に被害者を死亡させた事件だ。

裁判員は操作結果の追認ではいけないし、真実を見抜く眼力も欲しい。プロ裁判官と違い、市井の人として、それぞれの良識を活かしたい。

 

最後に社説は、こう結ばれています。

 

19世紀のフランスの政治思想家トクヴィルは米国の陪審制についてこう記した。

「人民の審判力を育成し、その自然的叡智を増やすように役立つ〈中略〉無料の、そして常に公開されている学校のようなものである」

 

単なる裁判ではなく、民主主義を養う人民の学校であると看破したのです。長い歴史を持つ陪審と比べ日本はまだ10年しか経っていません。この制度を、民主主義を成熟させる良き学校としたい、と社説は結んでいます。

 

私もまさにその通りだと感じています。こうした時にいつも思い出すのが、映画「12人の怒れる男」です。 英語の勉強にもなると思い、字幕には英語のセリフが出てくるようにデジタル処理したファイルをスマホに入れておき、時間が取れた時には繰り返し観るようにしています。 とてもよくできた映画だと、何度見ても思います。縁もゆかりもない、全く見知らぬ者同士である12名が一箇所に集まり、陪審員として議論を戦わせるわけです。 それぞれ異なる背景を持ち、異なる人生を歩んできた個性ある12名の議論の様子は、まさに人民の学校そのものなのです。12名は、それぞれ名前も知りません。映画の一番最後の部分、not guilty の結論が出て全員が裁判所を出ていく場面で、陪審員の一人が、ヘンリー・フォンダ演ずる陪審員に、 名前を尋ねる場面があります。お互い名前を伝えあって、そして別れるのです。ただ、それだけです。裁判員を務めることになった方には、ぜひ一度この映画を観てもらいたいものだと私は思います。

 

窮鼠猫を噛む

■20190522(水曜日:曇)

 

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Melbourneで始めてみたピンク色の池です。Salt Water Lake。世界中で四箇所、確認されているそうです。

 

 

■今朝は走りました。昨日の夜は沼津医師会の理事会があり、地域医療における様々な問題点を検討しました。今朝は5時に目覚ましを鳴らし、起き出すのに少し逡巡しましたが、準備運動を済ませて5時半には走り出すことができました。10.65 km を走り、今月の通算は83.13 km。 残り9日16.86 km のところまで来ました。最初の5 km ほどは体も重く、足取りはとても軽快とは言えませんでした。それでも7キロを過ぎてからは、それ以前に比較して、随分と軽やかに走ることができたように思います。

 

6月2日の JAL 国際千歳マラソンに出場しますので、三日間の休養が必要です。ということは5月30日、31日そして6月1日には、走らずに休養しなければなりませんので、それまでに100キロを走らなければなりません。なんとか今月も目標を達成して、51ヶ月連続月間100 km の記録を達成したいと思っています。

 

■トランプ政権の中国通信機器大手のファーウェイへの圧力が強まっています。トランプ大統領の禁輸措置を受け、アメリカ企業が Huawei へのソフト提供や電子部品の出荷を停止する動きが広がってきました。ロイター通信によれば、 Huawei 社製のスマートフォンに関して、 Google の「 Gmail」や傘下の 動画投稿「 YouTube」 といったアプリの利用まで、将来的に制限される可能性がある、と報道されています。 2018年度の日本国内のスマホ出荷台数シェアで、Huaweiは5位の6.2%を占めています。私自身も Huawei 社製の p 10 Lite を利用しています。故障することもなく、十分満足できる性能を発揮してくれています。ファーウェイは昨年、パナソニックや京セラなどの日本企業から6700億円規模の部品を調達しています。 Huawei 社製のスマホが失速すれば、それは同時に日本企業の業績にも影響するのです。

 

トランプ政権の中国いじめが続いていますが、テレビの解説によれば、それは世界的な覇権争いの様相だというのです。中国には決して覇権を手渡さないぞ、というアメリカの宣言だというのです。田中宇さんの解説では、むしろ真相は逆のような気がしますが、どちらにしても結果として引き起こされるのは、「窮鼠猫を噛む」という状況ではないでしょうか。中国は大国です。日本とは違います。大国となった今、これまでのように、アメリカの風下で、ひっそりと力を蓄える、という段階は過ぎ去ったのでしょう。大国としての矜持も、そして責任も果たさなければならないのです。トランプ大統領は、いわば中国の尻を叩くことで、大国としての責任を引き受けさせようとしているのではないでしょうか。スマホのことに関しても、アメリカの半導体など、部品供給が停止されれば、もちろん一時的には窮地に陥るでしょう。しかし中国は、そのまま黙って引き下がるようなことはしないはず。自分たちの力で、それに代わる製品を自力で作り上げ、自立していくはずです。それだけの能力が、今の中国には十分蓄積されていると、トランプ大統領は踏んでいるのでしょう。中国が本当に潰れてしまっては、アメリカにとっても世界にとっても、何も良いことはないのです。そのあたりはトランプ大統領は十分理解した上での行動であるはずです。

 

以前万里の長城を登るために中国に行った時に、まず驚いたのは、インターネットに繋がっているにもかかわらず、 Google が利用できないことでした。噂では聞いていましたが、まさか本当に Google と接続できないなどとは、実際に遭遇してみて本当に驚きました。 Google を通して情報がアメリカ政府に筒抜けだ、という危惧から中国政府は接続を制限しているのだ、とも言われていました。結果として中国では、検索するにも Google を通してではなく、中国の会社であるバイドゥを使っていることがほとんどのようです。Amazon がなくてもアリババがあれば、中国の人は何も不自由していないのです。中国政府に対するさまざまな批判があることはもちろんですし、民主的とは言えないことは間違いありません。しかしアメリカの会社の言いなりになっていたとすれば、梯子を外された時に、社会はパニック状態になってしまいます。安全保障とは、何も戦闘機や空母を作ることだけが、安全保障ではないのです。今の危機状態を、 Huawei 社が、そして中国政府が切り抜けた時には、今よりもさらに強い存在として生まれ変わっているに違いありません。

 

裁判員制度

■20190521(火曜日:豪雨)

 

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昨年Melbourneを訪れた際に投宿した Swanston Hotel です。隣が有名なチョコレート屋さんです。

 

■今朝はゆっくりと休みました。昨夜の天気予報では、今日の昼までは大雨の予想です。その予想通りに、昨夜から降り始めた雨は、午前7時4分現在、激しく降り続いています。 予定されていた小学校の遠足も午後からに延期されたようです。こんな時はジタバタしても致し方ありません。静かに雨音に聞き入るか、黒い雲に覆われた空を眺めるかしかありません。

 

■さて今朝の朝刊には、「裁判員・強制起訴施行10年」と題して記事が掲載されています。共同通信が行った全国の裁判員経験者へのアンケート調査によると、「判決に市民感覚が反映された」と回答された方が92%でした。こうした市民が参加した判決を、裁判官だけで審理する控訴審が覆す割合が、昨年は1割を超えています。「経験してよかった」が87%、「ある程度」が11%となり、ほぼ全員が肯定的な評価を示しています。「裁判員制度を続けるべきだ」としたのは84%。「やめるべきだ」は3%。「分からない」 は13%でした。

 

私は裁判員制度を経験したことはありませんが、アメリカの制度である陪審員制度を描いた名作「12人の怒れる男」を何度も観ていますので、少しは想像できるのではないかと思っています。陪審員制度では、有罪か有罪でないかを、12対0になるまで議論を続けて決着をつける方式のようです。 有罪か無罪かを決めるわけではないところがミソでもあります。 映画の中では何度も「reasonable doubt 」 という言葉が語られます。 つまり、どう考えてもおかしいという点が拭い去れないのであれば、それは有罪にはできない、という考え方です。 被告は有罪であるということを立証する責務が、検察官にあるのであって、自分自身が無罪であることを立証する責任が、被告にあるわけではないのです。その点は憲法に保障された個人の権利であると、映画の中では陪審員の一人であるヘンリー・フォンダが語っています。 法律には、もちろん私は詳しいわけではありませんが、映画を観ながら思うことは、この点がアメリカと日本では違っているように感じるのです。 まさかそんなことはないとは思いますが、日本では自分自身が無罪であることを被告自身が立証しない限り、有罪になってしまうのではないかとすら感じてしまうのです。

 

アメリカのテレビ映画「Law and Order 」を観ていると、アメリカの容疑者がまず言うことが、「弁護士を呼んでくれ」です。アメリカでは弁護士の立会いを要求することは、当然の権利なのです。残念ながら、日本では異なるようです。 そして裁判所で、まず決めなければならないことが、保釈するかどうかの決定です。検察官が勾留請求の理由を述べ、それを裁判官が勘案して保釈するか勾留するかの決定を下します。拘留期間の長さの違いも、両国間の裁判制度の違いを反映してるようです。 それぞれの国にはそれぞれの文化・歴史がありますので、どちらかが正しくて、どちらかが間違っている、というものではないのでしょうが、もしも自分が被告の立場に立たされたとしたら、どちらの制度を希望するかは明らかであるように私は感じます。

 

reasonable doubt 合理的な疑い、についてはWikipediaには、以下の記載がありました。

 

日本の刑事訴訟において、裁判所が公訴事実を認定するには、当該事実につき「合理的な疑いを差し挟む余地のない程度の立証」あるいは「合理的な疑いを超える証明」が必要であるとされる。ここでいう「合理的な疑いを差し挟む余地がない」というのは、「反対事実が存在する疑いを全く残さない場合をいうものではなく、抽象的な可能性としては反対事実が存在するとの疑いをいれる余地があっても、健全な社会常識に照らして、その疑いに合理性がないと一般的に判断される場合には、有罪認定を可能とする趣旨である」とされる(最判平成19年10月16日)。被疑者及び弁護側からみれば、無罪を主張する際には容疑について完全無実を証明する必要は無く、犯罪行為を行ったことについて合理的な疑いを示すことができればよいことになる。

戦後、英米法から導入された概念であり、アメリカでは、陪審員は「合理的な疑い」が排除されない限り、有罪の評決をしてはならないとされる。

 

8,000キロ

■20190520(月曜日:晴れ)

 

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Melbourne市内を流れるヤラ川沿いの夜景です。毎晩多くの人が行き交っています。

 

■今朝は走りました。来月2日に行われる千歳マラソンに参加しなければなりません。その前に3日間は休養をとらなければなりませんので、それまでに100キロを走っておかなければならないのです。昨日の疲れも残っていたのですが、とにかく、ゆっくりで良いので走り切ろうと決めていました。10.56 km を走り今月の通算は72.48 km、 残り11日で27.51 km のところまで到達しました。残りの日数から考えれば、目標達成は決して難しくはなさそうに見えますが、何が起こるかわからないのが人生です。油断をせずに、最後までしっかり走りたいと思っています。

 

先月もなんとか月100 km の目標を達成しました。大型連休中にメルボルンに出かけなければなりませんでしたので、せわしない毎日でしたが、なんとか達成することができました。メルボルンでも2回走り10 km 以上を積み重ねました。記録を見てみると、 2015年3月に月100 km の目標を達成して以来、これで50か月連続、月100 km を走りました。記録に残っている全通算走行距離は、現在8,007 km となっています。我ながらよく積み重ねたものです。これからも続けていきたいと思っています。

 

 

他者とともに在れ

■20190519(日曜日:晴れ)

 

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Melbourne市内の交差点です。信号無しで、上手に対応しています。信号より、むしろ安全なのかもしれません。

 

■今日は新沼津カントリークラブ B クラスの月例です。最近は同じメンバーで競技に参加しています。久松さん、篠崎さん、そして今日は植松さんが都合で出られませんでしたので、3人でのプレイでした。雨も心配されたのですが、曇り空だったものの、幸い雨が降ることはなく、むしろ暑くなくてプレイをするにはちょうど良い気候でした。クラブヘッドの動きを少し理解できたおかげで、前回からはめちゃめちゃ酷いスコアを出すことはなくなりました。今日も OB は一度もなかったものの、 パーを取ることがなかなかできずに、 結局前半52回、後半は47回、合計99回で、なんとか100回を切ることはできたものの、とても満足できるスコアとは言えませんでした。 少しずつ改善されてはいるものの、フォームがしっかり自分のものになっていませんので、 今のままでは良いスコアは、出そうにありません。毎日の素振りを欠かさずに行い、ホームをしっかり自分のものにすることが、今一番しなければならないことのようです。

 

■さて今日の東京新聞「時代を読む」欄では、関西学院大学准教授・木戸理恵さんが「上野祝辞の意図」と題して書かれています。女性学・ジェンダー研究で知られる上野千鶴子さんの東京大学での祝辞が話題となりました。
祝辞ではスタートラインの不平等に触れ「頑張れば報われる」と思えるのが実は特権的なことだと説かれた。「あなたたちの頑張りを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれない人々を〈中略〉助けるために使ってください」。

この部分は「高貴な義務」すなわち「特権的な立場の人には奉仕の義務がある」とする貴族的な思想と解釈され、注目を集めました。しかし木戸さんは、これを高貴な義務を果たす支配者のすすめとして受け取ることはできない、そこには能力主義批判が語られていると書かれています。

木戸さんは、

 

能力主義は、人を単体で見て「できる・できない」を決める。「できる」とされた人は優位な立場を「頑張ったから当然だ」と考え「できない」とされた人は劣位の位置を「自己責任」と引き受けさせられる。それは「誰の助けも借りない自力だけの勝負」をさせることで個々人を切り離す、孤独な主張である。しかも実際には、機会の平等はたてまえに過ぎず、様々な不平等があることが分かっている。

「つながりの中で生きたい」というニーズに、一人では生きられない弱者は気づきやすい。だが強者はどうか。「自分は勝ち組」という意識は、弱い他者への共感や連帯の感覚を鈍らせ、果ては自分の中にもあるかもしれない弱さへの想像力をも奪っていく。それは孤独ではないか。

 

そのように考えれば、受け取りたいのは「高貴な義務のすすめ」というより「他者とともに在れ」というメッセージである、と木戸さんは指摘しています。

 

新自由主義全盛の昨今ですが、その主義の目指すところは、まさに個人個人をバラバラにし孤独に陥れ、分割支配を容易にすることではないか、と私には思えます。支配者にとって最も恐ろしいのが、連帯であることは、 歴史を通じての不変の真理ではないでしょうか。

 

海鳴り

■20190518(土曜日:曇)

 

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Melbourne市内の青果店です。朝日を浴びて輝いています。

 

■今朝は5時15分に目覚ましを鳴らして起きだしました。昨日10 km 以上走りましたので、今日は休養日です。そして土曜日です。一週間の仕事が終わる日です。今週の学校検診で、全ての担当学校を回ったと誤解していましたが、来週もう一回残っていました。それで私の担当は終わりです。

 

子どもたちの数が本当に減りました。自分の子どもたちが通っていた小学校では、クラス数が激減し、今では各学年ひとクラスになってしまいました。一時期はその小学校のためだけに新しい中学校をつくろう、という意見も出ていたようですが、今では他の小学校との合併が議論されています。 いつのまに、こんな状況になってしまったのか。当然マスコミでは以前から報道されていたのでしょうが、こうして自分自身が仕事の一部として関わると、その変化の大きさを痛感します。

 

身近に子どもたちの元気な声を聞く機会が、ほとんどなくなりました。 社会全体で子ども達を支える政策をとることで、 日本の未来を考えていくことが、喫緊の課題ではないでしょうか。

 

■今朝の東京新聞・筆洗には、廃プラの輸出などを規制するバーゼル条約の改正が決まったことを報じています。 中国が輸入禁止を決めたために、 輸出することで処分を回避してきた日本も、国内での処理の対応を迫られています。

 

この記事の書き出しは以下の通りです。

 

作家の藤沢周平さんに故郷山形の海に触れた随筆がある。海沿いのホテルで夜、眠れずに、海鳴りをしばらく聞いた。心に浮かんできたのは単純な懐旧の情ではない。

〈若さにまかせて、人を傷つけた記憶が、身をよじるような悔恨を伴って甦る〉

海の声と形容されることもある波音や海鳴りは、美しい思い出だけでなく、過去への悔いもかきたてようか。

 

と、続けています。大好きな藤沢周平さんの作品を、再読してみたくなりました。

 

物価上昇

■20190517(金曜日:晴れ)

 

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Melbourne 市内のコンビニと言うか、カフェの様子です。コンビニのようなお店でも、かなり本格的なコーヒーを作ってくれるのが、Melbourneでしょうか。

 

■今朝は走りました。いつものように5時に目覚ましを設定しておきましたが、3時半頃一度目が覚めてしまいました。さすがに3時半では、些か早すぎますので、そのままもう一度寝入って5時少し前にまた目が覚めました。今日も爽やかな朝でした。昨日の天気予報によれば、今朝の気温は15°ほどということでしたが、湿度が低いためか気持ちの良い朝でした。今朝も、とにかくゆっくりでいいから、しっかりと走ろうと思いましたが、体が重くて参りました。それでも何とか10.53 km を走り、今月の通算は61.92 km。残り14日38.08 km のところまで来ました。

 

今朝走った様子を、ランニングウォッチの記録を見て振り返ってみると、当初はキロ7分30秒程度から、次第に右肩上にペースを上げて、最後はキロ6分を切るペースで走り終わっています。例のチーランニングを心がけ、足も手もなるべく後ろに蹴るように心がけたのですが、 途中からは地面そのものを足で掴んで、後ろへ追いやるようなイメージで走りました。それが正しい走り方なのかどうかわかりませんが、地面からの力を前進する力に替えるというイメージが大事なのかもしれません。

 

■今朝の東京新聞「視点」は、編集委員・久原穏さんが、「生活者から遊離する物価目標・目指すべきは賃金上昇」と題して書かれています。 日銀が2%物価上昇を目標にしているのは周知の通りです。物価が上がれば庶民は生活が苦しくなると、素人の私は考えるのですが、 どうもそうではないようです。 2018年の1年間でも、消費者物価指数のうち、生鮮食品を除いた総合指数は、2%の目標どころか1%にも達していません。 しかしこうした統計ではパソコンやカメラの機能が向上すれば実質的な値下げと判断したり、自動車は現実に価格が上昇しているのに、機能向上によって価格は横ばいとするなどの換算がなされているとは知りませんでした。「実態以上に物価を低く見せている」と批判する専門家もいるようです。「2%物価目標」が実現したと仮定した時、食料品の物価への影響を考えた上で、直近5年間で単純計算すると、食料品の上昇は25%に達し、現在の2倍以上に達するという計算もあります。

 

現状の「2%物価目標」が国民の望む政策とずれているのは明らかだ、と久原さんは語っています。現在の食料品高騰はコストが押し上げる悪い物価上昇であり、賃金上昇を起点に需要が引き上がる形の物価上昇こそが良い物価上昇であり、それこそが政府の目指す政策であるべきなのです。 今の政府の目指しているのは、何もかにも、本末転倒にしか私には見えないのです。

 

この瞬間

■20190516(木曜日:晴れ)

 

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Melbourne 市内の The Tea House です。

 

■今朝は走らずに5時15分に目覚まし時計を鳴らしました。昨日の朝は10 km 走りましたので、今朝は無理をせずに休養です。風もなく、ひんやりとした空気に包まれた爽やかな朝です。昨日は新聞を読んでいて、二人の方が亡くなられたことを知りました。女優の京マチ子さんと、米国を代表する歌手そして女優であったドリス・デイさんです。京マチ子さんといえば、私にとっては映画「羅生門」でした。その妖艶さは強烈な印象を与えました。

 

一方ドリスデイさんについては、ヒッチコックの映画に出演されていたのを何度か観ました。

 

1953年の西部劇風ミュージカル映画『カラミティ・ジェーン』の大ヒットで人気を不動のものとした。1956年のアルフレッド・ヒッチコック監督作品『知りすぎていた男』の劇中で歌った『ケ・セラ・セラ』が大ヒットし、アカデミー歌曲賞を受賞した。

 

映画の中の彼女は、健康的で明るく朗らかな、まさに戦後アメリカを代表する、理想的な女性像だったように思います。ところが十歳の時に両親が離婚し、彼女自身も生涯に4度も結婚しているのを知ると、そう単純でもないようです。今朝の東京新聞筆洗には、 彼女の生涯が書かれていました。

 

12歳の時には父親が家を出て行った。寂しい生活にも夢があった。ダンサーになる。幼い時からレッスンを受けてきた。 大きな街へ出て、ダンスで生きると決意する。悲劇は出発の前夜に起きる。少女が乗った車が列車に衝突し、大切な脚に大けがを負う。ダンサーの夢を諦めた。長い入院生活の中で一つの楽しみに出会った。ラジオから流れる音楽である。自分もそれに合わせて歌う。上手に歌える。今度は歌手を目指そう。やがて少女は米国を代表する歌手、そして女優となる。

 

大ヒット曲『ケ・セラ・セラ』は、小さな娘が母親に質問をし、それに対して母親が答えるという歌詞でした。私は大きくなったら美人になるかしら、私は大きくなったらお金持ちになるかしら、といった具合です。 それに対する母親の答えが、ケ・セラ・セラ(なるようになるのよ)、というわけです。確かにその通りに違いありません。未来のことなど分かりようがないのです。アドラー心理学を広く知らしめた大ベストセラー「嫌われる勇気」に書かれてあった印象的な部分には、こうあります。

 

過去に起きたことなどは今の自分には何の関係もない。未来のことなど分かりようもない。人生とは、いまこの瞬間をくるくるとダンスするように生きる、連続する刹那なのです。そしてふと周りを見渡したときに「こんなところまで来ていたのか」と気づかされる。

 

だから、アドラーの言うように、「いま、ここにスポットライトを当てて、ダンスを踊るように生きていく」しか無いのです。ドリスデイも、きっとそのように生きたに違いありません。

 

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