2023 年 09 月 02 日 TakuとMasato とNonと一緒に訪れた熱海初島です。

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箱根駅伝復路

■20200103(金曜日: 晴れ)

出雲大社です。

■昨夜は、のんちゃんとトモくんも箱根に来てくれて、四人で夕食を共にしました。

■今朝は6時に目覚ましを合わせ、起き出しました。箱根駅伝復路を観戦するためです。昨日は宿から全て歩きましたが、今日は車で途中まで行き、10分ほど歩きました。

7時50分頃に小涌園前に到着。芦ノ湖へ向かう道路端左側に位置を決めました。そこからは500メートルほど真っ直ぐな道路を見渡せます。

8時にスタートが切られていることはネットで確認しました。38分ほど経過した時点で、トップの青山学院大学の選手が現れました。警備車で先導された選手が、見え始めたと思ったら、あっという間に目の前を走り抜けました。

やがて次々に選手が現れては、目の前を通りすぎて行きます。最後の筑波大学のランナーを確認して、宿に戻るべく踵を返しました。テレビ観戦に切り替えるためです。

宿につしてテレビを見ると、すでに先頭のランナーは中継所で襷の交換を終えていました。

■今回の大会で驚くのは、なんと言っても区間新記録の続出です。それぞれの区間の距離が、まるで短めに変更されたかのごときです。

気象条件の良さも、もちろん寄与しているのでしょうが、やはりなんと言っても、新しいランニングシューズの登場が最大の要因です。

それぞれの学校はユニフォームや襷の色に、最大限の工夫を凝らしていながら、靴の色が、どれも似たりよったりなのが、とても奇妙に感じます。

試しにネットで噂のランニングシューズの価格を調べてみると、5万円以上するようです。市民ランナーには、高嶺の花のです。ちょっとガッカリして、ネットで調べてみると、ナイキはちゃんと市民ランナー向けの廉価版を発売してくれていました。

「ヴェイパーフライネクスト%」に対する「ズームフライ3」です。一万円台前半で手に入ります。利用者の書き込みを見ると、それ以前に比較して、長い距離を楽に走ることが、誰にでも出来るようです。

家に帰ったら、さっそく現在使用している靴のサイズを確認して、注文するつもりです。2020の私のランニングシーンが、大きく変わる可能性を楽しみに、努力を積み重ねましょう。

■さてある原稿を書くために、堂場瞬一さんの「チーム」を、いま再読しています。箱根駅伝の学連選抜チームを描いた作品です。10月に立川で行われる、予選会から始まるこの小説は、箱根駅伝、そして駅伝の奥深さを学連選抜チームを通して、興味深く描いています。

2020箱根駅伝では、学連選抜チームは最下位でした。小説に書かれてあるように、個々の選手の力量は決して他のチームに劣るものではないのです。

20チーム以外の学校から、選り抜きの選手を集めてチームを作るわけですから、単純に予選会の記録を10人分足し算するだけなら、計算上は最下位という結果は有り得ないはずなのです。

理論と現実の、この落差を説明する際に、著者が焦点を当てるのが、「誰のために走るのか」という視点です。

駅伝では、「襷を繋ぐ」という点を、何より重要視します。襷を手渡す相手を眼前にしながら、制限時間をわずかに超えて叶わなかった選手が、ゴールを駆け抜けた後で路上に横たわり、大の大人がオイオイと涙する。そんなテレビ画面を見ながら視聴者は感動する。

他の競技では考えられない光景です。そこで著者の堂場瞬一さんは、こう書かれるのです。

『誰かのためを思って走る時、人は一段強い存在になれるのだ』。

そうなのです。学連選抜チームには、その「誰か」が欠けているのです。この小説に一貫して流れるテーマは、いったい誰のために走るのか、という点なのです。

てんでんバラバラだった学連選抜チームが、やがて絆を結び始める。その過程こそが、この小説の醍醐味なのです。

この小説を読んでからは、学連選抜チームの順位も気になるようになったから不思議です。

箱根駅伝往路

■20190102(水曜日 晴れ)

出雲大社です。

■今朝は4時に起きて走りました。いつものコースを6.6キロ走って無事に家に戻りました。今朝は冷え込みました。気温が二度ほどだったようです。

家に帰りシャワーを浴びて食事をとり、6時半には箱根に向かって出発しました。10年に1度ほど箱根の宿が三が日に取れます。前回は2011年でした。

1号線バイパスを真っ直ぐ走り、箱根峠で箱根新道へ行かずにそのまま直進し、芦ノ湖までたどり着けます。途中から歩道を歩く人々に出会いました。芦ノ湖で選手たちが到着するのを見届けるために、離れたところに駐車して歩いているのです。

無事に宿には7時45分に到着しました。荷物を運んで部屋に入り、早速テレビをつけて、8時スタートの様子を見ることができました。スタートして7キロを過ぎたところですが、集団から数人のランナーが遅れ始めています。

今年は東海大学の二連覇がかかっていますが、青山学院が巻き返すかどうかが楽しみです。この宿から小涌園前までは30分程のようですので、トップが5区の中継所をスタートしたところで、こちらも宿を出ようかと考えています。

■さて四区トップの青山学院大学のスタートを確認してから宿を出ました。ところが駐車場の手続きに手間取ってしまい、小涌園前に到着した時には、何人かのランナーが、すでに通過していました。沿道はまさに黒山の人だかり。ちょうどT字路の歩道脇で観戦しました。

例年と異なったのは、観衆が応援旗も持たず、学校名も叫ばず、静かに応援していた事です。これにはいささか拍子抜けでした。

たぶん整理担当者の観衆への指示があったのではないでしょうか。20分ほど観戦してから帰路に着きました。

宿に戻りテレビを付けると、青山学院大学の往路優勝を報じていました。山の神による国学院大学の逆転は、なりませんでした。

それにしても驚くのは、区間新の続出です。大安売りと言っても良いほどの記録の続出です。テレビ解説では誰も触れなかったものの、原因は明らかです。NIKEの新しいランニングシューズの賜物です。

他に考えられません。ほとんどのランナーがピンク色の同じシューズを使用していました。驚くべき効果です。

新しいデザインの水着による記録ラッシュに沸いた、一昔前の水泳界を彷彿とさせます。あの水着は、その後使用禁止になったように記憶していますが、どうだった、でしたでしょうか。

新しい構造のランニングシューズを禁止することは難しそうですから、当分は記録ラッシュが続きそうです。ひょっとしたら、今年中にマラソンで2時間を切る、夢の一時間台が実現しそうです。

足立美術館

■20191125(木曜日:雨)

足立美術館(あだちびじゅつかん)は、島根県安来市にある、近代日本画を中心とした島根県の登録博物館。運営は、公益財団法人足立美術館。130点におよぶ横山大観の作品と日本庭園で有名。

■今朝はゆっくりと休み、7時に起き出しました。今日は旅も終え、午後には飛行機に乗って帰らなければなりません。カーテンを開けてみると、どうやら雨が降っているようです。昨日までの青空が嘘のように、どんよりとした黒い雲が広がっています。

8時から朝食をとり9時には宿を後にして足立美術館に向かいました。今朝の写真にもある通り、島根県安芸市にある美術館で、地元出身の実業家、足立全康(あだちぜんこう)が1970年(昭和45年)71歳の時に開館しました。

今日はあいにくの雨でしたが、観光バスが10台以上駐車場に並び、全国各地から多くの人が訪れているようです。絵画はもちろんですが、その庭の素晴らしさに触れようと訪れる方が多いようです。ある調査では16年連続、日本一の庭園に選ばれたそうです。訪れてみると確かに、その素晴らしさは、私にも容易に理解できました。

創立者の足立全康の略歴が張り出されていましたが、まさに波乱万丈の人生だったようです。子供の頃はどうもあまり学校の成績は良くなかったようですが、商才があったのでしょう、丁稚奉公を経て、次から次に事業を立ち上げ、資産を築いたようです。

しかし立派なのは、それをこうした形で地元に還元しているところです。芸術には、お金がかかるのです。昔から芸術家にはパトロンとしての貴族が生活を支えていたのですが、近代社会になってからは、例えばオランダのように、裕福な市民が、それを支えるという形になりました。

公共のためにという形で、今では国家が多くの部分を支えています。日本では政治家の芸術に対する理解があまりないために、支援は期待できません。市民にも、そうした理解が進んでいるとも思えません。そういう点では、この足立美術館は成功例の一つに違いありません。

イギリスの大英博物館は、未だに入館料は無料だと思いますが、さすがは元大英帝国の領主だったことはあります。かなりの美術点が他国から言わば略奪してきたものであるとはいえ、大英博物館で保存されていなければ、今頃どうなっていたかの保証はありません。

昼食も食べずに美術館で全ての作品を見終え、雨の中レンタカーを返却するために松江空港に向かいました。15時35分発の富士山静岡空港行きのFDA便に乗って静岡に帰ってきました。

あっという間の3日間でした。そして楽しい3日間でした。また明日から日常が始まります。あと1ヶ月もすれば、大晦日になってしまいます。もう少し頑張るしかなさそうです。

山陰

■20191123(土曜日:晴れ)

出雲大社に行きました。

■今朝は6時半に家を出発し、静岡空港に向かいました。松江空港行きの便に乗るためです。静岡空港発の国内便には、ほとんど乗ったのですが、松江空港行きには、まだ乗ったことが無かったのです。

東名高速道路は工事中で、混雑が予想されたのですが、幸いたいしたことも無く、予定通り30分以上前に到着しました。満席でした。飛行機はエンブラエル社製で、左右二席ずつ。こじんまりしていて、小回りが効くのでしょう。90席ほどです。三菱重工業のスペースジェットのライバルです。

一時間程の飛行時間。あっという間に着陸です。到着後はレンタカーを借りて10時15分には出発できました。

まずは出雲大社へ向かいました。30分で到着。駐車場確保に苦労しましたが、無料駐車場に何とか滑り込みました。内部は観光客で混雑。そこかしこに、参拝のための長い行列が見られました。風もほとんど無い、暖かな最高の観光日和。いつもの事ながら、お天気の神様に感謝です。

■さて12時を過ぎましたので車に戻り、日御碕灯台に向けて出発しました。天候は陽射しに恵まれ、むしろ暑いぐらいでした。途中見晴らしの良い食堂で昼食をとりました。一応民宿と書かれていましたが、今は食堂が中心のようです。夜に備えて軽い食事にと思い、私は海鮮ラーメン、Sunは普通のラーメンを注文し、少しずつ分け合って食べました。

日御碕神社を経て、13時過ぎには無事に、日御碕灯台に到着しました。180度水平線が見える、青空の広がる最高の見晴らしでした。海の蒼さと空の青さを満喫した後、今日の宿泊先である民宿「銀海」に向かいました。

15時前には民宿に到着し、ゆっくりとした後お風呂に入り18時から夕食をとりました。

目玉料理はアコウのお刺身、姿作りでした。西高東低と言いますか、関東ではあまり知られていないようですが、瀬戸内海や山陰では、とても人気のある高級魚だそうで、なかなか口に入らないそうです。その他アワビなど海の幸を満喫して、ぐっすりと熟睡できました。

2019上州太田スバルマラソン

■20191027(日曜日、晴れ)

太田市の運動公園野球場です。ランナーと家族で溢れています。

■昨日は診療が終わって、午後から電車に飛び乗り、何度か乗り換えた後、群馬県の東武鉄道太田駅に到着しました。原駅から三島駅まで行き三島駅で新幹線に乗り換え、品川駅で降りました。JR上野東京ラインからJR宇都宮線古河行きに乗り換え、埼玉県は久喜駅に到着しました。JR駅で一旦降りて、東武伊勢崎線に乗り換えて 「りょうもう21号 赤城行」 で16:15【太田】駅着となりました。

たくが予約してくれてあった、東横イン太田駅南口店に行くと、たくが待っていてくれました。まだ夜の5時前でしたので、お店もあまり開いていませんでしたが、たくが適当なお店を見つけてくれました。さっそく17時を過ぎた所でホテルを出て、2人で駅前の居酒屋さんに入って、11時近くまで飲んで食べてお喋りをしました。明日は2人とも8時スタートで、ハーフマラソンを走らなければなりませんので、今夜は12時前には休むことにしました。5時間以上二人で話し込みました。たくが人の話をよく聞いてくれるからです。

明日の朝は5時半起床と決定しました。明日の朝食はホテルのものを取らずに、コンビニで購入した、おにぎり一個とお茶で済ますことにしました。

■さて今朝は5時半に予定通り起き出して準備を始め、朝食を取ってホテルを出ました。会場までのシャトルバスが発着しているスバルの工場の従業員用駐車場にたくの車で行く予定だったのですが、ホテルのフロントで確認してみると歩いても大したことがないし、ホテルの駐車場に車を置いておいても構わないという了承をもらいましたので、15分程の道のりを、駐車場まで歩いて行くことにしました。

歩いているうちに困った事態が生じました。便意が生じてきたのです。途中ホテルにでも入って用をたそうかと思ったのですが、適当な場所がありません。本当に困ってしまったところで、駐車場についてみると、簡易トイレが二つ用意されていることに気づきました。地獄に仏とはこのことです。さっそく利用させて頂き、これで安心して走ることができる状態となりました。

バスに乗って十分ほどでしょうか、スタートの公園までたどり着き、まずは貴重品を預けることにしました。1時間以上の余裕がありましたので、ゆっくりと準備運動し、周囲を見て回ることもできました。やがてスタート時間の8時となり、一時間半、二時間以上というタイム別のプラカードの後ろに、ランナーたちが並びました。

■そして午前8時にスタートの号砲が鳴りました。ところが私の並んでいたところから、スタートラインまで辿り着くのに3分以上、時間がかかってしまいました。今回のレースは、国道354号線を主なコースとして走りますので、交通規制を長期にわたり続けることが難しく、マラソンランナーに対する時間制限が大変厳しいのです。5箇所に関門が設けられ、時間制限を超えると、そこでランナーは道路を走ることができなくなります。ということで、私も制限時間を気にしながら走ることになりました。

コース自体は、とても分かりやすく、一直線に走って、折り返し点を、そのまま、またまっすぐ戻ってくる、というもので、途中陸橋を超えるところで、若干のアップダウンがあるものの、ほとんど平坦なコースと言えます。

天候は曇り。暑くもなく、寒くもなく、ちょうど良い天候でした。結局2時間17分34秒をかけて20.593kmを走りました。記録を見てみると18キロのところまでは結構いいペースで走っていたのですが、最後の2キロ、かなりペースダウンしてしまいました。本当に苦しい2キロでした。歩いて、そして元気を取り戻して走ろうかと何度も思ったのですが、どこまで走り続けられるか頑張ってみようと思い、そのままゴールしてしまいました。

本当に疲労困憊。消耗し尽くしてのゴールでした。あとで話を聞くと、たくも同様に、かなり苦しかったようです。たくの場合は仕事が忙しく、あまり走る機会がなかったようですから、致し方ありません。

コースは大変単純明快なコースでした。スタートの運動公園野球場脇の道路から主要幹線道路に出てからは、本当に真っ直ぐ、ずっと走るばかりです。私が5キロ地点に到着する少し前に、もうトップランナーが折り返して帰ってきていました。すごいスピードです。ダントツの一番でした。

私も18キロメートル付近までは順調にペースを刻んでいたのですが、残り5キロとなって少しペースを上げようかと思ったのですが、そうはいきませんでした。しかも残り2キロになった時点からは本当に苦しく、足が前に出なくなりました。

それでも沿道には家族連れで応援してくださる方もいて、可愛い子供さん達が手を振ってくれたことには大変勇気付けられました。今回のコースは会場の工事のためにコースの距離が若干短く設定されていましたが、それでも、かかった時間は、正式なハーフマラソンと変わりませんでした。つまりはペースが落ちていたということです。今の自分の力ではこの辺りが限界のようです。

トレーニングが足りません。やはり高野コーチが言うように LSD をもう少し、しっかりやっていかないと、ハーフマラソンはおろかフルマラソンなど遠い夢のような現状なのでしょう。

ようやくがゴールにたどり着き、貴重品を預けるテントを目標に競技場に戻りました、たくも走り終えて着替えを終わっていたようです。これから抽選会の終了まで、この芝生の席でしばらく休憩です、スバルが提供してくれた型乗用車が一番の目玉景品です。抽選の結果40代以上ハーフマラソン完走者の中から男性の方が当選されていました。乗用車が景品になるなんて、さすがはスバルマラソンです。台風の影響でここ太田市のスバル工場も操業を一時停止していたようですが、再開されて日常が取り戻されたようで、私も安心しました。

さて、抽選も終わりましたのでシャトルバスで駐車場まで戻り、そこから宿泊したホテルまで歩いて戻り、たくの車に乗って、たくおすすめの高崎にあるスーパー温泉までドライブしました。たくの運転する車に乗るのは本当に久しぶりです。昨年1月からこちらで仕事について毎日のように運転してるようですので、すっかり運転にも慣れたようです。

スーパー温泉に到着し2人でゆっくりとお湯に浸かりました。第1駐車場は満車で第2駐車場に車を停めて入館することができました。自分自身はかなり消耗していましたので、あんまり長湯すると少し気分が悪くなってきましたので、水風呂に入り直して最後はリラックスできました。

また車に戻りたくの家まで車で十分ぐらいでしたでしょうか、初めてお邪魔しました。少し休んでからタクシーを呼び、ゆうこさんと3人で、高崎駅西口近くにあるお店に向かいました。3人で少し遅めの昼食を2時間ほどかけて、ゆっくりと食べました。ビールの美味しかったことは言うまでもありません。ゆうこさんもようやく落ち着き元気を取り戻したようです。私も安心しました。

もっとゆっくりしていたかったのですが、さすがに疲労困憊でしたし、明日のことも考え、お土産を駅ナカのお店で購入し、16時47分発のはくたか号で東京駅に戻りました。高崎駅から東京駅までは小1時間でした。そして、今度はこだまに乗り換え三島駅に到着。豊橋行きに乗り換えて、ようやく家にたどり着いたのが19時半過ぎでした。

5時半に起きてから長い1日でしたが、本当に充実した時間でした。昨日の晩は、たくと2人きりで5時間以上話し込みましたが、これからのこともあり、じっくりと話すことはできて本当に有意義な週末でした。たくも忙しい毎日にも関わらず、時間を取ってくれたことに心から感謝しています。

12月にも、またお邪魔することになっていますので、その日まで、自分自身、体を大切にして一緒に楽しめるように心掛けるつもりです。本当に有意義で、楽しい週末でした。

帰国

■201901022(火曜日:曇)

ハノイ・ノイバイ空港29番搭乗口です。8時10分発のベトナム航空便で帰国しました。

■今朝は4時に目覚ましを鳴らして起き出しました。いよいよ日本へ帰国する日です。17日午前中に仕事を終えて、その足で原駅まで行き、新幹線そして京浜急行を乗り継いで、羽田空港国際線ターミナルに到着したのが、つい昨日のことのように思い出されます。

今日は5時にフロントで全員集合し、バスでハノイ・ノイバイ空港に向かいます。8時10分発VN384便で日本に帰国する予定です。5時出発予定がバスの到着が30分近く遅れ、ひやひやしましたが、これもベトナム時間の一つでしょうか。トゥンくんが急に体調を崩して、起き出すことができないという連絡が入り、慌てましたが、タインさんが空港まで同行してくれました。

空港に到着してみると、受付カウンターの混雑ぶりに驚きました、ベトナム人、日本人を含めて、たくさんの乗客が並んでいるのです。無事に受付も終了し、荷物も預け、搭乗口入口でタインさんとも最後の別れを告げて、29番ゲートに向かいました。手荷物検査を済ませてみると、29番ゲートは目の前にありました。検査に時間がかかり、出発搭乗ゲートに到着したのは30分ほど前でした。

他の皆さんはまだ買い物が足りなかったようで、お店を探して、チョコレートを購入しているようでした。私も見て回ったのですが、小さな板チョコレートが8ドルもするのは驚きました。ベトナムでのお土産を何にするかは難しいのですが、これといったものがないのです。日本では各地にお菓子を中心にお土産がたくさんあるのですが、残念ながらベトナムでは、コーヒーぐらいしか思い当たるものがありません。

このベトナムのコーヒーは、これを好む方は大変美味しいと言われるのですが、正直言って私はあまり美味しいとは思えないのです。あの独特のコーヒーの濃さが、どうも私の舌には合わないのです。

皆さんは、旧市街地で雑貨品を購入するのをとても楽しみにされていました。スカーフとかバッグとか、そういったものです。とても安くて選ぶのが楽しいようです。今年は私はその買い物には付き合いませんでした。私にとっては毎年同じように見えるからです。またそうしたものに興味のない私には、あんまり楽しい時間とは言えません。

そこでホテルにチェックインした後は、私だけ別行動をとり、ホテルから歩いてスーパーマーケットに行ってお土産品を買うことにしました。記憶では昨年も泊まったコニファーホテルからビンマートというスーパーマーケットまで歩いても、それほどかからなかったように感じていたのです。

ところがこれは完全な誤解でした。バスで買い物に行ってバスで帰ってきていたために、近くのように感じていただけだったのです。ホテルでスーパーの場所を確認して出掛けたのですが、一向に到着する様子がありません。そこでお巡りさんに聞いてみたり、もう一度ホテルに戻りフロントの方に聞いたのですが、結局スーパーマーケットにはたどり着けませんでした。

17時半頃にホテルに戻り、まだ皆さん、買い物から戻っていませんでしたので、パソコンに向かって資料の整理を行いました。昨日訪問した6軒の被害者家族の資料を整理していたのです。名前と顔が一致しなくなってしまうのです。写真ももちろん取ってあるのですが、写真に名前を記入することができませんので、早いうちに整理しておかないと、どの写真の方がどの名前だったかが、ごちゃごちゃになってしまうのです。なんとか整理も終わりそうになったところで、大釜さんが帰ってきました。18時30分から夕食をとるために出発するということでした。

再生 Day 5

■20191021(月曜日曇り)

バクザン省でのブーゲンビリアです。

■昨日は一年ぶりにバクザン省の職業訓練センターを訪問し、センター長のThuyさんを始め施設の子ども達と楽しい一時を過ごしました。施設を訪問するのは4回目ですが、まるで昨日訪れたような、そんな懐かしさが感じられました。日曜日ということもあり、施設にいた子供たちも少なめだったのですが、寄付していただいた医薬品や紙おむつや、そして私たちからの支援金を皆さんにお渡ししました。昨年寄贈させていただいた、リハビリ器具もしっかりと使用されているようで嬉しい思いでした。

施設長さんとのお話し合いも終わり、私は持参したスポットビジョンスクリーナーを用いて施設の子供たち、そして職員の皆さん、さらには施設長さんの目の状態などを調べて、友人達から頂いていた中から、もしも適当なメガネがあれば、使ってもらおうと思っていました。幸い二名の入所者には、近視の眼鏡と老眼鏡を、そして施設長さんにも、遠近両用メガネが使用可能でした。近視の眼鏡をあげた子供さんは、遠くが見えることにとても喜んではしゃいでいました。そしてみんなに掛けろ、掛けろと勧めている様子は、とても微笑ましいものでした。眼科検診が終わった後には、隊員の一人である金原昇さんが、色々な楽器を操ることが得意なので、ハーモニカとギターを伴奏に、みんなで歌を楽しみました。

■さて、今日は8時にホテルでThuyさんと待ち合わせて6件の被害者家庭訪問をする予定です。ところがいくら待ってもやってきません。ベトナム独特のベトナム時間なのかなと、みんなでイライラし始めたところへThuyさんがやってきました。あとで知ったのですが、バクザン省枯葉剤協会副会長のクワンさんが待ち合わせて、一緒に来てくれるように予定されていたようです。すぐ近くにある総合庁舎で副会長さんを待っていて、どうも遅れたようでした。予約8時半にホテルを出発し1軒目の家庭訪問が始まりました。

03ファム・ティ・フオン
o4ハ・ティ・タウォ
05ホン・バン・スン
06ファン・ドック・チュン
07

タン・ティ・サン

08ヴ・ヴァン・ラム

8時25分トゥイさんとバクザン省枯葉剤被害者協会副会長クワンさんがやってこられ、854分には地元枯葉剤協会の方が更に1人同行し、道案内をしてくれました。総計14名のバス旅行となりました。

「「 No 03 ファム・ティ・フオン 」」

五人の子ども。3人に障害。すえっこ。80万ドン支援金。姉が隣に住む。 父は77歳。母は74歳。父の支援金は、110万ドン。枯葉剤を浴びたのは父親。父は大きな体調異常は無い。脚が不自由。クワンチ省で被曝。35歳。知能障害。手足の震え。日常生活すべての面倒を見ている。治療は受けている。最低限の意思の疎通は取れる。痛いの表示あり。姉も手の震えが酷い。 暗い納屋のような部屋でレンガじきの部屋。手足が曲がったまま。

「「 No 4 ハ・ティ・タウォ 」」

1988生まれ、31歳。


背中の骨が曲がっている。手術を受けた。脊柱湾曲症になっている。座っていると痛みができる。他の障害は今のところない。手術を受けたばかりで、仕事ができない。120万円かかった。しなければ、あと3年で死んでしまうと言われた。


子供が3人が枯葉剤被害。子供は5人。父親と3人の枯葉剤被害者、支援金合計550万ドン。他の2人の被害者。妹は同居しているが、同様に脊柱湾曲。まだ手術を受けていない。他に障害はよくない2人ともとても美人。


Thuyさんが二人に職業訓練センターでパソコンなど技能を身に付けるよう勧めている。いずれ稼げるようになり親の面倒をみることも出来る。


フエで被曝。1972年に被曝。18歳で。奥さんが田んぼで米を栽培している。母は63歳。父は65歳。

「「 No 5 ホン・バン・スン 」」

姉妹。弟と姉。姉は知的障害がある。弟は糖尿病で右目は失明している。支援金は2人で140万ドン。食べたりなど生活は自立している。おばさんが、生活一切を面倒見ている。妹は知的障害があり彷徨をすることもある。


1972、1976生まれ。クアンチ省で父か被曝。4年前に肺がんで亡くなった。両親共に亡くなっている。

「「 No6 ファン・ドック・チュン 」」

 

お母さんは75歳。本人は1976年生まれ。父は亡くなっている。90万ドンの支援金のみです。90している、兄は正常で異常はなく、普通に生活しているが、生活が厳しくシーンはしてもらえない。本人には精神障害があり、暴れることもある。自分のことは自分で出来るが、てんかん様発作などを起こした時はできない。ラオス付近で、父は枯れ葉剤に被爆した。田んぼもないので、農業は出来ない。

「「 No7 タン・ティ・サン 」」

1978生まれ女性。子供は3人で旦那さんは死んだ、。長女次女、長男。母と2人暮らし。母は1956年生まれ。2年前に旦那さんは亡くなった。糖尿病で内臓を壊して死亡した。次女と長男は普通に生活をしている。誰も子供の面倒見てくれない。90万ドン 。月の枯葉剤支援金。収入は他にない。水頭症で生まれた。大体は自分で身の回りのことはできる。学校は小学校も行っていない。知的障害がある。悲しくなって、しょっちゅう泣いている。夫はニャンチャンで被爆した。米も作っているが、食べる分は作れないので支援金から購入している。

「「 No8 ヴ・ヴァン・ラム 」」

ダナンで被曝。42歳の長男と一緒に暮らしている。長男は口蓋裂と知的障害がある。孫には脳障害がある。21歳。学校には行かなかつた。枯葉剤被害者の認定は現在のところ2代目までで3代目からは支援金は出ない。バクザン省では三代目までの被害の発生を確認している。現在、支援金の支払いの申請をしている。1950年生まれのちゃん父。肺ガン末期に掛かっている。ダナンで被曝。1ヶ月50万ドンの支援金を父だけが受けている。今日なんとか入れ、農業をして米を作っている。枯れ葉剤被害の認定受けているのは、父のみ。孫さんも障害を持っている。

再挑戦 Day 4

■20191020(日曜日 晴れ)

バクザン省の夜明けです。

■今朝は走りました。バクザン省に戻ってきて、例年泊まっていたホテルに昨夜は宿泊し、今朝は5時前に起きてホテル前の大きな広場を六周しました。これで5.6キロメートルを積み重ねることができました。例年通り、ベトナムの方もたくさんの方がウォーキングを楽しんでいました。それでも例年に比べると若干少ないように感じました。驚いたのは、5時半になると一部の街灯が消えてしまったことです、節電のためでしょうか。とはいっても、明るくなり始めてきましたし、小さな街灯は点いていましたので、暗くて怖いということはありませんでした。

■トラブル続きの支援の旅も、今日で4日目です。昨日は結局一日を無駄に過ごしてしまいました。諸監督官庁との連携が上手くいっていなかったために、支援活動が出来ずに 、いわば無為に過ごしてしまいました。

はるばる日本からやって来たにもかかわらず、予定の活動が出来ずに、皆さん忸怩たる思いで日々を送ることになってしまいました。

さて今日は予定では職業訓練センターでの活動は予定されています。そして午後からは家庭訪問の予定ですが、果たしてうまくいくか、どうか不安な思いです。

■8時半にホテルを出て、バクザン省職業訓練センターに向かいました。一年ぶりの訪問です。トゥイ所長さんとは、3年間に渡って活動をお世話してもらいました。今日も私達を暖かく迎えてくれました。トゥイさんのお話では、

センターには、現在16名が入所。6名が通っている。入所者並びに通所者の年齢構成は4歳から40歳まで。パソコンの勉強や造花の作成などを職業訓練としている。おもにバラの。バラは永遠を意味し、みなさんに好まれる。支援隊のためにも一人ひとりに作ってくれた。バラを作ることによって、手先の訓練や頭の訓練にもなる。バラ1輪で10000万ドンから200000万ドンまで売れる。子供達の為に注意から薬草とってきて、常時飲ませている。

暖かく迎えてくれたトゥイ所長さんと一緒に。

さらなるトラブル Day 3

■20191019(土曜日:晴れ)

ベトナム・ニンビン省の夜明けです。

■今朝は6時半に起きて朝食をとり、8時半にホテルを出ました。3時間のバス旅行の予定で、昨年まで活動をしていたバクザン省の職業訓練センターに向けて出発しました。こちらでの活動を依頼していた被害者協会のビンさんは、不手際が露呈して以来、結局今日も顔を見せることはありませんでした。私達としては、一言で良いから不手際を侘びてほしい、という気持ちで一杯でしたが、その行動には、とても残念な思いでした。人としての取るべき道、という点で、他山の石でした。

途中トイレ休憩を挟みながら、懐かしいバクザン省のホテルに到着したのが11時頃でした。ホテルに寄って予約を確認し、昼食を取るためにバスに乗り店まで出掛けました。

毎度、毎度同じように見える、ベトナムのご飯ですが、新しい料理が、その度に一つぐらいは登場します。今回は鳩の肉料理でした。頭まで丸焼きにしてありますので、ちょっと食べにくいのは間違いないのですが、食べてみると味付けはよくできていました。お店の女将さんはとても親切にしてくれて、珍しい食材をわざわざ紹介してくれました。

さて昼食も終わり、午後から支援活動ができると期待していたところ、急用のため本日は施設が利用できないという連絡が入りました。詳細は全くの不明ですが、あの施設長さんがいい加減な約束をすることはないと思いますので、こちらの通訳との間で十分意思の疎通ができていなかった可能性も考えられます。とにもかくにも相手のあることでので、こればかりはこちらの思いだけでは、いかんともし難いのです。

みんなで再度相談しました。明日には間違いなく施設の受け入れは可能だ、ということなのですが、疑心暗鬼ばかりが先行してしまい、見通しが立ちません。いままでこんなことが無かっただけに、みなさん失望と落胆の気持ちでいっぱいです。忙しい中、時間をやりくりして駆けつけてたわけですから、無為のまま帰るわけには行きません。二軒の被害者家庭訪問だけでなく、なんとか残りの活動も完結して帰国しなければ、と気持ちが焦るばかりです。

活動開始 Day 2

■20191018(金曜日:曇り)

ホン・サン・ピースホテルロビーにある立派な木彫りです。

■昨日は午後から新幹線と京浜急行を乗り継いで羽田空港に到着し16時35分発のベトナム空港便でハノイノイバイ空港に到着しました。現地時間のちょうど夜8時頃でした、日本時間では夜の10時となります。現地の気温は25度。蒸し暑いという程ではありませんが、台風一過すっかり秋らしくなった日本とは、やはりかなり差があります。

タインさん、息子さんのトゥン君、そして運転手さんのチュンさんが出迎えてくれました。早速バスに乗って、まずはハノイ市内に向かいました。道路は毎年整備が進み、ところによっては片側五車線の道路もありました。軽く夕食として牛肉フォーを食べました。1年ぶりのベトナム食でしたが、この店のフォーはとても美味しかったのです。

今年初めてのベトナム食です。懐かしのフォーです。専門店だけあって美味しかったです。

どういうわけか、牛肉フォーしか置いていない店が多いのです。私としてはチキン・フォーが希望なのですが、行った先々で牛肉フォーしかありませんでした。

今年最初のベトナムでの乾杯です。ベトナム語で言える数少ない語彙です。

さて、それからもう一度バスに乗り込みニンビン省のホテルに向かいました。ホテルに向かうハノイ市内の様子は、道路の周辺に高層ビルが立ち並び、昨年よりもさらにいっそう大都市化しかしているようでした。ハノイを抜けてからは有料高速道路が整備されていて、車は順調に目的地に向かうことができました。

ホテルに着いたのは現地時間23時30分。三星のホテルということで、とても立派なホテルでした。810号室に一旦みんなで集まり、支援物資の確認をしました。ようやくベッドに入ることができたのが、零時半を回っていました。明日はフロントに9時に集合し、活動の開始予定です。

ニンビン省のホテルに到着。右から三番目の時計が東京の時刻、午前1時半を示しています。

「「「 活動開始 」」」

■昨日は飛行機バスと乗り継いて、夜中の12時前にホテルに着きました。さすがに皆さん疲労困憊でした。今朝は7時に目覚ましを合わせ、これから朝食を取るために一階におります。外は曇り空、幸い雨は降っていないようです。

ホテルは三星の立派なホテルなのですが、昨夜シャワーを浴びて見て驚きました。排水が全くと言っていいほどできないのです。つまり、シャワーを浴びると、浴室中が水浸しになってしまうのです。床の傾きが排水口とは反対方向になっているのです。一見、作みはとても一派なのですが、これはいただけません。今日は苦情を告げてみる予定です。9時にはフロントに集まって出発ですので、それまでに朝食をとる必要があります。

少食を取りに食堂へ行きました。仲間の皆さんに話を聞くと、それぞれの部屋で問題があったようです。私の部屋は浴室だけでしたが、電気系統に問題があり、スマホの充電ができなかったり、ショートを起こして、湯沸かし器が壊れてしまったり、電灯の金具が外れだりと、多事多難です。このホテルには4泊しますので、なんとか対策を建てる必要がありそうです。

家庭訪問の前にホテル前で記念撮影。ビンさんに役所から問い合わせの連絡が、すでに入っていたようです。

上の写真は家庭訪問出発前の撮影ですが、ビンさんの困惑した表情には、状況の厳しさが反映されていることが、今にしてみれば明らかです。この後、ビンさんは行方をくらましてしまい、二度と会うことはありませんでした。なぜ段取りがきちんとできずに、そんな事態になったかの説明は一切ありませんでした。

01ブー・フェー・ホアン
02ディ・ヴァン・カイ

■Day 1 一軒目 ブー・フェー・ホアン 

祖母が子供の面倒を見ていました。

ブー・ フェー・ ホアンさん。2011年生まれの男の子。動くことはできず、生まれてからずっと、寝たきりの生活です。今は祖母と一緒に2人で暮らしています。祖父が従軍し枯れ葉剤を浴びた。父は亡くなったが、母は家出をして現在家にはいない。枯葉剤を浴びた祖父の妻である祖母と2人で残り暮らしている。父は5年前に死去、母は生後2ヶ月で家出をした。周囲の方から母乳を集めて、祖母は孫を育てた。祖父の軍人年金と枯葉剤被害者への支援金を合わせ1ヶ月90万ドン(約 4,215 円)で生活している。祖母には子供が外に4人いるが、経済的に苦しく支援はない。椅子に座らせて時折、外に連れだしている。食事はお粥、流動食のみ、祖母が作って与えている。診察も受けることなく、薬の服用もしていない。自分自身では、食事の要求もできない。会話は出来ない。祖母は57歳。ホアンさんは枯葉剤とは関係なく身体障害者支援金を受けている。

2 軒目 ディ・ヴァン・カイ 

障害を持った20歳の息子さんです。

2番目の家庭は1999年生まれのディン ヴァン カイさん、20歳。兄は健在。ハノイで仕事。父は58歳従軍中に枯れ葉剤を浴びたが障害は無い。祖父が枯葉剤被害者で、すでに死亡。支援金は無し。父が仕事で生活。100万ドン。言葉は理解出来る。知的障害はない。本人は枯葉剤被害者認定無し。身体障害者補助のみ。家から病院まで10キロ以上。両親で交替で子供の面倒を見ている。

■昼飯を食べて、午後の活動を確認した時に驚くべきことが発覚しました。ニンビン省枯葉剤被害者協会のビンさんに活動の手配を依頼していましたが、人民委員会などの役所の許可が取れていないことが判明したのです。ボランティア活動をするためには、観光と違い、許可を得ないといけないのです。ところが、その許可が下りていなかったのです。

役所の担当者の方が来られてパスポートを確認し、活動の目的などを事情聴取されました。午後の活動は結局中止となり、相談の結果みんなで世界遺産の見学に出掛けました。夕方になり連絡を取ったものの、結局明日からの活動も許可は出ないとことになり、急遽昨年まで活動をしていたバクザン省職業訓練訓練センターの所長さんに連絡を取りました。

Thuy所長さんも私たちの申し出を喜んで受け入れて下さり、急遽明日の午前中にバクザン省へ移動することになりました。3時間の道のりです。明日の午後は職業訓練センターでの活動、そしてその後は可能であれば被害者家庭の訪問ができるかどうか、いま問い合わせを急遽しているところです。

ボランティア活動のためとはいえ、被害者の家庭を訪問するためには、人民委員会、被害者協会などの許可が必要な為に手続きに時間がかかるのです。今年はそういった面での手配が十分できていなかったことになります。支援隊の皆さんはお忙しい中、時間を作り、参加費を捻出した上での参加ですので、活動もしっかりせずに帰るわけにはいきません。支援物資を寄付や、支援金をいただいた皆さんの期待を裏切るわけにもいきません。大釜支援隊会長をはじめ、みんなで知恵を出し合って、残された時間内で、いかに有効な活動ができるか話し合いました。

こうした非常事態の時にこそ、仲間の団結と助け合いが何より大切なのです。非難し合っているだけでは、何の問題も解決しません。前向きに事態と取り組むしかないのです。

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