2023 年 09 月 02 日 TakuとMasato とNonと一緒に訪れた熱海初島です。

カテゴリー: Page 26 of 28

元号

20171221(木曜日:晴れ)

平安神宮です。

■今朝はゆっくりと休みました。昨日はSunと二人で、ニューウェルサンピア沼津に出かけて、ゆっくりとお風呂に浸かりました。背中の傷も落ち着きました。いよいよ今日の午後から北海道へスキーの旅です。静岡空港から新千歳空港へ飛ぶ予定です。どうなりますことやら。

■今朝の東京新聞28面「こちら特報部」には、元号問題が特集されています。君主にちなむ暦法を使っているのは世界で、ほぼ日本だけだそうです。もちろんだから廃止すべきだ、という議論は成り立ちません。自分も1953年生まれというよりは、昭和28年生まれ、という方がピッタリときます。

 ただ公的な書類などでは利便性の問題から西暦に統一した方が面倒がない、という論点は、とても重要です。例えばカルテには元号を必ず記載すること、と指導されますが、となると、例えば明治生まれの最後の一人が亡くなるまでカルテから明治の元号を消すわけにはいかなくなります。そして新しい元号が決まれば、それも印刷しなければなりませんから、とても面倒です。

 最近はコンピューターで処理することが多いですから、西暦で統一されれば、ずっと面倒な処理が減ります。ところがお役所は、元号ありきが刷り込まれていますから、判で押したような対応に終始しがちです。

 ある人が、元号は表彰状に限っても良いのでは、という提案もありましたが、なるほど、と思いました。上手に楽しく元号を使えるように、お役所的対応は止めたほうが良い、と思います。平成天皇は、決してそのような民を苦しめるような事は望んでおられない、と確信しています。

 

新千歳空港内の居酒屋さんで、まずは乾杯です。

落合楼村上

20171106(月曜日:晴れ)

落合楼村上の裏を流れる川の様子です。清流です。

■先週末は米山記念館の役員会が、伊豆市湯ケ島にある「落合楼村上」という由緒ある旅館で行われました。19名が集まって、これからの記念館のあり方、そして創立50周年記念事業のあり方などについて話し合いました。

 ご覧いただくととお分かりの通り、少し懐かしい感じがする宿です。それもそのはず、こちらの宿は非常に歴史が古く、国の指定登録有形文化財にもなっている希少な宿でもあるのです。そして、皆さんもご存知であろう、田山花袋や島崎藤村なども訪れた名旅館でもあるのです。

 湯ヶ島温泉は、天城山中に源を発する狩野川の源流、本谷川と猫越川が合流する深い山あいにある温泉場で、一つの老舗旅館が「落合楼村上」として蘇っている。

 ここで、金山事業に携わっていた足立三敏氏が、事業の関係者や、天城を旅する人々のためにとの思いで、明治7年に「眠雲楼」と名づけた旅館を創業。ここを定宿としていた山岡鉄舟が二本の川が落ち合う様を見て「落合楼」と改名を提案、明治14年改名されて以来、落合楼として営業されてきたが、社会情勢、経済情勢の変化などにより経営が行き詰まり、閉館の運命にあったのを、現オーナーが引継ぎ、2ヶ月館休館し手を加え、平成14年11月「落合楼村上」として再出発。

 伝統の日本建築、贅を尽くした旅館建築が消滅することなく、再び輝きを取り戻したのである。

 と、ネットの解説にはあります。お食事をいただいた宴会場の床柱は、台湾から取り寄せた紫壇という木が使われています。ご主人のお話では、樹齢1,700年ものだそうで、想像もできないほど貴重なもののようです。

 国宝など上から数えて三番目に位置する国登録有形文化財ということで、管理の大変さを主も強調されていました。とにかく落ち着いた時間を過ごすことができます。そこだけ別の時間が流れているような気がします。

 こうした贅沢な空間を作ることは、今ではもうできないのでしょう。

■今朝は6時半に起きて、帰宅の途に着きました。残念ながら朝食は取ることができませんでした。8時からは用意できない、ということなのです。朝食にも工夫を凝らした献立て有名な落合楼ですので、大変残念だったのですが、通勤時間帯に掛かることを考えると、2時間はみておかないと診療開始に間に合いません。宮島さんに先導して貰う形で、宿を出ました。

 海岸線から沼津市内へ向かう道路で混雑に出くわしましたが、8時半には家に付くことができ朝食も取ることができました。無事に湯ヶ島での会合を終えることができました。

帰国

20171024(火曜日:晴れ)

早朝5時のハノイです。ホテル前のカフェに集まり、これから空港へ向かうところです。

■今朝は4時半に目覚ましをかけました。ハノイ・ノイバイ国際空港からの飛行機便に間に合うようにです。いよいよベトナム枯葉剤支援の旅も終わりです。先週の木曜日の診療終了後に慌ただしく羽田空港へ向かってから、あっという間の6日間でした。

 ホテルのロビーに5時に全員集合し、5時半までに精算をして6時前にはホテルをあとにしました。これでベトナムともお別れです。8時45分発のベトナム航空便 VN384 で羽田へと出発です。エアバスの機体はほぼ満員の状態でした。5時間ほどで羽田に無事に到着。15時39分発の京浜急行線で品川駅、そして新幹線で熱海駅まで行ったあとに、東海道線浜松行きに乗り換え、無事に17時27分原駅に到着しました。

■ベトナムでは朝3回走ることができました。いま統計を取ってみると、14.05km を積み重ね、これで総計 67.46km となりました。何とか目標に少し近づきました。

ハノイでの一日

20171023(金曜日:曇)

 

■今日はハノイ市内を散策しました。まずは旧市街でショッピングです。夕方からは有名な水中人形劇を観劇しました。そして最後の夕食はタインさん親子のご馳走をいただきました。

今朝も走りました。早朝のハノイの歩道を走ったのですが、とんだハプニングに襲われました。この写真は、かの有名なオペラ・ハウスです。

タインさんご夫妻が遊びに来られました。ホテル前の路上カフェにて。

ハノイ旧市街のお店にて買い物中です。絹製のスカーフは名物のようです。明るい店員さんとの駆け引きも買物の楽しみの一つです。

セント・ジョセフ教会前にて。多くの観光客が訪れていましたが、自分自身は内部に入ったことはありません。

かの有名な新聞社ニャン・ザンの本社前にて。

水中人形劇を楽しみました。ここでも多くの観光客で、ごった返していました。

最後の晩餐は、タインさん親子がごちそうしてくださいました。またの再会を誓いました。

 

■こうして、あっという間のベトナム支援の旅でした。大釜会長の具合が最後まで心配で、今年も無理をしない方が良いのでは、というのが仲間の偽わらざる心境だったのですが、驚異的な回復力で復帰されました。凄い精神力です。

 私も今回の旅の間に三回も早朝ランニングをしました。昨年と比較すると明らかに力が付いているのが自分でも分かりました。ただし、好事魔多しです。

 23日の早朝、ハノイの歩道を走っていて躓きました。暗い歩道で段差に気付きませんでした。あっという間に前のめりに転んでいました。口の中が何やらザラザラして不快でした。

 痛みは無かったものの、あちこちを擦りむいていることに気付きました。前歯が一部欠けています。走るのを止めました。歩いてホテルに戻り始めました。

 次第にあちこちが痛み始めてきました。道路を横断していてバイクと接触しました。文字道理、接触です。脚の一部を少し擦りむきました。

 ホテルに帰って、さっそく鏡を覗き込みました。どうやら歯の損傷は他者には分からない程度のものでした。幸運でした。本当に幸運でした。知らない街の暗い歩道を走るのは、絶対に止めようと決心しました。

■仲間で振り返りの時間を持ちましたが、支援活動を継続して行く事の難しさを改めて痛感しました。高齢化の問題が一番です。半数が70歳を超えています。

 以前の様に真夏に出かける事は、もう無いのですが、海外旅行をするだけでも、かなりの体力が必要です。膝の痛みは大敵です。

 車の乗り降り、ホテルやレストランの階段の昇降、そして訪問家庭への歩行は、思ったよりも体に負担を掛けます。若い時には何の苦もなく出来た事が、いちいち負担になって立ちはだかるのです。

 来年も訪問したいという気持ちは全員が持っているものの、実現できるかどうかは、来年になってみなければ分からない、というのが正直なところです。

 兎にも角にも健康に留意して来年に備えるしかありません。

 今年は、ベトナム語を少し勉強して出かけました。今まで、そうしなかったのが不思議なのですが、ユーチューブでの無料講座に取り組みました。

 と言っても、施設での自己紹介など、本当に微々たる一歩なのです。でも全ては一歩から始まるのです。

 経済的な問題もあります。今年の費用は一人あたり14万円でした。決して軽くはありません。それでも生活支援金を寄付で賄えたので大変助かりました。来年は難しそうです。

 何とか来年も皆で参加できるようにしたいものです。

ハノイへ移動

20171022(日曜日:晴れ)

 

■午前中三軒の家庭訪問をしました。そして午後からハノイへの移動です。

「「 家庭訪問 1 軒目 」」

 

20171022日一軒目 グエン・ディン・ビンさん。

 被害者はグエン・ディン・ビンさん。1982年生まれの35歳の女性。三人兄弟の二番目。兄と弟。二人に異常はない。足が変形し歩けない。話すこともできない。右腕は拘縮。身の回りのことは何もできない。終日木製のベッド上での生活。大人しくしており暴れることは無い。熟睡できないようだ。父は娘が枯葉剤の被害者だと知らされた時、仕方がないと思うしか無かった。月140万ドンの支援金あり。

 父は中部のダナンで従軍し枯葉剤に被爆。9年間従軍していた。父母で面倒をみている。父、母ともに66歳。父も枯葉剤被害者の認定あり。糖尿病と診断されている。父には170万ドンの支援金。

「「 家庭訪問 2 軒目 」」

10月22日二軒目の家庭訪問 チュン・バン・ティエンさん。

 被害者はチュン・バン・ティエンさん。1938年生まれ、79歳、男性。第一世代の被害者。会話はできるが体が動かないので、家族に身の回りの世話をしてもらっている。本人が南部で従軍していた時に枯葉剤に被爆。寒いと言って夏でも、写真の服で生活している。暖房を使うことが多い。食事の時は体を起こして食べることができる。今年に入り下肢の浮腫がひどくなり病院を受診したが原因不明とのこと。今年の2月から寝たきりの生活となる。沢山のサプリメントを服用。費用がかさむ。おむつを使用。枯葉剤被害者の認定を受け、7年前から支援金を受けている。年金と合わせて270万ドンの支援金あり。

 妻は77歳。末っ子が話に応じてくれた。三洋・パナソニックのベトナム法人で勤めていた。今はサムスンに勤務。5名の子どもたちのうち、二人は障害なし。三人には知的障害などがある。

 

「「 家庭訪問 3 軒目 」」

10月22日三軒目の訪問 グエン・タイン・カットさん。

 被害者はグエン・タイン・カットさん。85歳の男性。妻も85歳。タイニン省で7年間従軍していた時に被爆。今は難聴がひどく話が聞き取れない。寒気がひどくオーバーを着ている。年金など含めて月250万ドンの支援金あり。糖尿病と診断されている。

 五名の子どもたちがいる。末っ子の息子さんはハノイで仕事をしているが、右目が悪く肝臓に腫瘍がある、と言われている。未だ認定はない。

 昨日と今日ともに被害者家庭訪問時にそれぞれの地域の人民委員会の方達が大勢同行され、二度にわたり昼食をご馳走になった。本日は15名ほど人民委員会の方が同席。

 

「「 ニンビン省から来られたビンさん達との夕食 」」

 

■被害者家庭14軒の訪問を全て終え、高速道路を走ってハノイに帰ってきました。午後3時42分ホテルに到着。コニファー・ホテルです。昨年は別のホテルでしたが、エレベーターが無く階段を登らなければいけませんでした。重い荷物を持って登るのは大変でした。ということで、今年はエレベーターのあるコニファー・ホテルにしてもらいました。チエックインも終わって部屋に入り、シャワーを浴びて休憩しました。

 今年は昨日、今日の訪問に人民委員会のみなさんが同行してくださり、昼食を二度にわたってご馳走になりました。施設長さんのお力でしょうか。今まで、そんなことは無かった、とは大釜会長の弁です。言葉が通じれば施設長さんを始め、委員会のみなさんと色々お話をすることができたと思うのですが残念です。施設長さんは英語ができませんし、私はベトナム語がさっぱり分かりません。つまりは意思の疎通のしようがないのです。もどかしい思いで一杯でした。

ニンビン省旧559部隊の一員の皆さん。わざわざニンビン省から車で駆けつけてくれました。

 二人の仲間と一緒にタクシーで駆け付けてくれました。ビンさんとは三度目の対面です。体調も良いようで、前回お会いした時には皮疹が酷かった記憶があるのですが、すっかり治癒されたようです。

 ニンビン省の枯葉剤被害者協会会長に昨年就任され、各家庭を精力的には回られているようです。来年ぜひ来て下さい、と依頼されました。そうしたいのは山々なのですが、バクザン省とニンビン省はハノイから見ると南北正反対に位置しています。

 もう来年の事を考えなければなりません。仲間も高齢化して参加する事が困難になって来ています。若い世代に輪を広げたいのですが、経済的な負担の問題もあり、容易ではありません。

 難問山積です。

 

 

終日家庭訪問

20171021(金曜日:晴れ)

 

■今日は終日被害者の家庭を訪問しました。合計7件です。施設長さんのご希望で遠方の家庭も訪問しました。ホテルから施設までは15分ほど。そして施設から最初の家庭に辿り着くまでには1時間以上、山道を車で揺られました。こんなに山深い場所へ出かけたのは初めてでした。

「「 家庭訪問 1 軒目 」」

 

2017年10月21日 一軒目の訪問 レ・ティ・フエさん。

 被害者の家は施設からバスで一時間。バスを降りて10分ほど歩いて到着。被害者はレ・ティ・フエさん。1971年生まれ36歳。枯葉剤被害者第二世代。父が従軍中に枯葉剤に被爆。10年前に死去。4歳の息子が一人。自身は生まれつき肛門閉鎖があり手術を受けている。

 母は弟と一緒に5キロほど離れたところに住んでいる。子どもの父親は不明。フエさんに他の障害は無い。毎月85万ドンの支援金。あとは農業で自給自足の生活。自転車で街まで片道40分ほどの山道を買い物に行く。息子との二人暮らし。息子さんには障害はない。

 4キロ離れた幼稚園(?)に息子を自転車で毎日送っている。農作物を市場で売却し現金収入としている。子どもが病気になった時は、自転車で1時間掛けて病院まで連れていく。コメは自分たちの分として、8ヶ月分ほどが収穫できる。テレビは壊れて使用していない。水は井戸水。携帯電話はあり連絡は可能。

 

「「 家庭訪問 2 軒目 」」

 

2017年10月21日 二軒目の訪問 ファン・ティ・トゥイさん。

 

 被害者はファン・ティ・トゥイさん1978年生まれの39歳女性。父は南部で従軍し被爆。2014年に死去。母は弟と同居。本人は枯葉剤被害者第二世代。首が曲がって痛い。痛み止めを使用。3歳の娘がいる。娘さんには、今のところ異常はない。子供の父親は不明。

 毎月140万ドンの支援金。バクザン省職業訓練センターで学んだ刺繍の技術を活かして作品を作り、生活の補助にしている。一日1万ドン(50円ほど)の収入になる。いま製作中の作品は半年かけて完成予定。

「「 家庭訪問 3 軒目 」」

 

2017年10月21日 三軒目の訪問 ドゥ・チョン・トゥーさん。

 

 26歳男性。ドゥ・チョン・トゥーさん。全ての生活介助を母がしている。写真にある納屋のような場所で生活している。壁に頭をぶつける自傷行為がある。父は64歳。母は60歳。父親は農業をしている。隣は製材所兼木製品を作っている。支援金は毎月130万ドン。三人兄弟の末っ子。兄は消化器系に障害があるが結婚して子どもがいる。二番目の兄も被害者支援金80万ドンを受けている。一番上の兄は認定なし。

 

「「 家庭訪問 4 軒目 」」

 

10月21日 四軒目の訪問 グエン・ティ・フエンさん。

 被害者はグエン・ティ・フエンさん、34歳女性。父76歳。母は72歳。フエンさんは産まれた時から寝たきり。身の回りのことは全て父母が面倒をみている。座ることもできない。37歳の姉がいる。知的障害はあるが自立しており結婚して子どもが一人いる。今のところ障害は出ていない。

 父は南部に従軍中に被爆。体中にケガの傷跡あり。10年間従軍した父は毎月240万ドンの軍人恩給あり。娘には130万ドンの支援金。被爆した時には枯葉剤は植物にだけしか影響がない、と父は言われていた。気候によって頭痛がひどい時がある。湿疹は痒みがひどい。

 フェンさんの障害の原因については、生後いろいろ調べたが分からなかった。20年前に初めて政府から枯葉剤によると知らされた。枯葉剤による障害者が沢山いるので、娘が枯葉剤によると知っても仕方がない、と思った。

 

「「 家庭訪問 5 軒目 」」

2017年10月21日 五軒目の訪問 グエン・ティ・リェンさん。

 被害者はグエン・ティ・リェンさん。34歳の女性。母は60歳。77歳の父は枯葉剤の影響で体調が悪く、現在故郷へ帰っており、母が面倒をみている。妹が一人いる。障害は無く結婚して家を出ている。

 リェンさんは7−8歳頃から足の変形が始まり、徐々に歩けなくなってしまった。その後に病院で枯葉剤のためだと診断された。そう診断されても母は仕方がないと思うしか無かった。知的障害があり話は理解できない。今は食事も排泄も一人ではできない。母が全ての世話をしている。ベッドの下にバケツがあり、排泄後に処理している。毎月生理があったが医師に頼んで薬で止めてもらった。

 国からの支援は50万ドン程度とのこと。お米を買うだけで精一杯の生活。勤めていた道路補修会社の年金として母には、月に220万ドンの収入あり。母が仕事をしている頃は、父がフエンさんの面倒をみてくれていた。

 

「「 家庭訪問 6 軒目 」」

2017年10月21日 六軒目の訪問 ロン・デゥック・ニエンさん。

 被害者はロン・デゥック・ニエンさん。本人が中部に従軍していた時に枯葉剤に被爆した第一世代被害者。妻と二人暮らし。二人とも79歳。7人の子どもが産まれたが4人はすぐに亡くなった。一人は枯葉剤被害者の認定を受けた息子で25歳で死亡。枯葉剤のためと聞いても仕方がない、と母親は諦めるしか無かった。三人の娘は元気で結婚している。

 父には毎月170万ドンの支援金。母親には年金はない。80歳からは老齢年金が支給される予定。ペンライトで診た限りでは、母親の右目は白内障で、ほとんど見えないようだ。左目もかなり進んでいる。三人の娘から少し支援してもらっている。

 

「「 家庭訪問 7 軒目 」」

2017年10月21日 七軒目の訪問 グエン・デゥク・ティンさん。

 被害者はグエン・デゥク・ティンさん。40歳の男性。金属製のベッドに寝たきりの生活。足の指にひどい変形があり動けない。腕は少し動く。父が中部で従軍し枯葉剤に被爆。二年前から寝たきりとなった。それまでは日常生活ができた。

 ベッドの下に排水溝があり排泄物を流せるようになっている。元気な頃は108キロの体重があった。二年前から動けなくなり糖尿病になった。薬草を煮込んだ液体で体を洗っている。

 父は78歳。2歳の時の診断では、息子が話すことができないのは枯葉剤の影響ではない、と言われた。父子ともに1999年から枯葉剤被害者の認定を受けている。父は170万ドン。息子は140万ドンの支援金を受けている。

 2012年に母親は乳がんにて死去。父親とお手伝いさんの二人で息子の面倒をみている。戦争前に産まれた三人の娘は元気で学校の教師をしている。

 

■こうして、ようやく一日が終わりました。次から次へと被害者の家庭を訪問していると、正直気が滅入りました。私達の知らないところで、こうして無数の被害者が毎日を送っているのかと思うと、暗澹たる気持ちになります。いったん戦争が起これば、どこでもこうした被害者が生まれるのです。戦争を起こした人間たちは、賢明にも無傷で、のうのうと生き抜くのでしょうが、庶民はそうは行きません。人生を台無しにされてしまいます。そのことを忘れてはなりません。

活動開始

20171020(金曜日:晴れ)

「「 20171020  Day 2 午前中の施設での活動 」」

■ 今日は午前中は施設で活動し、午後からは被害者家庭の訪問です。一年ぶりのバクザン省職業訓練センターの訪問です。道路が新しく敷設され昨年と周囲の風景が変わっていました。

迎えて下さったKhong Thi Thuy さん。施設長さんの女医さんです。ご自身の長男も障害を負っていてアメリカ製の高価な医薬品が欠かせません。
 一年ぶりでしたが、つい昨日のことのように思い出されます。

Khong Thi Thuy さんのご挨拶。今年もThuyさんが訪問家庭を選んで手はずをして下さいました。

会を代表して私が挨拶をさせていただきました。ベトナム語で自己紹介しました。

今年も医薬品を寄贈していただいた「メディオ薬局」、医療用マスク、清拭用洗剤などなど寄付をいただいた鈴木和憲さん、成田みちよさんには、感謝するばかりです。施設と被害者家庭に寄贈することができました。

今年は子ども達と玉入れを楽しみました。新谷さん手製の遊具で楽しむことができました。

シャボン玉を作って楽しみました。みんな大喜びでした。

音楽療法です。リズムに合わせて体を動かすことで、子ども達は大喜びでした。

音楽療法です。リズムに合わせて体を動かすことで、子ども達は大喜びでした。

そして私は眼科検診です。今年は Spot Vision Screener を持参して子ども達の目の状態を客観的に調べました。暗くないと良い値が出ないので、診察室は何とサウナでした。治療の一環としてサウナを使用しているそうです。さすがに十分な暗室となりました。

 

「「 20171020  Day 2 午後からの被害者家庭訪問 4軒 」」

 

午前中の施設での活動を終え、昼食を取るため地元のお店に入りました。地元のサッカーチームのみなさんが一緒になりました。中学生のようです。

 

「「 家庭訪問 1 軒目 」」

一軒目の家庭は、ドン・バン・フンさん。

 被害者ドン・バン・フンさんは第二世代。父が従軍中にカンボジアに近い所で被爆。父は2010年に死亡。兄は父が従軍する前に生まれたので異常なし。最近結婚した被害者夫婦はともに41歳。母曰く、生まれて数カ月から頭が大きくなってきた。病院でも原因不明と言われた。現在は水頭症の状態。子どもを病院へ連れて行くのが一番大変だった。障害を持って生まれ大変だったが、いろいろな人が手伝いに来てくれて話を聞いてくれるので嬉しい。

一ヶ月120万ドン(6千円ほど)の被害者支援金。コメを作って生活しているが大して収入にならない。被害者の妻は知能障害があり手伝えない。豚を飼っているのは長男の家族。支援してもらっている。自分が死んだ後に誰が息子の面倒を見てくれるか心配だ。

 

「「 家庭訪問 2 軒目 」」

二軒目の家庭は、ドン・ビエット・ハイさん。

 被害者ドン・ビエット・ハイさんは1980年生まれ37歳。知能障害のために会話が理解できない。父は67歳。三人兄弟の真ん中。姉は結婚している。弟は農業をしている。二人とも特に異常は無い。毎月100万ドンの支援金。家族で農業をしている。食事、排泄など全て家族が介助。話すことはできない。

16歳までは歩けなかった。外出すると彷徨して帰ってこない。父はカンボジアの近くのビンディン省で1975年頃従軍し被爆。自分の従軍によって子ども達に障害が出たことを、とても苦しく思っている。いつも子ども達のことを心配している。戦争に行って戦ったことは後悔していない。私達と話ができたことを大変嬉しく思っている。

「「 家庭訪問 3 軒目 」」

三軒目の家庭は、グエン・バン・カンさん。

 障害者グエン・バン・カンさんは1972年生まれ45歳。別の離れ小屋で一人暮らし。放置していると徘徊してしまうので、普段はドアを締めて閉じ込めてある。母は74歳。父は31年前に死亡。三人兄弟の二番目。姉は結婚して普通に生活。三番目は生後間もなく死去。父は南部カンボジア近くで従軍、被爆。

カンさんは知恵遅れのため、食事のコントロールができない。徘徊してしまう。大きな声を出すが暴力を振るうことはない。排泄の始末ができないので世話が大変だ。

毎月140万ドンの支援金。収入は支援金のみの生活。人民委員会に増額を要請したが断られた。母親の年金は無い。娘さんから時々支援あり。鶏をもらった。カンさんも以前は薬を服用していたが、現在は効果がないので止めた。母親は農業をして米を作っている。

父親が死んで子育てが一番たいへんだった。祖父が手伝ってくれた。母の父もフランスとの戦争で死亡。夫はベトナム戦争で死去。夫の実家に現在住んでいる。

「「 家庭訪問 4 軒目 」」

四軒目の家庭は、グエン・ティ・ニンさん。

 枯葉剤被害者グエン・ティ・ニンさんは一人娘。19歳女性。時々暴れる。母の兄が現状を話をしてくれた。母は1963年生まれの54歳。ハノイで乳がんで治療中で体調は良くない。治療費が掛かり大変。同席しているのは93歳の祖母。ニンさんの父が枯葉剤被害者の第二世代。ニンさんは第三世代の被害者。祖父が従軍中に枯葉剤に被爆。父はガンで、すでに死去。

ニンさんは大声を挙げたり物を投げたり暴れたりする。食事は自分で可能。目を離すと徘徊する。現在は薬は使用していない。ニンさんの面倒は親戚が力を合わせて見ている。地域の老人会の会長をしている母の70歳の兄が一番面倒をみている。この叔父は四年間韓国で仕事をしていたので韓国語は話せる。

被害者協会の認定を受け毎月100万ドンの支援金あり。家族としての収入は支援金のみ。家族や近所に住む親戚、近所同士で助け合って生活している。お米なども周囲の人々に援助してもらっている。ボランティアの支援グループが時々支援に来てくれる。

93歳の祖母は、娘は乳がん、そして孫は枯葉剤被害による障害を持っていることに心を痛めている。

これで、ようやく今日の活動も終了です。同行してくれた人民委員会の皆さんの建物です。今回も地域の人民委員会の皆様には大変お世話になりました。17時少し前でしたが夕暮れです。ベトナム、バクザン省の夕暮れです。

 

■しばらくはベトナム料理の日々です。ルールーと呼ばれるパパイヤの漬物がとても美味しいのに驚きました。

なんとか 持って帰れる形で購入して、お土産にしたいと思いました。

旅立ち

20171019(木曜日:雨)

韓国の保養地、雨の海雲台です。シーズンには無数のパラソルが立ち並びます。

■今朝は雨。昨日は久しぶりに青空を見ることができましたが、それも一日で逆戻り。今日の予報では12月並みの寒さのようです。今朝も一応念のために5時に起きてみたのですが雨が降っているのを確認して、再度眠りにつきました。

 今日はいよいよベトナム枯葉剤支援の旅に出かける日。昨年も同じ時期に出かけましたが、この一年間本当にあっという間でした。昨年はロータリークラブの会長年度でしたので、木曜日の例会で会長挨拶をしてから羽田空港へ向かうことも考えたのですが、それでは飛行機に遅れる可能性が大きいので、宮島副会長に代理をお願いしました。

 いつものように快く宮島さんに引き受けていただき、本当に感謝したものです。今日の欠席の分は、すでに補填を済ませましたので、堂々と出かけることができます。

 予定で行けば今夜遅くにハノイ・ノイバイ国際空港に到着し、そのままバクザン省のホテルへ向かい投宿できるはずです。昨年は初めての施設、バクザン省職業訓練センターを訪問し活動を行いました。施設長のKhong Thi Thuy さんが迎えてくださいました。聡明で美しい私と同年配の女性医師です。息子さんが枯葉剤の被害者であり、施設と家庭で苦労を重ねておられました。

 施設での眼科検診に、今年は最新鋭の Spot Vision Screener という機器を持参し、施設の子どもたちの視機能検査を行う予定です。また被害者家庭訪問では、Khong Thi Thuy さんから遠方の家も訪問してほしい、という希望が昨年出されました。今年は、どんな家庭を訪問することになるか、不安と期待が入り混じっています。

■さて帰ってくる頃には日本の総選挙の結果も出ているはずです。これからの日本を占う大きな選挙です。野党の分裂で与党の圧勝という予想が出ています。おそらく歴史の大きな分水嶺となるでしょう。戦後日本が大きく変わる転換点です。

 いずれ矛盾が臨界点に達してアメリカの様に二大政党を離れた指導者が出現する可能性が大です。その時には没落した中間層が、あの時選挙に行って投票しておけば良かった、と後悔しているかもしれません。本当に驚くのは、多くの人は先のことを考えていない、ということです。いや考える余裕がない、という生活を送られている人も多いことは事実でしょう。

 しかし余裕がありながら、考えていない人がいかに多いことか。目先のことで頭が一杯なのです。もちろんマスコミの影響が大きいことが確かです。本当に視野が狭い。それには驚くばかりです。組織の中で陶酔してしまっている。オウム真理教でも、そうだったのでしょう。傍から見れば、なんでそんなことが分からないのだろうと思うのですが、組織の中にいると外が見えない。とんでもない行動を平気で取ってしまう。

 考えてみれば私達も他者を笑うことはできないかもしれません。結局は自分の視野の中で、ああでもないこうでもないと考えているだけかもしれないからです。

■とにかく無事に返ってくることが最優先です。

「「 20171019  Day 1  」」

■今日は仕事を終えて、すぐに車に駆け込み原駅に向かいました。Kumiちゃんに送ってもらいました。そして東海道線、東海道新幹線、そして京浜急行電鉄で羽田空港国際線ターミナル駅に到着しました。

 14時少し前に出発 L カウンター前に着きましたが、皆さんはバスが渋滞に巻き込まれ、まだ到着していませんでした。10分ほど待ってみなさんと合流発券のために列に加わりました。
 
 発券もスムーズに終わり、チェックも無事に終えて、143番搭乗口へ向かいました。小腹がすいていたので、途中みんなでうどんを食べました。

 16時45分定刻通りに羽田空港を離陸しました。順調に飛行し約5時間後の21時45分、現地時間19時45分にハノイ・ノイバイ国際空港に着陸しました。
 
 やはり5時間の旅は長く感じました。無事に到着し入国手続も順調に終わり、出口で待っていましたが、タインさん親子はなかなか現れません。大釜さんが電話をかけると、10分ほどで一年ぶりの再会となりました。

 バスに乗り込みバクザン省のホテルに一直線です。年々道路事情が改善していますので、かかる時間も短縮されています。今回は2時間はかかりませんでした。まずはホテルにチェエク・イン。荷物を確認して明日からの活動に備えました。

 それから明日からの活動が成功裏に終わることを祈って一杯やりました。

みんなでうどんを食べました。美味しいつゆでした。麺ももちもちでした。

ようやくハノイ・ノイバイ国際空港に到着しました。これからバクザン省のホテルに直行です。現地時間19時45分に到着です。ホテルまではバスで1時間半ほどです。

ようやくホテルに到着しました。一息ついてからビールを飲みに繰り出しました。

部屋に入り明日からの活動の準備です。支援物資の振り分けをしました。医薬品一式、ポカリスエット、山口さんが友人から送られた金属製の折り鶴、などなど。

さて明日の準備も終わりバスで繰り出しました。明日からの活動に備えて、まずは乾杯です。
モッ・ハイ・バー ヨー

■沼津では寒さに震えながら出発したのですが、こちらでは半袖一枚でも十分です。ホテルでは冷房をかけて眠りました。

帰国

20170919(火曜日:晴れ)

前夜宿泊したホテルの近くにある医大です。ホテルの一部はマンションになっていて関係者が居住しているようです。

■いよいよ今日で韓国での旅も終わりです。朝は6時に起きてホテルを出ました。7時前のバスで仁川国際空港へ向かうためです。昨夜泊まったのは、Nonちゃん御用達のホテル、Classic 500 という宿。ホテルとマン書を兼ねたような構造になっているようです。私たちは一部屋を三人で借りる形を取りました。一人7千円ほどです。

ソウルで宿泊したホテルです。日本で言うと、タワマンというやつでしょうか?

ホテル前の大通りを渡り、バス停で待つこと15分ほどでしょうか、無事にバスに乗ることができました。千ウォンです。50分ほどで空港に到着。帰国のための手続きに入りました。

仁川国際空港です。アジアのハブ空港として発展しています。

■こうして無事に日本に帰国しました。あっという間の三泊四日の旅でした。本当に楽しい旅でした。Nonちゃんガイドが良かったのかな?

(●^o^●) (●^o^●)

 また一緒に旅ができると良いですね。

 

安東市への旅

20170918(月曜日:晴れ)

河回村の様子です。

■今日は釜山市を離れソウルを目指す予定です。途中どうするかは未定でした。ユネスコの文化遺産になっている河回市へ行くことにしました。Wikipedia によれば、

河回村(ハフェマウル)は、大韓民国慶尚北道安東市にある集落。農村における両班の伝統的な生活様式を保存している「民俗村」であり、韓国の著名な観光地の一つである。「マウル」は朝鮮語の固有語で「村」を意味する言葉。 村全体が韓国の重要民俗文化財第122号に指定されているのをはじめ、多くの有形・無形文化財を擁する。河回村は2010年7月31日、慶州市の良洞村とともにユネスコの世界遺産に登録されている。

と、あります。

さっそくNonちゃんがネットで調べてくれて、交通機関を確認しました。ホテルからタクシーを拾ってバスターミナルまで向かいました。1時間弱でした。そこから高速バスで安東市までは2時間半ほど。高速バス網は、とても充実しているようです。

ホテルからタクシーで向かったバスターミナルです。ここで安東市行きの高速バスに乗りました。

8時半発の安東市行きの高速バスの切符です。日本円で1,600円ほどです。十分快適でした。

これが釜山から安東市へ向かう高速バスです。

 

■11時には無事に安東市のバスターミナルに到着しました。ここから河回村(ハフェマウル)へ、どのように行けばよいのか。バスターミナルで何人かの人に尋ねたのですが、要領を得ませんでした。Nonちゃんが訊いて回ってくれました。観光案内所が安東駅の近くに有ることが分かりました。そこでバスターミナルから再度タクシーを拾って安東駅へ向かいました。

 そして何とか駅に到着。歩いてすぐのところにある日本語の通じるという観光案内所に行きました。しかし残念ながら日本語は通じませんでした。でも英語が分かる係の方がいてくれましたので、何とか知りたいことを伝えることができました。

安東駅です。駅の字が、「驛」になっています。

 私達が行きたいのが、河回村(ハフェマウル)であり、ここからさらにバスに乗って行かなくてはならないことが分かりました。バスの出発までには、50分ほどの余裕が有ること。そしてNonちゃんが食べたい地元の料理を食べられる美味しい店が場所も分かりました。途中にバス停が有りますので、キャリーバッグを引きずって駅を後にしました。

駅から歩いて5分ほどでしょうか。道の真ん中でお店を開いていました。トッポギを買いました。韓流ドラマで、よく出てくる食べ物です。

Sunが目が合ったのが運の尽き。仲良しになった韓国のオバちゃんです。

買い求めた品をベンチで食べました。天気も良く、最高の昼食でした。

■さて時間になりバス停へと急ぎました。バスはもう一度先ほどのバスターミナルへ戻る形で目的地の世界遺産の村へと向かいました。

世界遺産の村に到着です。途中バスの上下動が酷くて驚きました。

世界遺産の文字が刻まれています。

さて村中を見て回ろうと思って歩き始めたのですが、さすがに徒歩ではきつそうだと気付き電動三輪車を借りるために戻りました。

これが、その電動三輪車です。私が運転しました。スクーターを運転したのは、30年以上前のことです。

あの崖の上から見る村の様子が最高のようです。

心懐かし農村の風景です。

■こうして世界遺産の村の見学も楽しく終え、バスでソウルへと向かいました。16時発の高速バスです。料金は 1,600  円ほどです。十分快適でした。3時間弱で到着です。

今夜のソウルでのホテルです。Nonの御用達のようです。

 さっそく夕食に出かけました。バスの長旅の連チャンでしたから、さすがに疲れました。ホテルから歩きました。Nonちゃんは、勝手知ったる道で、どんどん歩いていきますが、私とSunは付いていくだけで精一杯でした。

ここもNonの御用達の焼肉屋。ただし牛肉ではなくて豚肉でした。

まずは乾杯です。入れ代わり立ち代わり多くのお客さんが来店されていました。

Nonちゃんと美味しくいただきました。

■こうして長かった一日も終わりました。好天にも恵まれ最高の1日でした。みんなNonちゃんのおかげです。だてにお金は使っていないようです。

(●^o^●) (●^o^●)

 明日は、もう帰国の途につく日です。

 

 

Page 26 of 28

Powered by WordPress & Theme by Anders Norén