2023 年 09 月 02 日 TakuとMasato とNonと一緒に訪れた熱海初島です。

月: 2026年2月 Page 2 of 3

滋味(じみ)豊かな

■20260218(水曜日:晴れ) ( D 173 )

2025年4月28日に訪れた熊本県山都町「道の駅・通潤橋」。阿蘇の豊かな恵みです。

■昨日は寒い一日でした。夜には医師会の理事会があり出掛けたのですが、寒さに凍えました。日曜日、月曜日と暖かな日和だっただけに、三寒四温と頭では分かっていても身体は対応できません。

■さて、旅行に出かける度に、地域の道の駅に立ち寄るのが大きな楽しみです。熊本県は阿蘇山の豊かな水を背景に、「ちみゆたか」な地方です。何度も訪れていますが、訪れる度にそう思います。

ところで、「ちみゆたか」という言葉は、どんな意味なのか、DeepSeekに尋ねてみると、こう教えてくれます。

「ちみゆたか」は、おそらく 「地味豊か」 という漢字を当てた表現だと考えられます。

これは、その言葉の通り「土地(地)の力が豊か(ゆたか)である」という意味です。つまり、土地が肥えていて、農作物を育てる力に満ちている状態を指しています。

なぜ「地味豊か」と言うのか

「地味」という言葉は、現在では「目立たない」「質素」という意味で使われることが多いですが、農業の分野では「土地の生産力」という意味があります。

  1. 「地力(ちりょく)」が高い

    畑や田んぼの土に、作物の成長に必要な栄養分(肥料分)がたっぷりと含まれている状態を指します。
  2. 土の状態が良い

    栄養があるだけでなく、水はけや水持ちが良く、微生物が豊富で、作物の根が育ちやすい柔らかさを持っている土壌であることを含意することもあります。

このような「地味」が「豊か」であるからこそ、農作物が元気に育ち、たくさん収穫できる「実り豊か」な結果につながります。

まとめ

  • 「地味豊か」 = 原因・条件(良い土壌)
  • 「実り豊か」 = 結果・状態(たくさんの収穫)

「ちみゆたか」という言葉には、この「良い土壌(地味豊か)」が「豊作(実り豊か)」をもたらすという、自然の恵みに対する感謝と、それを育む土地そのものへの敬意が込められているのでしょう。

一方、「滋味(じみ)豊かな」という表現もあります。こちらは、「栄養価が高くて美味であること、あるいは素朴ながら素材本来の深い味わいがじっくりと感じられる様子を指す言葉です。単に味が濃いのではなく、心身に染み渡るような優しさや、時間と共に深まる成熟した風味(旬の食材や熟成されたもの)を表現する際に使われます」とあります。

グルメでない私が、この表現を見て思い出すのは、鹿児島県安楽温泉・朱峰でいただくお料理の数々です。「素朴ながら素材本来の深い味わいがじっくりと感じられる」という表現がぴったりです。

3度訪問していますが、今年もまた出かける予定です。切り盛りしている御夫婦の温かで息のあった活動ぶりは、それだけで、ゆったりとした心豊かな時間が流れていきます。

たどり着く日

■20260217(火曜日:晴れ) ( D 174 )

2025年4月28日に訪れた熊本県山都町
「道の駅・通潤橋」です。阿蘇の豊かな恵みです。

■今朝は雨です。そして静かな朝です。昨日は終日穏やかな春のような一日でしたが、今日もこれから青空が戻ってくるようです。自分の感じとしては、寒くて寒くて震え上がった、という日が今年は無かったようにも思うのですが、ただ忘れているだけかも知れません。

年が明けてあっという間に節分、そして立春。毎日が瞬く間に過ぎ去っていきます。私に残された健康寿命の日数は、統計的には今日で174日です。日本人男性の平均健康寿命が72歳ですから、計算すればこの数字になるわけです。

平均寿命は、まだもう少しありますが、他者の力を借りずに自分の力で日常を送ることができるのは、たったこれだけになってきています。自分にできることは何かと考えれば、限られてはいるものの、回答は明確です。暴飲暴食はしないこと。ケガをしないこと。そして、筋トレに励むこと。筋力を維持することで、自力で生活する期間が長くなります。

考えてみると、50代は毎日1万歩。60代は毎月 100 km を走り、70代の今は筋トレに勤しんでいます。それぞれの10年間が、今の自分を支えてくれているとすれば、もし80歳に無事にたどり着くことができれば、それはこれからの毎日の賜物に違いありません。

そう考えるより他に、道はなさそうです。

クマ牧場

■20260216(月曜日:晴れ) ( D 175 )

2015年9月に訪れたクラブメッド北海道サホロです。
家族でスキーに何度も出掛けました。

■冬以外にサホロを訪れたのは、この時限りです。緑いっぱいの芝生ですが、冬は雪で真っ白です。正面が食堂なのですが、食堂前の、この広場でスキーを履いてゲレンデに向かいます。いま思い返すと、懐かしさで一杯です。

スキーのゲレンデは、夏の間はクマ牧場として活用されていました。クマが何頭も放し飼いになっていたのです。今はどうしているのでしょうか。恐ろしくて訪れる人も少ない気もしますが、当時はそんな事は思いもしませんでした。クマは可愛い、ぐらいにしか思っていなかったのです。

クマによる被害を考慮してマラソン大会が中止になるなんて、当時は想像もできませんでした。万が一のことを考慮して、と言い出すと、北海道では永遠にマラソン大会は再開できそうにありません。札幌市内をぐるぐる回るしか、コースを設定できそうにないからです。

10年の年月で大きく変わったことの一つかもしれません。

梅の花

■20260215(日曜日:晴れ) ( D 176 )

ご近所さんの梅の木です。
街が次第に桃色に変化してきています。

■今日は、新沼津カントリークラブ如月杯Bクラス月例です。競技委員として運営のお手伝いをしました。11組44名の参加がありました。終日穏やかな天候で、1週間前の積雪が嘘のようです。

コース内の河津桜は、もう峠を越して葉桜になっています。山を降りてみると、街は次第に桃色が優勢になってきて、心もウキウキしてきます。まだまだ三寒四温ですが、一歩一歩春が近づいてきています。

■早くも2月の半ばとなりました。3月からは、いよいよマラソン大会への参加が始まります。3月は8日と29日の2回参加予定です。小田原と湯河原です。

昨年も参加しましたが、天候にも恵まれて良い思い出になっています。今年は小田原の大会も無理をせずにハーフでなく、10キロ走にしました。何とか無事に完走して戻ることだけを目標にしています。

クマのため大会中止

■20260214(土曜日:晴れ) ( D 177 )

2015年2月15日に完走した伊豆マラソンでの様子です。
伊豆大仁付近から見た富士山が綺麗です。

■11年前に参加した伊豆マラソンの写真を見つけました。2014年に初めて参加し、翌年も参加しました。2016年も申し込んであったのですが、大雨の天候のため出場しませんでした。この年に不幸な事件が起きて、それ以降二度と大会が開催されることはありませんでした。

噂ではこの年、体調を崩したランナーが続出したにも関わらず、その対応が充分でなかったことが廃止に追い込まれた理由だ、と言われていますが正確なことは分かりません。

「修善寺から三島まで交通量の多い道路(国道136号線など)を使用するため、大規模な交通規制が必要であり、一般車両への影響が大きかったことが挙げられます」という指摘があります。確かに、そのとおりです。交通規制に当たってしまい、ブチ切れている運転手の怒りの様子を、ちょうど道路を横断する際に、私も見たことがありました。

マラソン大会を運営するのは、だんだん困難になっているようです。

■昨日は、まさにその危惧が現実のものになりました。6月の第一日曜日に毎年参加していた千歳JAL国際マラソンが、今年は開催されないことが1月早々に発表されていることに、昨日気付いたのです。

その理由は何と、コースの 90 % が熊の生息区域に当たり、昨今の熊の出没状況を考えると、対応が間に合わないというのです。昨年には、コースよりも市街地近郊で、熊と車の衝突事故も起きたそうです。

新年早々に決断したのは、飛行機の予約などが開始されることに配慮したようです。

北海道千歳市で毎年 6 月に開催される国際マラソン大会について、実行委員会は安全確保を理由に、2026 年の開催中止を決めました。

「千歳 JAL 国際マラソン」は、千歳市の支笏湖国有林周辺で毎年 6 月に開催されています。 実行委員会によりますと、クマの目撃情報などからコースのおよそ 9 割がクマの生息域と考えられるということです。

また、2025 年、大会直後には周辺でクマと車が衝突する事故も発生していて、安全確保のため、2026 年の開催中止を決めたということです。

実行委員会は今後コース周辺を調査し、専門家の助言を踏まえて対策を講じた上で、2027 年 6 月の再開を目指しています。



何と何と、今年最大の自分にとってのチャレンジと心に決めていた大会が中止となって、本当にがっかりしました。今年参加すれば、ちょうど10回目の参加なのです。自分にとっては記念すべき大会になるはずでした。

致し方ありません。来年は対策を講じて開催する予定だ、という大会開催委員会の言葉を信じるしかありません。別の大会を探して、また北海道に走りに出かける予定です。

まさか熊のために、マラソン大会が中止に追い込まれるとは、思いもしませんでした。そこまで心配すると、北海道ではマラソン大会を開催するのは、とても難しくなるのではないかと危惧されます。

支笏湖

■20260213(金曜日:晴れ) ( D 178 )

2022年2月13日に訪れた北海道・支笏湖畔の様子です。

■久しぶりの青空です。今週は雪に続いて雨という天候で、それまで毎日青空ばかりでしたが、ずいぶんと久しぶりに感じます。予報では今日は暖かくなりそうですので、心もウキウキしてきます。とは言っても、私は一日中籠の鳥ですので、あまり恩恵を受けることはなさそうです。

■支笏湖は、かつては馴染みの場所でした。千歳JAL国際マラソンマラソンの後には、この湖畔のホテルで宿泊することが多かったのです。この写真を撮った時は、大雪のために石勝線が不通となり、スキーをするためにサホロへ行くことができず、急遽旅先を変更しました。札幌、小樽、そして支笏湖です。

支笏湖では氷瀑祭りが開催されていて、初めて見学することができました。支笏湖は、かのベストセラー小説「無影灯」の舞台としても有名です。4年前は豪雪のために予定を変更せざるを得なかったのですが、考えてみれば、こうして冬の支笏湖を訪れることができたと思えば、災い転じて福となす、とも言えます。

■今年も6月第一日曜日開催の千歳JAL国際マラソンに参加予定ですが、その後は白老町の虎杖浜へ出かける予定ですので、支笏湖には縁がなさそうです。

今年は何回、北海道へ出掛けることができるか。夫婦とも北海道大好き人間ですので、本当に楽しみです。

自立

■20260212(木曜日:曇) ( D 179 )

2022年2月11日に訪れた小樽市街です。
氷柱(ツララ)が立派で驚きました。

■昨日は久しぶりの雨でした。気温はそれほど下がりませんでしたので、氷雨というわけでもなく、休日の一日を過ごしました。午前中は書類を書き上げ、午後からはフィットネスクラブで筋トレと有酸素運動を行い、黄金の組み合わせを完遂しました。

知り合いになって話すようになった仲間と、帰りがけに言葉を交わしました。40代でしょうか、だいぶ長く筋トレに彼は取り組んでいるようです。チェストプレスは 70 kg を上げるそうですが、体重は 60 kg とのことで、自体重以上の重さを上げているわけです。

チェストプレスの解説ビデオを見ると、まず語られるのが、「目標は自分の体重分を上げるようになりましょう」と、あります。私の場合は、体重が 58 kg で現在可能なバーベルの重さは、25 kg ですから目標には、全然足りません。情けないのですが、これが現実です。

それでも少しずつ力が付いてきているのは、自分でも分かるほどになりましたので、悲嘆はしていません。むしろ、希望を持つことができるところまで来ました。そこまで辿り着けば、しめたものです。

■さて、いつもの知恵袋「田中宇の国際ニュース解説」です。高市総理の大勝利に終わりましたが、選挙結果について解説しています。

田中宇の国際ニュース解説 無料版 2026年2月11日

★日本が高市化した意味

この内容を信じるかどうかは、読む人次第ですが、私はいつものごとく、田中さんの指摘は的を得ている、と感じます。

高市総理が台湾有事発言をした際の中国の発言、反応は結果として、高市人気を後押ししたのですが、どう見ても計算ずくとしか思えません。中国は高市首相に勝って欲しかったのです。その方が都合が良いからです。

日本のマスコミの発言の中には、高市総理が勝利したことに中国は失望した、ざまあみろ的な発言が散見されますが、あまりに愚かな内容で笑うしかありません。

さて、これから日本は、どの方向へ向かうのか。自立するとは、どういうことなのか。なにしろ戦後 80 年間、自立したことが無かったのですから、検討もつかないというのが正直なところです。

何にしても、経験したことのない状況に、日本人は巧みに対応するしかありません。

人生50年時代

■20260211(水曜日:雨) 建国記念の日 ( D 180 )

2020年2月に出掛けたさっぽろ雪まつりの様子です。
たくさんの出店が並んでいました。

■今日は久しぶりのまとまった雨です。太平洋側では、あまりの少雨のために、ダムの貯水量が激減し取水制限が行われています。午前中いっぱいは降り続くようですから、恵みの雨になってくれると良いのですが。

■6年前の写真を見ながら、当時のことを思い出していました。サホロでスキーを楽しんだ後に、電車で戻り新札幌駅前に宿を取り、雪まつりを見に出かけたのです。

ある区画では、鍋の素を販売している会社がスポンサーとなって、鍋料理を無料で提供していました。お椀一杯いただきました。たまたま、東京から仲間と一緒に来ていた大学生の皆さんと話すことができました。

まさに青春真っ盛りの頃です。男女揃って楽しそうに話をしていましたが、もう皆さん社会人になっているはずです。この6年の歳月は、あの若者たちの毎日を大きく変えたに違いありません。私にとっても楽しい思い出です。

■今朝のNHKの朝ドラを見ながら、意外なことに驚きました。小泉八雲といえば松江と反射的に連想してしまうのですが、14年5ヶ月のうち、実はたったの1年半しか松江には住んでいません。この事実は、松江の小泉八雲記念館で知りました。

しかし松江を離れた理由が、冬の間の寒さに耐えきれなかったから、という事を今朝のドラマで初めて知りました。おそらく事実なのでしょう。松江には私も何度か行き、小泉八雲記念館も見学しましたが、寒さに耐えきれず松江を離れた、という記載は目にしませんでした。

当時の日本では、蒸し暑い夏に耐えられるように、風通しの良い木造住宅でしょうから、冬の寒さは現在では考えられない程の厳しさだったと思われます。

しかも調べてみると、彼は生まれてから日本に来るまで、寒さ厳しい地に住んだことが無さそうなのです。

以下は、QwenChatからの引用ですが、

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、1890年4月に日本に来るまで、以下のような地域で暮らしていました:

1. ギリシャ(出生)

  • 1850年6月27日、ギリシャ西部のイオニア諸島・レフカダ島(レフカス島)で生まれる。父親はアイルランド系イギリス人軍医、母親はギリシャ人。[[29]]

2. アイルランド(幼少期〜思春期)

  • 2歳の頃(1852年)、アイルランドのダブリンに移り、大叔母に育てられる。[[32]]
  • 両親から事実上見捨てられ、アイルランドで孤独な少年時代を過ごす。[[45]]

3. イギリス・フランス(教育期)

  • イギリスとフランスでカトリックの教育を受ける。[[27]]
  • 16歳の頃、遊戯中に左目を失明するという不幸な出来事も経験する。[[32]]

4. アメリカ合衆国(青年期〜壮年期)

  • 1869年(19歳)、経済的困窮を理由にアメリカへ渡航。[[36]]
  • シンシナティ:約8年間(1869〜1877年)を過ごし、新聞記者として赤貧から這い上がる。[[39]]
  • ニューオーリンズ:1877年から約10年間(1877〜1887年)、ルイジアナ州ニューオーリンズで新聞記者・編集者として活躍。クレオール文化に深く触れ、『クレオール料理の本』などを執筆。[[43]]

5. 西インド諸島・マルティニーク(短期滞在)

  • 1887〜1889年、フランス領マルティニーク島に約2年間滞在。この経験をもとに『マルティニークの二夏』(Two Years in the French West Indies)を執筆。[[47]]

日本行き

  • 1889年、ハーパーズ・マガジンの依頼で日本取材の旅に出発し、1890年4月に横浜に到着。以後、日本で生涯を終えるまで暮らす。[[41]]

ハーンは「西へ西へ」と移動を続け、一度も故郷に戻ることなく、40歳でようやく「心の故郷」となる日本にたどり着きました。[[31]]

以上の記録から見ると、フランスで厳しい寒さに出くわした可能性はありそうですが、あとは比較的暖かな地域のようです。それが日本に来て、最初の冬が松江となると、辛かったことは想像できます。暖房器具も不十分です。重ね着をしても限界があります。

日本での引っ越しの様子を調べると、以下のとおりです。

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、1890年(明治23年)4月に来日し、1904年9月に亡くなるまで約14年5ヶ月日本に滞在しました。地域別の滞在期間は以下の通りです:

滞在地域と期間

  1. 島根県松江市:1890年4月〜1891年10月(約1年半)
  • 来日直後、松江藩士の武家屋敷に住み、枯山水の庭を愛でるなど日本的生活を送りました。[[6]]
  • 1891年1月に松江の士族の娘・小泉セツと結婚し、同年6月に別の武家屋敷に転居、約5ヶ月を過ごしました。[[14]]
  1. 熊本県熊本市:1891年11月〜1894年10月(約3年)
  • 第五高等学校(現・熊本大学)の英語教師として赴任し、最初の1年は手取本町の家に居住しました。[[11]]
  • 長男が誕生するなど、家族生活を送りました。[[12]]
  1. 兵庫県神戸市:1894年11月〜1896年8月(約2年)
  • 神戸クロニクルなどの英語新聞で記者業と著述活動に従事しました。[[9]]
  1. 東京都:1896年8月〜1904年9月(約8年)
  • 1896年に日本に帰化し、「小泉八雲」という日本名を正式に採用しました。[[7]]
  • 東京帝国大学で文学の教授を務め、『怪談』などの代表作を執筆し、1904年9月に東京で亡くなりました。[[15]]

ハーンは日本各地で異なる生活を送りながら、日本の文化・風俗を深く理解し、『知られぬ日本の面影』『怪談』などを通じて世界に紹介する重要な役割を果たしました。

静岡県民にしてみると、ここで、あれっと思うはずです。焼津に「小泉八雲記念館」が、あるではないかと。と気付いて調べると、焼津は夏の避暑地だったことが分かります。

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、焼津に連続して何年も住んでいたわけではありません。焼津は彼にとって避暑地・バカンス地であり、以下のような短期滞在でした:

焼津滞在の実態

  • 初めて訪れたのは1897年(明治30年)8月4日で、妻セツや子どもたちを伴い、焼津の旅館「秋月楼」に約1週間滞在しました。[[3]]
  • その後、1897年から1904年(没年)までの間に計6回、夏の避暑として焼津を訪れました。[[10]]
  • 毎回の滞在期間は数週間〜2〜3ヶ月程度の短期間で、本拠地はあくまで東京(1896年8月〜1904年9月)でした。[[20]]
  • 焼津では魚屋・山口乙吉の家を借りて夏を過ごし、駿河湾の荒々しい海での水泳を楽しみました。[[19]]

補足

  • 1968年(昭和43年)9月16日に焼津の家は解体され、現在は愛知県犬山市の「博物館明治村」に移築・保存されています。[[4]]
  • 焼津市には「焼津小泉八雲記念館」があり、彼の焼津での足跡や作品を紹介しています。[[11]]

つまり、焼津に「何年間住んでいたか」という問いに対しては、「長期滞在はなく、6回の短期避暑滞在」が正確な答えです。彼の日本での主な居住地は松江(約1年半)、熊本(約3年)、神戸(約2年)、東京(約8年)でした。

■さて最後に思い出すのが、熊本、東京で同じように英語あるいは英文学を教えた日本人がいました。そうです夏目漱石です。

夏目漱石は、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の後任として、1903年(明治36年)4月に東京帝国大学文科大学英文科の講師に就任しました。ただし、正確には「教授」ではなく「講師」としての就任です。

詳細な経緯

  • 小泉八雲は1896年8月から東京帝国大学文科大学の英文学講師として勤務していましたが、1903年1月15日に学長・井上哲次郎名で解雇通知を受け、同年3月31日に正式に退職しました。[[47]]
  • 解雇の理由は、帰化していたにもかかわらず「お雇い外国人」並みの高給を受けていたことや、講師の身分でありながら長期休暇を取得していたことなどが挙げられています。[[50]]
  • その後任として、1903年1月にイギリス留学から帰国したばかりの夏目漱石が、同年4月に第一高等学校嘱託と東京帝国大学英文科講師に同時に就任しました。[[37]]
  • 当時の学生からは、情緒豊かで人気の高かった小泉八雲の講義と対照的に、漱石の理論的・知識詰め込み型の講義は不評だったという記録もあります。[[14]]

補足

  • なお、熊本の第五高等学校でも、小泉八雲の後任として夏目漱石が赴任しています(1896年4月)。[[65]]
  • 漱石は1907年(明治40年)に東京帝国大学を辞職し、朝日新聞社の専属作家となって以降は作家業に専念しました。[[37]]

したがって、正確には「小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の後任として講師に就任」が事実です。漱石は東京帝国大学で「教授」には昇進していません。

なかなかに興味深い偶然です。共通するのは、どちらも還暦を迎えることができなかったという事実です。人生50年の時代でした。

歴史的役割

■20260210(火曜日:晴れ) ( D 181 )

2020 年 2 月 10 日に訪れた北海道サホロスキー場です。

■先日ゴルフでご一緒した友人の坂口さんは、お孫さんと一緒に札幌のホテルに宿泊し、市内にあるスキー場からの無料送迎バスを利用して、数日の滞在期間の間に、数カ所でスキーを楽しんでいたそうです。昔は、そんなことも手軽にできたそうですが、今はどうなのでしょうか。

パウダースキーは、やっぱり最高ですね、というのが二人の一致点でした。青空のもとパウダースノーのゲレンデを滑降する爽快さは、例えようもないほどのものです。それが忘れられなくて、毎年出掛けていたのですが、寄る年波には勝てない、というところでしょうか。

■さて総選挙も終わり、高市早苗総裁の自民党が歴史的勝利を得ました。自民党が勝ったというより中道が負けたのだ、という指摘は正しそうです。思い返せば、民主党代表選挙で野田さんが小沢さんに勝利し、総理大臣になって自爆解散を断行したのが、歴史の転換点でした。

小沢さんが総理大臣になっていたら、もう少し民主党政権が続き、今とは異なる政治状況になっていたはずです。自爆解散を仕掛けて政治を逆走させた野田さんが、またしても自民党に歴史的勝利をもたらしたのは、何とも皮肉な巡り合わせですが、これが野田さんの政治的な役割だった、と歴史に刻まれるでしょう。

どうやら、これからの日本の立ち位置は、田中宇さんが予言した通り、アメリカにけしかけられて中国と対峙する、噛ませ犬の役割を担いそうです。「勝ち目がないのに競争に参加させられ、結果として相手の優位性を際立たせる役回りを指します。」と定義されている存在です。

経済的に勝ち目のない中国と戦うふりだけする監視役でしょうか。科学技術と技術革新で国を発展させていくのだ、という強い意志を持って、国を上げて邁進している相手と戦うには、今のままでは力不足といったところです。

さて、高市総理の采配やいかに。日本の未来がかかっています。

みかんの花咲く丘

■20260209(月曜日:晴れ) ( D 182 )

我が家のお隣さんの庭に、たわわに実るみかんの木です。

■昨日は沼津でも、めったにない程の雪が降りました。東名高速道路も新東名高速道路も交通止となり大混乱でした。一夜明けて、窓の外は一面青空です。多分もう二度とできないだろうの雪の中でのゴルフも、存分に楽しむことができました。

そして何より、昨日は衆議院選挙が行われ、自民党の圧勝で終わりました。「第51回衆議院選挙が行われ、自民党が単独で3分の2を超える316議席を獲得しました。一方、野党第一党の中道改革連合は、公示前から120議席近く減らしました。」と、報道されています。

Samejima Timesで解説されていたように、高市さんが勝ったというより、中道改革連合が負けたのだ、という指摘は正しそうです。野党があまりに不人気で選択肢がなかった、というところです。

高市総理は、まだ何も具体的な仕事をほとんどしていません。まさに、これからの活躍を期待してのご祝儀相場ともいえます。前総理の石破さんが、あまりに不人気で、対照的に期待感が高まったともいえます。

しかし、あまりに一方的に振れるのは、郵政選挙の歴史でも分かる通り、国民にとってもマイナス面のほうが大きいのです。はたして、これからどのような舵取りをしていくのか。見守るしかありません。

■さて、今日の写真はたわわに実るみかんの木です。Googleに判断してもらうと、「画像は、たわわに実ったみかんの木と、その背景にある住宅街の風景を捉えています。静岡県は愛媛県や和歌山県と並ぶみかんの主要産地の一つです。静岡県は、降水量が少なく日射量が多いなど、みかん栽培に適した環境に恵まれています。特に普通温州みかんの収穫量では、静岡県が全国1位を誇ります。みかん狩りは通常10月から12月の間楽しめ、冬場(12月から1月)が旬とされています。」と答えてくれます。

窓からは雪をかぶった愛鷹山が見えますが、その斜面のあちらこちらにもみかんの木が植えられています。ただし、ほとんどは放置されたままで、収穫の対象になっていません。

みかんの花といえば、「童謡「みかんの花咲く丘」です。以前、宇佐美から亀石峠へ向かう静岡県道19号線沿いにある、1983年に建立された歌碑を見に行きました。

童謡「みかんの花咲く丘」(※正式タイトルは「の」が1つで「みかんの花咲く丘」)の舞台は、静岡県伊東市宇佐美(うさみ)地区です。

詳細情報

  • 作詞は加藤省吾、作曲は海沼実によるもので、1946年(昭和21年)8月24日に作詞されました。
  • 歌詞に登場する「はるかに見える青い海」は、宇佐美の丘から望む相模湾の景色をモデルとしています。
  • 宇佐美から亀石峠へ向かう静岡県道19号線沿いには、1983年に建立された歌碑があり、みかん畑と海が一望できる風光明媚な場所です。
  • この曲は、終戦直後の1946年にNHKラジオと伊東市の小学校を結ぶ二元放送で初めて披露され、戦後の名曲として親しまれています。

宇佐美地区は現在もみかん栽培が盛んで、歌碑周辺には多くの観光みかん園があり、歌詞の世界を実際に体感できる場所となっています。

※補足:タイトルは一般的に「みかんの花咲く丘」と表記され、「ミカンの花の咲く丘」という表記は誤記です。

何度聞いても心温まる曲です。

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