2023 年 09 月 02 日 TakuとMasato とNonと一緒に訪れた熱海初島です。

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新しい時代

■20190501(水曜日:曇り)

メルボルンのコンビニで見かけたサンドイッチです。一つ7ドル、550円ほどでしょうか。
メルボルンのコンビニで見かけたサンドイッチです。一つ7ドル、550円ほどでしょうか。

■さて、今日からは新しい時代が始まりました。令和です。昨日はあやちゃんと一緒に1日楽しく過ごしました。平成最後の1日でした。日本では大騒動だったと思いますが、ここメルボルンでは何事もないように、日常が過ぎ去っています。

今朝は6時に目覚ましを合わせて起き出しました。そしてメルボルンの街を40分程走りました。ヤラ川の川沿いを、ゆっくりと走ったのです。6キロを積み重ねました。今日から、また100キロの積み重ねに向かって、毎日を送らなければなりません。

先月は体調不良と旅行のために、危うく連続月100キロ走の記録が途絶えるところでした。なんとか連続記録を途絶えさせることなく、今月を迎えることができました。一旦途切れさせてしまうと、糸が切れた凧のようになってしまいます。続けることが何よりも大切なのです。

さて今日も一日、歩き回った一日でした。まずペンギンを見る事が出来ると聞き、セントキルダービーチに向かいました。トラムで20分ほどでしょうか。ところが着いてみて現地の人に聞いてみると、日中は魚取りにベンギンは出掛けていて、見ることは無理だと知りました。

Ayaちゃんとの再会

■20190430(火曜日:晴れ)

街を歩いていて遭遇したインド料理のお店です。
街を歩いていて遭遇したインド料理のお店です。

■昨日ようやくメルボルンに到着し、0時を過ぎて休むことができました。ホテルはパンパシフィックメルボルンホテル。昨年1月に初めてメルボルンで宿泊したホテルよりも、かなり立派なホテルでした。昨夜は添乗員の松岡さんのお手伝いで、無事にチェックインが出来ました。毎日百ドルのディポジットが請求されるようです。つまり保証金でしょうか、何もなければ日本に帰って早々にクレジットカードの口座に返金されるそうです。

今朝は7時に目覚ましを合わせておきました。こちらでは、ほとんど夜明けの時間という空の様子でした。7時にホテルを出て、周囲の様子を見に散歩をする予定です。カフェがあれば入って、モーニングを食べようと思っています。

さてシャワーを浴びて八時過ぎにホテルを出ました。ぶらぶらと街を散策するためです。気候はとても爽やかで、湿度がとても低いのでしょう、日差しの下を歩いていると少し汗ばむほどですが、日陰に行くと風が冷たく感じるほどでした。ホテルの隣がコンベンションセンターでしたので、とてもわかりやすい場所にありました。ホテル自体が高く、名前がどこからも見えますので、迷子になることはなさそうでした。

ホテルを出るとすぐヤラ川があり、それに沿ってしばらく歩くと、大通りに出ました。そして懐かしい、あの市電、トラムが見えたのです。メルボルンはトラムが縦横無尽に走っており、しかもほとんど無料なのです。ちょうど通勤時間帯に当たったためでしょうか、多くのビジネスパーソンが急ぎ足で通り過ぎていました道路も広く、歩道も広いので、自転車通勤の方も結構見受けられました。

オーストラリアは、これから冬に向かうところです。街路樹は色づき始めています。爽やかなそよ風が、暖かな日差しと相まって、とても気持ちの良い気候です。行き交う人々を見ていると、半袖の人もいれば背広を着ている人もいる、という具合で本当に人それぞれです。人種も様々ですし、多様な街であることがよく分かります。

10時半にあやちゃんがホテルに来て、今部屋でお土産を分配しているところです。分配が終わったら、これからあやちゃんが去年から住み始めた新しい家に3人で向かいます。

さてホテルの前でタクシーを拾って行くのかと思っていたら、あやちゃんがこちらで契約しているDDという会社の車を手配してくれました。口座を登録してあるので、その場でお金を払う必要もありません。こうしたサービスでは、uberがとても有名ですが、オーストラリアではさらに別のサービスがあるのです。両者の違いはと言えば、それは価格です。さらに安い値段で利用できます。私たちが利用した車は26歳のインド人の方が営業されていた車でした。会計士の免許を、こちらで取られた、やはりインド人女性と、2年前に結婚されたそうです。2年間大学で勉強し、1年間の実務経験を経て、資格を得たとのことです。数字に強いインド人のことですから会計士は、おてのものでしょう。

メルボルンの街を歩いていると、インド人と思われる外国人が多いことに驚きます。もちろんその他のアジアの国からと思われる外国人の方もとても多く、それは日本の比ではありません。昔、学校で習ったオーストラリアの白豪主義というのは、今では全くの死語のようです。オーストラリアは物価がとても高く、日本から来てみると、なにを買うにも一旦手を止めて、考え込んでしまうほどです。

カーネギーという場所にある、新しい住まいに着くまでに、20分ほど車に乗ったでしょうか。静かな落ち着いた、郊外の住宅街という佇まいでした。こちらでは住宅費は週払いだそうで、月額に直すと16万円ということで、かなりの負担です。

メルボルンでは家賃が上昇して、適当な値段の住まいを探すのが、次第に困難になりつつあるようです。二人とも車を運転しないので、トラムの駅が近くでないと生活に困ります。そうして見つけたのが、いまの住まいです。大通りで車を降りて、少し中に入った所にある家に、ようやくたどり着きました。

ところがここで、ひと騒動が起きました。家の前でスマホの紛失に気付いたのです。慌てて通りに戻りましたが、すんでのところで車を取り逃しました。仕方なく家に入り、一息つくとリュックのポケットにスマホが入っているのに気付きました。いつ、しまったのか記憶に無いのですが、とにかく見つかって良かったです。万が一タクシーに置き忘れたとすると、今回のサービスでは、直接ドライバーに連絡を取るのが難しかったようなのです。そうなると大変でした。本当にラッキーでした。

さて、家から3人でぶらぶら歩きながら、昼食をとるレストランを探しました。結局、日本式ラーメンの店に入りました。私はとんこつラーメンを注文し、四川ラーメンと激辛ラーメン、そして餃子という昼御飯となりました。

食べ終わっていったん家に戻り、婚姻届に必要な書類を書き揃えました。新しい家は二階建て。日本から見ると、造りがとにかくちゃちです。ぞんざいというか、いい加減というか、地震も無いためか、それでも何の問題も無いようです。

さて、必要な書類も書き終わり、今度は電車に乗って、明日利用するサザンクロス駅まで行きました。駅の近くのスーパーでお土産を買いました。先年も利用したスーパーですが、精算が自動というか自分で行なう方法なので、慣れない高齢者は大変そうです。その後にホテルに帰り、一休みしてから夕食を食べに、再度出かけました。

メルボルン

■20190429(月曜日:晴れ)

今回宿泊したパン・パシフィック・ホテルです。
今回宿泊したパン・パシフィック・ホテルです。

■昨日は沼津から新幹線で東京へ行き、皇居を見学してから成田に泊まりました。ちょうど皇太子ご夫妻がお出かけになるところに出くわし、手を振ることができましたが、残念ながらお顔を拝見することはできませんでした。ご家族でのワゴン車に乗ってお出かけでしたが、窓が締まっていた為に、お顔を拝見することはできませんでした。

今朝は6時に起きて食堂に行き、朝食をとって8時のバスで成田空港へ向かいました。ホテルは外国の方も含めて、大入り満員でした。空港からバスで15分ほどのところにあるホテルでしたが、昨日の送迎バスも満員で大変な混雑でした。朝食を取るために開始時刻よりも十分ほど早く、食堂に行ったのですが、もう満員で長蛇の列でした。準備も無事終わり8時の送迎バスに乗ることができました。

昨夜と違ってバスはスムーズに空港に到着。先ずは予約してあったWiFiルーターと話題の自動翻訳機ポケトークを受け取りました。J-WiFiから昨日確認のメールを受信。その中のQRコードをかざすだけで、受け取ることが出来ました。ポケトークがどの程度の力を発揮してくれるか不安ですが、それを話題に話しが盛り上がれば、それで十分元は取れるはずです。

出国手続きなどの審査も顔認証のおかげもあって、スムーズに進み、9時には出発ゲートに到着することができました。75番ゲートです。JL773便です。座席は50Gと50Fです。日本時間10時半に出発して現地に到着するのは、21時55分。長い旅です。

■さて、ようやくホテルに到着しました。日本時間で22時20分、こちらとは現在1時間の時間差がありますので、メルボルンではもうすぐ30日になる頃です。平成も明日一日で終わりということになります。もちろん、ここメルボルンでは特別な感慨があるわけでもありませんし、催し物があるわけでもありません。

飛行時間は予定では9時間半でしたが、10分ほど早く着いたようです。飛行機はボーイング787で、乗客数は200名ほど。乗っていても足元のスペースも私には十分ですし、乗り降りもとてもスムーズにできますので、このぐらいの大きさの飛行機が一番乗りやすいかもしれません。

飛行中に映画を3本も見てしまいましたが、中でも、「グリーンブック」はとても良かった映画でした。人種差別を扱った定型的といえば定型的な内容ですが、さすがによく練られた脚本のおかげでしょうか、飽きることがありませんでした。人種差別問題は本当に深刻な問題なのですが、そこをいわば逆手にとって、こうした優れた娯楽作品を作り上げるところが、アメリカの懐の奥深いところではないでしょうか。いつも感心するばかりです。正面から取り込んでいます。日本では、アイヌの問題、そして沖縄の問題も、多くの日本人には、他人事なのです。

入国審査も終わり、到着口に行くと、JTBの案内を持った女性の方が待っていてくれました。

旅立ち

■20190428(日曜日:晴れ)

昨年旅した釜山港の様子です。
昨年旅した釜山港の様子です。

■さて今日から連休の始まりです。昨日は午前中に仕事を終えて、ほっと一息。朝から雨が降っていましたので、走るどころではなかったのですが、午後4時過ぎ頃でしょうか、雨雲も過ぎ去り青空が見えてきました。寒冷前線が通過したのか、雷も鳴っていました。月100 km の目標に向かって、残り12キロのところまで来ていましたので、少しでも積み重ねておこうと、雨上がりの 凛とした空気のなか走り始めました。 ところが何が悪かったのか不明なのですが、あまりの脱力感に走るところか歩くのも辛くなってしまいました。

おとといの夜にロータリクラブの次年度の委員長会議があり、皆さんと一杯やったのですが、会場の居酒屋さんがやたらに寒く感じていました。他の皆さんもそう言っていたので、自分だけが変だとは思わなかったのですが、風邪をひいてしまったのでしょうか。右の背筋が痛むのも単なる寝違えかと思っていたのですが、関係があったのか。とにかく走り始めて、あまりの辛さに、最初歩き始め、そして途中からは道端に座り込んでしまいました。なんとか2.44 km を積み重ね、総計90.43 km。残り2日で9.56 km のところまで来ました。 通常であれば何という距離でもないのですが、さすがにこの体調では無理をするわけにはいきません。

今日は成田に泊まって、明日の飛行機でメルボルンに行かなければならないからです。 Ayaちゃんの結婚式に出席するためです。 Takuの結婚式もそうでしたが、まだまだ先の話かと思っていたのですが、あっという間にその日が近づいてきました。

40周年記念式典

■20190407(日曜日:富山 曇り)

富山市松川沿いの桜並木です。多くの市民が花見に訪れていました。
富山市松川沿いの桜並木です。多くの市民が花見に訪れていました。

■昨夜は富山県眼科医会会長の片山先生、副会長の新田先生、そして千葉大学病院の山本院長と一緒に、楽しいひとときを送ることができました。眼科医会の運営について、あるいは医療制度について、そしてよもやま話に花が咲きました。

三次会は午前1時まで、続きました。こんな事は何年ぶりでしょうか。でも、とても楽しい時間でした。ざっくばらんに、色々なお話ができるというのは、本当にありがたいことです。

■さて、今朝は昨夜の遅い就寝にもかかわらず、6時に起きて走りました。ドジなことに、ランニングウォッチを持ってくるのを忘れましたので、スマホのアプリで記録を取りました。通算5キロ程度でした。この五キロの加算はとても大切です。路面電車が走っている道なりに、富山大学のキャンパスまで行きました。途中、桜が満開の場所が何箇所もあり、曇り空でしたが、十分楽しむことができました。

市内を流れる松川沿いの桜は、見事でした。昔、家族揃って出かけたことを思い出しました。話を聞くと、今年は富山では、4月に入って雪が降り、桜の花に雪が舞ったそうです。それも、また美しそうです。

さてランニングから帰ってきて、朝風呂に入りました。ホテルには大きな湯船が2階に三つも揃っています。これがドーミーイン富山の大きな売りです。さっぱりしてから部屋に戻り、昨夜買っておいたコーヒー牛乳とサンドイッチを食べました。着替えをしてしばらく休んでいると、うとうととしてしまい目が覚めると9時44分でした。慌てて準備をしてホテルを出ました。

歩いて5分のところにあるホテルで、記念式典が行われるのです。40年前に、日本中で一県一医大を目指して、新設校が続々と作られました。当時富山医科薬科大学と呼ばれた、現在の富山大学医学部の開講です。その記念式典が城址公園前にある、 ANA クラウンプラザホテルの3階で開催されたのです。10時からは千葉大学付属病院長の山本先生の記念講演、そして医局員一同での記念写真の後、懇親会が始まりました。昔お世話になった、懐かしい顔ぶれの先生ともお会いすることができて、本当に楽しいひと時でした。 食事を取りながら、昔話に花が咲きました。あっという間に時間が過ぎ、14時6分発のかがやき号で東京に戻りました。そして東海道新幹線を乗り継いで我が家にたどり着いたのです。本当に楽しく、また有意義な週末でした。

波しぶき

■20190331(日曜日:晴れ、強風)

戸田港から見た駿河湾です。
戸田港から見た駿河湾です。

■昨日の夕方、TakuとYukoさんが沼津に、やってきました。義父母の墓参りを終えて家に寄ってくれたのです。Sunと四人で戸田の民宿に宿泊しました。戸田の民宿・波止場苑に到着したのは16時半頃でしたでしょうか。 二つあるお風呂のうち、岩風呂に入り、18時からは楽しみにしていた夕食でした。お刺身ありエビありと、海の幸が食卓いっぱいに並びました。昨年から高崎に住み始めた二人にとっては、やはり海の幸は格別のようです。 魚のアラで出汁をとった味噌汁のなんと美味しいこと。戸田に着くまでのドライブにおいて、日頃の状況を色々話してくれました。大変なこともあるようですが、とにかく二人で力を合わせて仲良くやっていってほしいと願っています。

楽しみにしていた夕食です。海の幸が満載です。
楽しみにしていた夕食です。海の幸が満載です。

■今朝は6時に目覚ましを合わせましたが、朝食は7時半からでした。朝食の後、朝風呂を浴びて、宿をあとにしました。まずは伊豆半島を南下し、恋人岬を目指しました。天候が心配だったのですが、幸い青空に恵まれました。ところが風が強く、白波がとても美しかったのは良かったのですが、波しぶきでメガネが曇るほどでした。眼鏡が吹き飛びやしないかとハラハラしたほどです。

二人で幸せの鐘をつきました。
二人で幸せの鐘をつきました。
帰りがけに韮山の反射炉に寄りました。観光客でいっぱいでした。
帰りがけに韮山の反射炉に寄りました。観光客でいっぱいでした。

誰かのため

■20190102(水曜日:晴れ)

今朝の百澤神社の様子です。家族の健康を祈りました。

■今朝は走りました。9.93 km を走り昨日と合わせて通算14 km となり、残り29日85.99 km となりました。元日の昨日は走り出したものの、途中でトイレに寄りたくなり、結局4 km しか走れませんでした。それでも元日に無事にスタートしたことにほっとしています。昨日はNonちゃんとTakuと、そしてYukoさんも来てくれて、みんなで楽しくおせち料理をいただきました。Yukoさんが鼻炎などアレルギー症状が強く、少し体調が優れなくて元気がなかったのが気になりましたが、食事は取れていたようですのでその点はほっとしました。なんだかんだと四方山話をしながら、みんなで新しい年を祝うと同時に、健康で良い年にしようと語り合いました。

今午前10時42分ですか、今日と明日は箱根駅伝の日です。朝8時に東京の大手町を出発しました。青山学院の5連覇達成がなるかどうかが焦点です。一度でも優勝することは大変でしょうが、それを続けることはさらに困難なことに違いありません。大学は四年間しかありませんから、選手を育て続けないと良い成績は残せません。予選会のタイムを元に学連選抜チームが結成されますが、メンバーはそれぞれ良い記録を持っている選手ばかりです。記録から行けば良い順位が取れて当然のような気もするのですが、どういうわけか学連選抜がシード権の取れる10位以内に入ったという話を聞いたことがありません。 こんなことを考えている時に思い出すのが、堂場瞬一さんの小説「チーム」です。何度か再読しました。ネットによれば、

箱根駅伝の出場を逃した大学のなかから、予選で好タイムを出した選手が選ばれる混成チーム「学連選抜」。究極のチームスポーツといわれる駅伝で、いわば“敗者の寄せ集め”の選抜メンバーは、何のために襷をつなぐのか。東京~箱根間往復217.9kmの勝負の行方は――選手たちの葛藤と激走を描ききったスポーツ小説の金字塔。

と、あります。この中に私の心に残る言葉があるのです。

誰かのためを思って走る時、人は一段強い存在になれるのだ。

という言葉です。それぞれのチームのために走る選手と、それを持たない学連選抜の選手との違いを語っています。それは単に駅伝だけに当てはまることではもちろんありません。人生はもちろん自分のために生きるのですが、それだけでは大きな力は湧いてこないのでしょう。この小説は、ハラハラドキドキしながら、最後まで読み進めることができます。毎年正月に箱根駅伝の中継を見るたびに、この小説を思い出すのです。

2018お伊勢さんマラソン

■20181202(日曜日 晴れ)

 

川口市立飯塚小学校です。

 

 

■昨夜は、伊勢市駅で待ち合わせて、そのままホテルにチェックインしました。伊勢市駅JR側口から降りて2分ほどのところにあるコンフォートホテルです。荷物を置いて、その足ですぐに、3人で近くの居酒屋で一杯やりました。

 

 

21時少し前まで3時間近く3人で色々楽しく歓談しました。高崎での新しい生活を初めて3ヶ月がようやく経ったようです。Yukoさんも知らない土地で人間関係もない中で生活をするのはなかなか大変なことです。それでも明るい性格が幸いして皆さんの中に溶け込んでいる様子を知って一安心しました。

 

21時にはホテルに戻り、シャワーを浴びて22時過ぎには床に入りました。ところが、寝る段になって忘れ物をしたのに気づきました。こうした場合、いつも服用する睡眠導入薬を入れた箱を忘れてしまったのです。十分睡眠が取れるか不安だったのですが、スマートウォッチで睡眠の質を調べることで意外なほどにしっかりと睡眠をとっていることを確認していたので、以前ほどは不安を感じることなく寝ることができました。実際何度か夜中に目が覚めたのですが、その度にすぐにまた寝付けましたので、睡眠は十分取れたように朝感じました。

 

朝の6時に待ち合わせてホテルのレストランに向かいましたが、エレベーターを降りてみてビックリ。朝食を待つ人で長蛇の列だったのです。ほとんどがマラソンに参加する人のように見えました。昨年のホテルでは、このようなことはなかったように記憶していますが、このホテルは駅から近いので、それだけ、お客さんも多いようです。20分少し待って、ようやく席に着くことができました。

 

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帰国

■20181023日(火曜日:曇)

 

 

ハノイオペラ座前の交差点です。向かって右にあるのが、アメリカのヒルトンホテルです。

 

■朝の5時にハノイのコニファーホテルを出て、ハノイ・ノイバイ国際空港から帰途につきました。羽田空港には15時に到着。京浜急行線と東海道新幹線を乗り継いで、我が家にたどり着いたのが18時前でした。Sunがお風呂を入れておいてくれました。これは有り難いことでした。何しろベトナムでは、ゆっくりと湯船に浸かることはできないからです。暑い国ですからシャワーでも不自由はないのですが、疲れが取れません。

 

ゆっくりとお風呂に入り、素麺と握り寿司、そして味噌汁があり、これ以上の夕食はありませんでした。海外旅行の後は、これが一番です。

 

■先週の木曜日の午後に家を出て、6日間の支援の旅でした。今年も終わってみれば、あっという間でした。バクザン省の職業訓練センターには3年続けての訪問でした。トゥイ所長さんとも、すっかり顔なじみになりました。お元気そうでなりよりでした。

 

金曜日の夜に最後の夕食を共にしました。そして大釜会長から、来年からは知り合いがいるニンビン省に支援活動に行きたいので、来年はこちらには来ることができない、と伝えた時の所長さんの表情には、落胆の影が一瞬よぎりました。それでも顔色をほとんど変えなかったのは、さすが所長さんです。私としては大変残念なのですが、これも致し方ありません。

 

 

家庭訪問

■20181020(土曜日:曇)

 

「バイディン寺」です。東南アジア最大の仏教寺としてベトナム人の注目を集めています。

 

Day 2 終日家庭訪問 8軒

No1 ゴー・バン・チュック ラオス国境で従軍。難聴と体の痛み。

 

80歳 五人の子ども。一人はハノイで入院。枯葉剤原因ではない。

 

 

一人は死亡。原因は枯葉剤。子ども達三人と同居。二人娘。他の家に嫁いでいる。残りの一人息子と同居。農業で生計を立てている。豚を飼っている。周囲の野菜で飼育。5−6ヶ月で出荷。

毎月170万ドン支援金あり。1972年頃帰郷。

 

 

奥さんは元気。70歳。

■Day 2 n2   表 7

ダム・グォック・ホン  79歳 男性 ラオス国境で従軍

10年 1966−77年 従軍。100万ドン 毎月支援金

子ども4人 男1人 知的障害あった ⇒ 39歳で死亡、孫が同居

女の子 3人、結婚して付近に住む、別世帯、農業をしている。

現在夫婦で同居、血圧高く脳の血流悪い 頭痛、人民委員会近くの病院に月に一度通院

妻は病気がち、78歳

支援金と娘達の支援で生活、農業していない

今の家は80年前に建てた。

■Day 2 n3   表 8

メイ・バン・ダン 80歳 娘さん1982年生まれ と一緒

1966年から南部で従軍、枯葉剤被害者、娘とともに認定されている。

父 200万ドン、娘 80万ドン 月の支援金

妻は死んだ。父 よく見えない。HT、内服。娘は話せず、言葉理解できない。仕事は手伝えない。この娘の将来のことが一番心配。自分のことができるのみ。

7人 息子 2 娘 5 三番目の娘。

末っ子夫婦と娘3一緒に暮らしている。農業のみで生活。父の年金。毎月400万ドンあり。

父は別居。症状があるのは、娘3のみ。

枯葉剤被害者が集う機会はない。

■Day 2 n4  表 5

ファン・バン・ルォオン

月190万ドン支援金、他の収入無し。本人には目が霞む。枯葉剤障害は自分のみ

夫婦と障害のある子と暮らし。妻70歳。子ども達 4人。娘一人が知的障害あり、枯葉剤とは関係ない。息子さん夫婦は農業するもコメは少し。息子さんは43歳。

他の三人には障害なし。後の二人の行方は分からない。

■Day 2 n5  表 9

ファン・バン・ナン 68歳。

従軍でフエに行っていた。奥さんと二人。写真の二人。

夫 枯葉剤被害 片目は見えない。右手と左足不自由。

月530万ドン支援金。高血圧薬のみ服用。5−10万ドン薬代。

子どもはいない。養子を一人。男子。40歳。

妻は夫の面倒見て終わり。養子と妻同居。娘三人。農業。食べるだけ。

教育費がかかる。

10年間従軍。

■Day 2 n6  表10

チャン・ズイ・チュン  28歳 男性 生後から脚の萎縮、歩けなくなった。自分の事はできない。座れない。話すこともできない。言葉を理解できない。兄がいる。問題なし。

月150万ドン。オレンジの栽培。金にならない。兄が同居。奥さんと子ども二人あり。34歳。

父は10年前に死亡。

■Day 2 n7  表11

ディエン・ティ・ルアン 63歳 寝たきり  二人の息子 一人行方不明の妻と孫二人と暮らしている。

170万ドン 女性兵士として従軍 夫は二年前に死亡。

12年前より寝たきり。話はできた。悲しくて泣いている。

腹痛、

■Day 2 n8  表12

ゴー・バン・チュック 80歳 月180万ドン 支援金

娘さん 42歳 話せない。枯葉剤被害者。

五人の子どもがいて、末っ子の家に住んでいる。

1976年から父は寝たきり。奥さんは77歳、娘と夫お面倒をみている。

夫は自分で食事は取れるが、娘は介助が必要。

ビンディン省で7年間従軍。

ラオスの国境で従軍。

末っ子は農業に従事している。

支援金 本人200万ドン、娘 90万ドン

五人のうち、一人は死んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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