20170625(日曜日:雨)
■今朝は雨。天気予報では、これから雨脚が強まるようです。午前5時41分現在は、小雨程度ですが。
今朝の写真は、昨日整理していて見つけたものです。98年5月8日、と記載されています。あの頃我が家の子どもたちは、死にかけた小鳥を拾ってきては、一生懸命に家で介抱していたものです。ピースと名付けていました。初代のピースでしょうか。ムクドリです。
子どもたちは、そうして拾ってきた小鳥たちが、やがては死んでいくのを見ながら、いのちというものを学んでいったように思います。小鳥と遊んでいる子どもたちは、本当に穏やかで楽しそうで、心が癒やされていたのでしょう。三代目ぐらいまで続いたでしょうか。それ以降は、子どもたちも忙しくなって、それどころではなくなってしまいました。
それでも、Nonは今でもウサギさんを飼っているのですから、心は子どもの頃のままなのでしょうか。
(●^o^●)
■久しぶりに、ゆっくりできる日曜日です。新聞を隅から隅まで読んでいます。特に読書欄が楽しみです。早速購入したのは、「裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち」。
私たちは沖縄というと綺麗な海と米軍基地、その程度の知識しかないのですが、とても貧しいのです。そして、そうした貧しさは、少女たちに過酷にのしかかるのです。おんなこどもが幸せになれない社会って、いったい誰が幸せになれるのでしょうか。
決して高邁な話ではないかもしれませんが、政治の目的とは、誰もが自分を見つめ、自分らしさを、自分なりに追求できる社会を目指すことです。もちろん、それには毎日の生活が成り立つことが前提です。小沢一郎さんが、いつも言われる政治の基本です。
仁徳天皇の四年、天皇が難波高津宮から遠くをご覧になられて
「民のかまどより煙がたちのぼらないのは、貧しくて炊くものがないのではないか。都がこうだから、地方はなおひどいことであろう」
と仰せられ「向こう三年、税を免ず」と詔(みことのり)されました。それからというものは、天皇は衣を新調されず、宮垣が崩れ、茅葦屋根が破れても修理も遊ばされず、星の光が破れた隙間から見えるという有様にも堪え忍び給いました。
三年がたって、天皇が高台に出られて、炊煙が盛んに立つのをご覧になり、かたわらの皇后に申されました。
「朕はすでに富んだ。嬉ばしいことだ」
「変なことを仰言いますね。宮垣が崩れ、屋根が破れているのに、どうして富んだ、といえるのですか」
「よく聞けよ。政事は民を本としなければならない。その民が富んでいるのだから、朕も富んだことになるのだ」
天皇は、ニッコリされて、こう申されました。
平成天皇も、きっと心のなかで、このように思われているからこそ、全身全霊を打ち込んで国民に向かい合ってこられたのでしょう。
それにしても、今の政権は本当にひどい。私利私欲の塊以外に何もない。真剣に考え、話し合い、問題点を探る、という基本中の基本を全部飛ばしてしまっている。安倍総理の言葉の、何と軽々しいことか。それを支持している国民の軽々しさには、本当に驚くばかりです。
マスコミの力が大きいのでしょう。大手マスコミも、また私利私欲のみの存在に堕ちてしまったのです。戦後70年の結末が、この有様とは、本当に情けない。
■写真を整理していて、1994年の楽しい一コマが蘇りました。良則さんに感謝、感謝です。