■20250510(土曜日:雨)

■今朝は雨です。昨夜から降り続いています。道路を隔てて立ち並んでいる市営住宅の街路樹は、もう50年以上になるのでしょうか、4階建てのコンクリート棟を、その新緑で、すっかり覆い隠してくれています。
今朝はその街路樹も、雨の中じっと、天候の回復を待っているように見えます。風も無く、木々の葉はまるで時間が止まったかのように、静かな朝です。
住み始めた頃は、まだ街路樹もそこまで成長していませんでしたし、道路に面した我家のリビングの窓も、現在のように昼間なら外からは見えないような工夫もされていませんでした。
つまりは、お互い見通しが良かったのです。30年前には市営住宅もほぼ満室でしたが、今では空いている部屋のほうが多いようで、カーテンのある部屋を探すのが大変なほどです。
聞くところによると、公営住宅はどこも、高齢者の単身世帯が多いようです。一人で住むなら団地は便利です。広さも適当ですし、木造に比べて、とても暖かです。
ただし、目の前の市営住宅には、エレベーターが設置されていないようですので、その点は高齢者にはきつそうです。近くにある県営住宅には、エレベーターが近年設置されたようで、住民には朗報です。
こうした公営住宅は、家賃も民間に比較すれば負担が少なく、若いカップルには、とても住み易いと私は思うのですが、どうも人気がないようです。
■40年ほど前、子ども達が小さかった頃住んでいた、富山の公営住宅は、とても快適でした。隣に住んでいた、同じような年代の家族の母親とは、今でも連絡を取り合っています。あの頃の公営住宅は、家族連れがほとんどでした。ですから、家族ぐるみの付き合いでした。
ある時、やんちゃのTakuが部屋に籠もったまま鍵をかけてしまい、鍵を持たずに買い物から帰ったSunが、家に入れず途方に暮れたことがありました。郵便受けの空間から、お菓子で釣って、何とか玄関を開けさせようとしたものの、一人でおもちゃと戯れるばかりで、Takuには馬耳東風。
隣のおばちゃんも参加し、職場から呼び出された私も協力して、大騒動でした。隣のベランダを伝わって、何とか二階にあった自宅に私が潜り込み、内側から鍵を開けることができました。数多くのハプニングがありました。
さらには、同じ団地住まいの5家族で一緒に、泊りがけで立山へ登山に出かけた事もありました。今では、それぞれの家族の子ども達も、もう中年に差し掛かっているはずです。あの可愛さ一杯の子ども達のことを思い出す度に、よそ者だった私達家族を、温かく迎え入れてくれた、富山の皆さんに感謝の気持ちで一杯になるのです。
▶DeepSeek のアドバイス
この文章は、雨の朝の静かな情景から、過去の団地生活の賑やかな記憶へと時空を横断する、情感豊かな随筆です。特に際立つ特徴を三点挙げます:
- 時間の層構造が生む郷愁
- 現在の雨に煙る市営住宅の静寂(カーテンのない空室が目立つ高齢化社会)
- 40年前の富山での団地生活(子ども達の歓声と隣人との共同性)
が、道路を隔てた街路樹を介して対比され、戦後日本の共同体の変容を映し出しています。
- 生活史としての「団地」の変遷
- 建築様式:木造→コンクリート(断熱性の向上)
- 入居者層:子育て家族→高齢単身者
- 設備:階段のみ→エレベーター設置
こうした変化を「暖かさ」という身体的感覚と「便利さ」という機能面から描くことで、住宅政策の変遷が読者の皮膚感覚に迫ります。
- 鍵事件に凝縮された人間味
- 郵便受けからお菓子で誘うという発想
- 隣人総出の対応(現代では考えにくい共同性)
- ベランダ伝いの侵入劇(防火規制が厳しい現在では不可能)
このエピソードには、失われた「近所の知恵」と「危険を共有できる人間関係」が鮮やかに封じ込められています。特筆すべき表現技巧:
- 「街路樹がコンクリート棟を覆い隠す」という描写が、過去の記憶が現在を覆う構造とシンボリックに重なります。
- 「馬耳東風」という四字熟語で、幼子の無邪気な頑固さを表現するセンス。
- 立山登山のエピソードが、富山という土地の風土性を想起させます。
改善点として:
- 現在の市営住宅の高齢者たちにも、富山時代のような「小さな事件」はあるのか?
- 街路樹の樹種(おそらくケヤキ?)を明記すると、季節感がさらに深まるでしょう。
この文章は、高度成長期の「公営住宅」という空間が育んだ人間関係の豊かさを、静かな筆致で甦らせた佳作です。
団地のコンクリートに子供の歓声が反響していた時代と、雨に濡れて静まり返った現在とを往還するリズムが、読者に「居住のあり方」を考えさせる力作です。
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