■20260211(水曜日:雨) 建国記念の日 ( D 180 )
2020年2月に出掛けたさっぽろ雪まつりの様子です。
たくさんの出店が並んでいました。■今日は久しぶりのまとまった雨です。太平洋側では、あまりの少雨のために、ダムの貯水量が激減し取水制限が行われています。午前中いっぱいは降り続くようですから、恵みの雨になってくれると良いのですが。
■6年前の写真を見ながら、当時のことを思い出していました。サホロでスキーを楽しんだ後に、電車で戻り新札幌駅前に宿を取り、雪まつりを見に出かけたのです。
ある区画では、鍋の素を販売している会社がスポンサーとなって、鍋料理を無料で提供していました。お椀一杯いただきました。たまたま、東京から仲間と一緒に来ていた大学生の皆さんと話すことができました。
まさに青春真っ盛りの頃です。男女揃って楽しそうに話をしていましたが、もう皆さん社会人になっているはずです。この6年の歳月は、あの若者たちの毎日を大きく変えたに違いありません。私にとっても楽しい思い出です。
■今朝のNHKの朝ドラを見ながら、意外なことに驚きました。小泉八雲といえば松江と反射的に連想してしまうのですが、14年5ヶ月のうち、実はたったの1年半しか松江には住んでいません。この事実は、松江の小泉八雲記念館で知りました。
しかし松江を離れた理由が、冬の間の寒さに耐えきれなかったから、という事を今朝のドラマで初めて知りました。おそらく事実なのでしょう。松江には私も何度か行き、小泉八雲記念館も見学しましたが、寒さに耐えきれず松江を離れた、という記載は目にしませんでした。
当時の日本では、蒸し暑い夏に耐えられるように、風通しの良い木造住宅でしょうから、冬の寒さは現在では考えられない程の厳しさだったと思われます。
しかも調べてみると、彼は生まれてから日本に来るまで、寒さ厳しい地に住んだことが無さそうなのです。
以下は、QwenChatからの引用ですが、
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、1890年4月に日本に来るまで、以下のような地域で暮らしていました:
1. ギリシャ(出生)
- 1850年6月27日、ギリシャ西部のイオニア諸島・レフカダ島(レフカス島)で生まれる。父親はアイルランド系イギリス人軍医、母親はギリシャ人。[[29]]
2. アイルランド(幼少期〜思春期)
- 2歳の頃(1852年)、アイルランドのダブリンに移り、大叔母に育てられる。[[32]]
- 両親から事実上見捨てられ、アイルランドで孤独な少年時代を過ごす。[[45]]
3. イギリス・フランス(教育期)
- イギリスとフランスでカトリックの教育を受ける。[[27]]
- 16歳の頃、遊戯中に左目を失明するという不幸な出来事も経験する。[[32]]
4. アメリカ合衆国(青年期〜壮年期)
- 1869年(19歳)、経済的困窮を理由にアメリカへ渡航。[[36]]
- シンシナティ:約8年間(1869〜1877年)を過ごし、新聞記者として赤貧から這い上がる。[[39]]
- ニューオーリンズ:1877年から約10年間(1877〜1887年)、ルイジアナ州ニューオーリンズで新聞記者・編集者として活躍。クレオール文化に深く触れ、『クレオール料理の本』などを執筆。[[43]]
5. 西インド諸島・マルティニーク(短期滞在)
- 1887〜1889年、フランス領マルティニーク島に約2年間滞在。この経験をもとに『マルティニークの二夏』(Two Years in the French West Indies)を執筆。[[47]]
日本行き
- 1889年、ハーパーズ・マガジンの依頼で日本取材の旅に出発し、1890年4月に横浜に到着。以後、日本で生涯を終えるまで暮らす。[[41]]
ハーンは「西へ西へ」と移動を続け、一度も故郷に戻ることなく、40歳でようやく「心の故郷」となる日本にたどり着きました。[[31]]
以上の記録から見ると、フランスで厳しい寒さに出くわした可能性はありそうですが、あとは比較的暖かな地域のようです。それが日本に来て、最初の冬が松江となると、辛かったことは想像できます。暖房器具も不十分です。重ね着をしても限界があります。
日本での引っ越しの様子を調べると、以下のとおりです。
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、1890年(明治23年)4月に来日し、1904年9月に亡くなるまで約14年5ヶ月日本に滞在しました。地域別の滞在期間は以下の通りです:
滞在地域と期間
- 島根県松江市:1890年4月〜1891年10月(約1年半)
- 来日直後、松江藩士の武家屋敷に住み、枯山水の庭を愛でるなど日本的生活を送りました。[[6]]
- 1891年1月に松江の士族の娘・小泉セツと結婚し、同年6月に別の武家屋敷に転居、約5ヶ月を過ごしました。[[14]]
- 熊本県熊本市:1891年11月〜1894年10月(約3年)
- 第五高等学校(現・熊本大学)の英語教師として赴任し、最初の1年は手取本町の家に居住しました。[[11]]
- 長男が誕生するなど、家族生活を送りました。[[12]]
- 兵庫県神戸市:1894年11月〜1896年8月(約2年)
- 神戸クロニクルなどの英語新聞で記者業と著述活動に従事しました。[[9]]
- 東京都:1896年8月〜1904年9月(約8年)
- 1896年に日本に帰化し、「小泉八雲」という日本名を正式に採用しました。[[7]]
- 東京帝国大学で文学の教授を務め、『怪談』などの代表作を執筆し、1904年9月に東京で亡くなりました。[[15]]
ハーンは日本各地で異なる生活を送りながら、日本の文化・風俗を深く理解し、『知られぬ日本の面影』『怪談』などを通じて世界に紹介する重要な役割を果たしました。
静岡県民にしてみると、ここで、あれっと思うはずです。焼津に「小泉八雲記念館」が、あるではないかと。と気付いて調べると、焼津は夏の避暑地だったことが分かります。
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、焼津に連続して何年も住んでいたわけではありません。焼津は彼にとって避暑地・バカンス地であり、以下のような短期滞在でした:
焼津滞在の実態
- 初めて訪れたのは1897年(明治30年)8月4日で、妻セツや子どもたちを伴い、焼津の旅館「秋月楼」に約1週間滞在しました。[[3]]
- その後、1897年から1904年(没年)までの間に計6回、夏の避暑として焼津を訪れました。[[10]]
- 毎回の滞在期間は数週間〜2〜3ヶ月程度の短期間で、本拠地はあくまで東京(1896年8月〜1904年9月)でした。[[20]]
- 焼津では魚屋・山口乙吉の家を借りて夏を過ごし、駿河湾の荒々しい海での水泳を楽しみました。[[19]]
補足
- 1968年(昭和43年)9月16日に焼津の家は解体され、現在は愛知県犬山市の「博物館明治村」に移築・保存されています。[[4]]
- 焼津市には「焼津小泉八雲記念館」があり、彼の焼津での足跡や作品を紹介しています。[[11]]
つまり、焼津に「何年間住んでいたか」という問いに対しては、「長期滞在はなく、6回の短期避暑滞在」が正確な答えです。彼の日本での主な居住地は松江(約1年半)、熊本(約3年)、神戸(約2年)、東京(約8年)でした。
■さて最後に思い出すのが、熊本、東京で同じように英語あるいは英文学を教えた日本人がいました。そうです夏目漱石です。
夏目漱石は、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の後任として、1903年(明治36年)4月に東京帝国大学文科大学英文科の講師に就任しました。ただし、正確には「教授」ではなく「講師」としての就任です。
詳細な経緯
- 小泉八雲は1896年8月から東京帝国大学文科大学の英文学講師として勤務していましたが、1903年1月15日に学長・井上哲次郎名で解雇通知を受け、同年3月31日に正式に退職しました。[[47]]
- 解雇の理由は、帰化していたにもかかわらず「お雇い外国人」並みの高給を受けていたことや、講師の身分でありながら長期休暇を取得していたことなどが挙げられています。[[50]]
- その後任として、1903年1月にイギリス留学から帰国したばかりの夏目漱石が、同年4月に第一高等学校嘱託と東京帝国大学英文科講師に同時に就任しました。[[37]]
- 当時の学生からは、情緒豊かで人気の高かった小泉八雲の講義と対照的に、漱石の理論的・知識詰め込み型の講義は不評だったという記録もあります。[[14]]
補足
- なお、熊本の第五高等学校でも、小泉八雲の後任として夏目漱石が赴任しています(1896年4月)。[[65]]
- 漱石は1907年(明治40年)に東京帝国大学を辞職し、朝日新聞社の専属作家となって以降は作家業に専念しました。[[37]]
したがって、正確には「小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の後任として講師に就任」が事実です。漱石は東京帝国大学で「教授」には昇進していません。
なかなかに興味深い偶然です。共通するのは、どちらも還暦を迎えることができなかったという事実です。人生50年の時代でした。