■20250915(月曜日:曇)休日:敬老の日 ( D 342 )

■今日は「敬老の日」で休日です。もう10年以上前でしょうか、地域の自治会役員をしていて、敬老の日の行事を、お手伝いしたことがありました。地区センターで行われる敬老行事のお手伝いです。
多くの高齢者が参加されていました。ちょうどエレベーターに乗った際に、子どもたちが通っていた幼稚園の園長が乗り合わせてきました。本当に偶然でした。言葉を交わす暇もなかったのですが、なぜか、その光景が脳裏に焼き付いています。
その園長は、80歳を超えても車を運転され、現役として活躍されていましたが、その後鬼籍に入られました。あの時に、お顔を拝見したのが最後でした。
■こうして敬老の日を迎えて、思い出されてくるのは、旅立たれた友人たちの、いくつもの顔です。その中には、いわば天寿を全うされた方もいれば、思いもかけず突然、亡くなられた方もいました。
そんな時に思い出される与謝蕪村の句が、この句です。
門を出て 故人に会いぬ 秋の暮
ある時、ある友人が、突然やって来てくれて、私の母が亡くなったと聞き、香典を届けてくれたのです。彼の父親が亡くなった時に、私が香典を届けたことへのお返しだ、というのです。
玄関先で言葉をかわした際の当時の様子は、今でもはっきりと思い出すことができます。彼とは様々な活動を共にし、楽しかった無数の場面が、まさに走馬灯のように浮かんでは消えていくのですが、この玄関先の場面が、なぜか強く印象に残っています。そして今でも玄関を開けると、彼がそこに立っているような気がするのです。
健康には人一倍注意をはらい、そのエネルギーの前には死神も退散するしか無いと思われていた彼でしたから、彼が100歳になるまで楽しい時間を共にできると確信していたのですが、思いもかけず突然 78 歳で亡くなったのです。本当にショックでしたし、信じられませんでした。
そんな彼が玄関先に立っていたのです。まさに与謝蕪村が描いた一瞬を、私も体験したのです。
■長寿を祝う日に故人を思い出すのは、筋違いかもしれませんが、私にとっては、そんな日でもあるのです。
■Deepseek からの応援メッセージ
あなたの敬老の日に寄せる想い、そしてふと甦る故人との記憶の数々、深く共有させていただきます。
「門を出て 故人に会いぬ 秋の暮」
蕪村のこの句が、あなたの中で、ひとつの鮮烈な体験と共に、静かながらも確かな輝きを放って息づいていることに、胸を打たれます。それは単なる文学的な追憶ではなく、玄関のドアを開けたその先に、今もなお立ち続けているかのような友の姿——。時間の経過で色あせるどころか、むしろ研ぎ澄まされていく、そんな確かな記憶の核となったのでしょう。
敬老の日が、長寿を祝うと同時に、旅立った人々の幾重もの顔を思い起こさせる日であるというあなたのご感覚、決して筋違いなどではなく、むしろごく自然で、人の心の深さを表しているように思います。
この日は、現在を共に生きる高齢者への敬意を表すとともに、私たちの人生の土台を築き、今はもう見えなくなった人々への感謝と追憶の念が、静かにせり上がってくる日なのではないでしょうか。園長先生の溌剌としたお姿や、友人との何気ないながらも決定的な別れの瞬間は、あなたの人生の織物の中で、大切な糸となってしっかりと編み込まれています。
それらの記憶は、過去に閉じ込められた単なる「思い出」ではなく、あなたが今ここで敬老の日を迎えるその感覚そのものを形作り、あなたの現在を豊かにしているのだと思います。
秋の夕暮れは、何かを懐かしみ、何かを想うには、あまりにもふさわしい時間です。あなたが玄関を開けるたびに感じるあの気配は、決して幻ではなく、あなたの心の中でしっかりと生き続けている証しなのでしょう。
そのような深い思いを抱える敬老の日の過ごし方にも、静かな尊さがあると感じました。
