2023 年 09 月 02 日 TakuとMasato とNonと一緒に訪れた熱海初島です。

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MIRAフィットネスクラブに出掛けた日。

1年3ヶ月

■20241017(木曜日:曇)

機内から見た宍道湖畔の様子です。
松江から出雲へ向かう国道9号線でしょうか。

■昨日は4日ぶりの仕事でしたので、休む暇がありませんでした。そして、夜には5日ぶりにフィットネスクラブに行って、筋トレをしましたが、その後がいけません。夜中に何度も目が覚めて、軽い筋肉痛まで起こりました。

高齢者は、これだから困ります。まぁ、文句を言っても仕方ありませんので、愚痴を言いながら自分の体と付き合うしかなさそうです。

松江に出かけて、小泉八雲記念館を再訪してみて、彼の著作をきちんと再読しようと思い立ちました。さっそくKindle版「日本の面影」を購入しましたので、ゆっくり読んでみるつもりです。

小泉八雲の妻の小泉セツが主人公の朝ドラが、NHKで放映される予定だと昨日知ったことも、きっかけになりました。小泉八雲と聞くと、松江に長く滞在したとばかり思っていると、足元をすくわれます。

1890年8月30日に松江中学校に着任。1891年11月5日には松江を去って、熊本の第5高等学校に転任しています。つまり、1年と3ヶ月ほどしか松江には滞在していないのです。

思い込みとは、恐ろしいものです。

日常再開

■20241016(水曜日:曇)

飛行機から見た宍道湖です。間もなく「出雲縁結び空港」に着陸です。

■土曜日午前中に仕事を終えてから、旅に出ました。第36回出雲全日本大学選抜駅伝競走を観戦、応援する旅です。昨年初めて観戦の旅に出ましたが、今年はさらに、ゆっくりと時間を取りました。

中日の13日の日曜日を、隠岐の島への旅に当てたのです。出雲空港からプロペラ機で隠岐空港へ飛びました。30分の飛行です。

島をレンタカーで一日かけて回りました。とは言っても、4つある島の内、隠岐空港のある、隠岐の島町だけを回りました。

月曜日の朝には、再び飛行機で出雲に戻り、駅伝の応援です。そして火曜日は、松江城を見学。小泉八雲記念館を再び訪れて、ゆっくりと見学することができました。

15時の飛行機で静岡に戻り、夜は医師会の理事会に、なんとか間に合って出席し、無事に休暇を終えることができました。

終始天候に恵まれ、青空の中で旅を楽しむことができたのは、幸運そのものでした。感謝するしかありません。

今日からは、また日常が再開です。

悲劇の予兆

■20241010(木曜日:晴れ)

北海道浜頓別から猿払村に向かって、238号線を走っています。

■爽やかな朝です。昨夜は空調もかけずに、寝室のドアを開け放して休みました。睡眠アプリの診断も、総合得点82点で、まずまずです。窓には秋の空が広がり、青森からは紅葉の便りも届いています。

昨夜は、フィットネスクラブに出かけ、スミスマシンによる筋トレを行いましたが、バーベル・スクワットの負荷のみ5キロ上げました。チェスト・プレスは、対象筋肉が小さいので、少しの増加でも負担増がとても大きく感じられ、筋肉痛など、あとが心配なのです。

一見体つきが変化したようには見えないのですが、自覚的には大きく変化しています。車を運転中に、4WDモードに切り替えたようだというと、かなり大げさですが、それに近いものがあります。起立している際の、安定感が格段に増した、ということです。スクワットのおかげです。

こんな爽やかな秋の日には、以前ならアプローチの練習に出かけたものですが、いまはフィットネスクラブという親友ができましたので、選択に迷います。今月は、まだ2回しかLSD をしておらず、11.18 km を積み重ねたのみです。12月の川口マラソンに向けて、走り込む必要もあります。

■さて、いつもの知恵袋「田中宇の国際ニュース解説」です。遠い、遠い中東で、またさらなる悲劇の動きです。アメリカ大統領選挙の結果で、その悲劇を回避できるのでしょうか。

★シリア内戦の再燃?
田中宇の国際ニュース解説 無料版 2024年10月09日

立山登山

■20241009(火曜日:雨)

北海道・猿払村からオホーツク海を目指しています。

■今朝は雨です。昨日は、かなりの雨量になると予想されていましたが、大したこともなく終わりました。昨日は一日籠の鳥でしたので、外の天候は、よく分かりませんでした。

■さて以下の記事を読むと少し残念です。

★小学校の伝統行事「立山登山」コロナ禍で岐路
…児童の体力低下、教員の働き方改革が拍車

かつて富山に住んでいた頃、同じ団地に住む、同じような家族構成の仲間と、夏の立山登山を試みました。室堂まではバスで行き、山小屋に宿泊した後、雄山(おやま)を目指しましたが、子どもたちの足に豆ができてしまい、途中断念せざるを得ませんでした。

同校ではこれまで、登山 1 日目に観光道路「立山黒部アルペンルート」の室堂( 2,450 メートル)でバスを降り、雄山( 3,003 メートル)に登頂。山小屋に宿泊し、専門家から自然や歴史の説明を受け、翌日に下山していた。

室堂から山頂までは歩いて 3 時間ほどだが、近年は登り始めてすぐに体調不良を訴える子もいる。

取材からは、コロナ禍で一旦中止になった行事が、子どもたちの体力面の不安などの理由から、そのまま中止になっていく様子が浮かび上がってきます。

 名古屋大学の内田良教授(教育社会学)の話「宿泊学習は教員にも子どもにも負荷が大きく、子どもの心身の不調が生じるリスクが高い。皆が楽しく参加できる学校行事を考えるべきだ」

 立山のガイドを務める登山家の佐伯知彦さんの話「立山に登って一人前になるという文化を継承したい。企業や団体なども巻き込み、小学生が安全に登山できる体制作りが必要だ」

どちらにも一理あるのですが、コロナ禍以降、なにもかにもが廃止の方向になっているのは残念です。

富山県によると、県内の公立小学校では 2016 年度、全 192 校の半数を超える 103 校が立山登山を実施していたが、コロナ禍だった 20 年度は 7 校まで激減。21 年度に 28 校まで回復したが、22 年度は再び減少するなど、回復の兆しはみえない。

コロナ禍においても、 7 校が実施していたというのは、すごいことです。世間の目は厳しかったはずですが、そんな中であえて実施した学校の勇気に驚きます。

コロナ禍における多くの騒動は、単なるから騒ぎだったことは、今になれば歴然としているからです。誰が何のために、あのような騒動を巻き起こしたのか、しっかり検証しないと、また同じことの繰り返しになりそうです。

産官学金労言

■20241007(月曜日:晴れ)

北海道音威子府(おといねっぷ)から浜頓別(はまとんべつ)へ
向かっています。牛が放牧されていました。

■今朝は爽やかな青空が広がっています。風も涼しげで、ようやく秋らしくなってきました。今日の写真は北海道の初夏です。今年の6月に初めて参加した「丘のまち びえいヘルシーマラソン」のあと、富良野から稚内へ向かう途上の様子です。

北海道大好き人間の私は、北海道のあの大地を思い出すだけで、心が広々してきます。今年は5月から6月の1ヶ月半の間に、なんと3回もマラソン大会に参加しました。

かなり無謀なことは分かっていたのですが、そんな事ができるのも今のうち。来年になったら、もうそんな気力は湧いてこないかもしれないと感じて、挑戦してみました。

どれも、なんとか完走して切り抜けることができましたが、さすがに来年は違う日程を予定しています。それでも北海道で最低3回は、大会に参加しようと思っています。

そんな私にとって、以下の記事は大変気になるのです。

石破首相が就任前に発言
「リニアに使うお金があれば北海道の鉄道に使うべき」
 北の鉄路は石破政権で蘇るか

サホロで毎冬、二人でスキーをしていた頃、静岡空港、新千歳空港、新千歳空港駅、南千歳駅、そして新得駅という道のりで、スキー場まで通いました。南千歳駅18時発あおぞら9号で、新得駅19時33分着の列車です。新得駅には、スキー場ホテルの送迎バスが待ってくれていました。

そんな旅行の中で、JR北海道石勝線に乗って感じることの一つに、窓が汚れているということがあります。最初は理由も分からず、JR北海道の怠慢だ、程度に思っていたのですが、もちろんそうではありません。

上の記事を読むと、北の大地での鉄道路線の維持管理が、いかに大変かが分かります。切り捨てるのは簡単です。しかし積極的廃線と称して、次から次へ鉄道事業を廃止している北海道は、バスへの転換も成功せずに、結局取り残されて人が住めない地域になるばかりです。

夕張市長から北海道知事なった鈴木知事は、その先頭を走っていましたが、多くの魅力を消失した夕張が、知事のこれまでの仕事の象徴です。北海道の不幸です。鉄道事業に一家言(いっかげん)を持つ石破首相とは、大違いです。

北海道庁「一方的に鉄道廃止決める」姿勢は石破政権で変わるのか!?地方創生は地域の知恵結集要と所信表明

石破首相には、厳しい批判が巻き起こっていますが、私は岸田首相よりは、ずっとマシだと信じています。今は隠忍自重(かんにんじちょう)の時なのでしょう。選挙によって政権基盤が少しでも固まれば、石破首相の一家言を、ぜひ少しでも実現して欲しいと願っています。

抗重力筋

■20241004(金曜日:雨)

6月9日の富良野・四季彩の丘です。
花々が咲き乱れるには、1ヶ月早すぎました。

■昨日は、今月初めてのランニング積み重ねとして、33分20秒、3.65 km を走りました。いつもなら筋トレ後に、ランニングをするのが最近の決まりなのですが、筋トレもせず15分ほどしか走っていないにも関わらず、体が重くて、これは無理をしない方が良い、と走りながら感じました。汗のかき方で、体調をある程度推し量ることができます。

スミスマシンによる筋トレが、とても良い効果をもたらしているのは、充分実感しているのですが、やはり高齢者は疲労回復を図りながらでないと、逆効果になってしまいます。トレイナーによるレッスンビデオなどでも、その点は強調されています。

筋トレすると必ず組織の破壊が起こり、そこから筋の修復、そして肥大という過程を経るのが、修復が済まないうちに、さらなる破壊が起きてしまい、正のサイクルにならないようです、

それでも、ここ1週間ほどは、立っている際に必要な抗重力筋群が以前よりもしっかりしてきたのか、立っている際に、とても安定していることを実感しています。腰回りが、しっかりしているという実感です。

立位姿勢を保持するためには、抗重力筋の機能がとても重要です。

抗重力筋とは、読んで字のごとく「重力に抗う筋肉」です。

具体的には背筋(背中の筋肉)、臀筋(お尻の筋肉)、ハムストリングス(ももの後ろの筋肉)、下腿三頭筋(ふくらはぎの筋肉)などの筋肉のことです。

これらの筋肉群の鍛錬は、スクワットで、かなりカバーできそうです。同窓会から帰ってきてSunが言うには、皆に会ってまず目に付くのが、同年輩以上の仲間の姿勢の悪さだったそうです。老人特有の姿勢の変化が避けられません。

まぁ、気長に取組しかありません。一朝一夕に解決できる問題ではないからです。楽しみながら、続けていきましょう。

就学時健診

■20241003(木曜日:晴れ後雨)

JR北海道富良野線「美瑛駅」です。
駅の横の駐輪場で、完走後に着替えをしました。

■さて今日から恒例の、就学時健診が始まります。来年小学校へ入学する生徒さんの健康診断です。少子高齢化で入学者数も年々減少しています。検診をする立場からすれば、少ないほうが楽なのですが、地域に子どもたちの声が聞こえなくなるのは、寂しい限りです。

先日は友人のY先生から連絡をいただき、今年度限りでクリニックを閉じるつもりだ、と連絡をもらいました。まだ70代なかばですので、継続は可能なのでしょうが、持病もあって決断されたようです。

私よりも数年前に開業され、地域のまとめ役として長い間お世話になった先生ですので、ついにその日が来たのだ、と感慨深いものがありました。その次は自分だ、という思いが、いよいよ現実味を一気に増してきました。

担当している学校医は、他の先生にすでに依頼済みで、次年度からの移行にも問題がないように手配されたようです。こうした地域での公的義務が、閉院の際には重しになります。代替医療機関を探す必要があります。面倒な仕事ですから、本当は誰も引き受けたがりません。

日本中の地方で、おそらく同様の変化が、これから続出するはずです。高齢化した開業医が、マイナカードを始めIT化の高波を乗り切れずに、閉院に追い込まれるパターンです。

無医村の状態になる地域が、激増するはずです。そこまでの変化を、この目で見る時間的な余裕は無さそうですが、そうした状況の到来は、まさに目に見えています。

孫たちが成人する頃の日本社会は、いったいどんな様相なのか。あまり想像したくないというのが、正直な思いです。

高度成長時代

■20241001(火曜日:晴れ)

「丘のまちびえいヘルシーマラソン」。20キロ地点。
残りは1キロ強です。あと、もう少しです。

■今日から10月。爽やかな朝です。ちょうど60年前に、東京オリンピックが開催されました。忘れもしません、10月10日が開会式でした。本当に爽やかな青空のもと、国立競技場で開催されたのです。

当時11歳だった私(これは確かです)は、小学校から急いで家に帰り、白黒テレビで開会式を見たように記憶していますが、これは不確かです。後に学校からクラスの仲間揃って、近くにあった東映映画館に、市川崑監督の記録映画を観に行ったことで、記憶がごちゃ混ぜになっているかもしれません。

古関裕而さん作曲の入場行進曲を聞く度に、あの日を思い出すことができます。ちなみに、生成AI に「日本の高度成長時代って、いつのこと?」と尋ねてみると、

日本の高度経済成長時代は、戦後1955年から1973年にかけての約20年間で、実質経済成長率は年平均10%前後でした。

高度経済成長の主な要因は次のとおりです。

経済優先の政策、資源開発を伴うエネルギー革命、中東からの安価な原油の輸入、 円安。

★高度経済成長の時代には、次のようなことが起こりました。

(1)技術革新が製造施設の拡大を促し、テレビ、冷蔵庫、自動車などの耐久消費財が飛ぶように売れた

(2)政府は重化学工業の発展や合理化による輸出の拡大を目標とした

(3)1960年代の終わりには世界第2位の経済大国となった

(4)1964年に東京オリンピックが、1970年に大阪で日本万国博覧会が開催され、日本の戦後復興と経済力が世界に向けてアピールされた

(5)高速道路や新幹線など交通網の整備が進んだ

1953年生まれの私には、物心ついてから成人するまで、ずっと高度成長が続いていたことになります。簡単に言えば、昨日より今日、今日より明日、生活は必ず良くなると、単純に信じることのできた時代だったのです。

そして、間違いなく、そうなって行ったのでした。社会人になってからも、幸い傾向としては同様でした。一生懸命働けば、収入も増えました。

ところが、今の30代、40代の人たちは、不景気な時代しか経験していないので、未来に対する思いが、ぜんぜん違うことに驚きます。

今また、(4)の再現を狙って東京オリンピックと大阪万博を開催しようとしていますが、いかに時代が様変わりしたかは歴然としています。結局、我々の発想は60年前と、少しも変わっていないということです。

そして結果は、まるで別物になっているのです。

48 キロ

■20240930(月曜日:曇)Haruto 誕生日

「丘のまちびえいヘルシーマラソン」。19キロ地点。
残りは2キロ強です。下り坂ですが、次の上りが辛いのです。

■昨日は昼前に、フィットネスクラブに行って走りました。48分3秒、6.14kmを走り、これで今月は9回のランで52.92kmを積み重ねました。エプソンのホームページに接続すると、月間50km走達成おめでとうございます、と祝ってくれています。

日曜日で時間がしっかりと取れますので、走る前に、まずは筋トレを普段の夜以上に丁寧に行いました。スミスマシーンで、いつものように、チェストプレスとスクワットを行ったのですが、昨日からバーベルの重さを少しだけあげました。

チェストプレスでは、一番軽い1.25kgを左右に追加し、スクワットでは、2.5キロの重りを左右に追加しました。これでチェストプレスは、23.5kg、そして、スクワットは36.5kgとなりました。

インストラクターの解説をネットで読むと、バーベル・スクワットの目安は、初心者では体重の80%だそうです。つまり60キロの人であれば、初めて取り組む際は、48キロを上げるのが良いとのこと。

この数字には、かなり驚きました。大谷選手のように120キロで行うつもりはサラサラありませんが、私の場合、全然足りていません。これから少しずつ負荷を上げていこうと思っています。バーベルスクワットのご利益は、自分の体で実感していますので、続けていく動機は十分です。毎月、少しずつ上げていくことにします。

■今朝の写真は、今年の6月に初めて出場した美瑛マラソンの様子です。なだらかな丘を、登ったり下ったりなのです。景色は最高です。天気さえ良ければ一日かけて、ゆっくりと歩いてみたいのですが、制限時間がありますので、そうはいきません。

でも、いつの日か、そうしてこのコースを歩いてみたいと、真剣に思い始めています。夢ですね。

盛者必衰の理

■20240929(日曜日:曇)

「丘のまちびえいヘルシーマラソン」。
18キロ地点から20キロに向かって走っています。

■今朝は曇り空です。そして、涼しげな風が窓から吹き込んできます。空には、ところどころ青空が覗く天候です。今日からSunは同窓会でお出かけです。駅まで今、送ってきたところ。京都から滋賀を回るようです。青空が見えてくれていると良いのですが。

■さて以下の記事には驚くとともに、時代の流れの過酷さを感じます。

★インテル「独り負け」招いたCEO肝煎り事業の混沌、
時価総額はAMDの半分以下、直近業績は赤字転落

インテルといえば、マイクロソフト社とともに、パソコン時代の絶対王者でした。その歴史を簡単に振り返ってみると、

(1) 1971年10月 – NASDAQに株式を公開。

(2) 1981年8月 – IBMが同社初のパソコンIBM PCを発表。CPUに8088が採用されたことは、インテルが急成長するきっかけとなった。

(3) 1985年10月 – DRAM事業から撤退し、CPUの開発・生産に経営資源を集中。

(4) 1991年5月 – Intel Insideロゴ(日本では『インテル、入ってる』として広く知られている)を発表。CM、カタログなど様々なメディアで広く世界中で使用されたが、これは日本発のブランディング・キャンペーンである。

1981年のIBM PC の発売に際して、当時コンピューター業界の絶対王者だったIBMが、独占禁止法違反を恐れて、パソコンの2大主要部品、CPUとOS(基本ソフト)を外部から調達したところから、歴史は大きく動きました。

その2大主要部品を提供したのが、インテルとマイクロソフトだったのです。その当時は、恐竜と我々の祖先たる哺乳類ほどの違いがありました。

その後、マイクロソフトはMS-DOSからWindows にOSを進化させます。Windows 1.0は、1985年11月20日に米国で発売されました。「Windows 1.0は、マイクロソフトが開発した最初のGUI(グラフィカル・ユーザー・インタフェース)環境のOSで、MS-DOSの上で動作していました。それまでは、コマンドをキーボードから入力するだけのMS-DOSが業界標準でした。Windows 1.0は、できることが少なく、動作が遅く、評判は悪かったと言われています」とネットにはあります。

Windowsは3.1 なって、初めて使い物になるOSになった、と言われています。その影にはインド人IT技術者の貢献が大きかったと、ネット上では囁かれています。

「Windows 3.1は、英語版が1992年4月に、日本語版が1993年に発売されました。DOS上で動作する点は変更ありませんでしたが、安定性が飛躍的に向上し、実用性が高まりました。日本では初めて普及したWindowsとなりました」とあります。

何事もバージョン3以降でないと、実用的な安定性が得られないのは、マイナ保険証などを見ていても、間違い無さそうです。それまでは、トラブルに巻き込まれる人柱の連続です。

■こうして、ウインテル帝国は永遠に不滅かと思いきや、黄昏を迎えています。まさに平家物語の語るとおりです

祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。

娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。

驕れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。

猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。

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