2023 年 09 月 02 日 TakuとMasato とNonと一緒に訪れた熱海初島です。

カテゴリー: 残日録 Page 144 of 153

記録の整理法

20171026(木曜日:晴れ)

初冠雪から三日後の富士山です。昨日の雨で一段と美しくなりました。

■今朝は日本晴です。富士山が雪を頂いて、とても綺麗です。やはり富士山には雪が似合います。富士山の初冠雪は23日でしたが、今朝は鮮明に我が家の玄関からも見ることができました。

 今朝も走りました。6.21km を積み重ねて、合計 78.90km となりました。あと21.09km です。しかし週末は、また台風の影響で悪天候の予報。朝走ることのできる日は、毎日でも走っておかないと間に合わなくなりそうです。

■ベトナム枯葉剤被害者支援の旅の様子をまとめています。5泊6日の旅行でしたが、その間の活動の様子をまとめることは、後々の写真展や発表の際に、とても重要ですので、記憶が鮮明なうちに整理する必要があります。今年は家庭訪問の際にパソコンを持ち込まずに、スマホの録音機能を有効活用しました。

 つまり録音機代わりに被害者家族との対談などの要約を録音し、写真にもメモとして家族や訪問何件目なのかなどをスマホの写真に記録しました。そうしておけば、あとで整理する際に内容の整合性が容易に取れるのです。

 下手をすると対談の内容が、どの家族のものだったか分からなくなりかねません。施設長さんがくれた訪問家庭の情報はベトナム語で書かれていますので、さっぱり分かりませんので、注意して記録しないと大変です。スマホの写真へのメモ添付と録音アプリの併用は、これからの大きな武器になりそうです。

広報活動

20171025(水曜日:雨)

ハノイで見た水上人形劇です。多くの外国人観光客が見に来ていました。観光バスが道路に並んでいました。入場料は500円ほど。一時間の公演です。

■さてまた日常の再開です。先週も木曜日に仕事が終わってから出かけたベトナム支援の旅も、昨日の帰国で一段落。支援の旅で集めた資料をもとに、写真展を開催し、日本の人々にも戦争の後遺症で未だに苦しんでいる人々がいるのだ、ということを知ってもらうことは、とても大切です。

 そうした広報活動は、実際の支援活動と同じぐらい大切なのですが、仲間にとっては、とても重い課題なのです。一市民でしか無い仲間にとって、どうしたら一人でも多くの方に知ってもらうことができるのか。頭を悩まし続けています。

 私はロータリークラブ関係や医師会関係でお話をすることもありました。これからも仲間ともに知恵を絞って広報活動に取り組む予定です。

■今朝も走りました。走り出した5時半頃には、本当にパラパラ程度だったのですが、6時前にはしっかりと降り始めました。走ったあとのストレッチも省いて家に入りました。

 5.22km を積み重ね、総計で 72.68km を記録しました。残すところ、あと27.31km です。

 

帰国

20171024(火曜日:晴れ)

早朝5時のハノイです。ホテル前のカフェに集まり、これから空港へ向かうところです。

■今朝は4時半に目覚ましをかけました。ハノイ・ノイバイ国際空港からの飛行機便に間に合うようにです。いよいよベトナム枯葉剤支援の旅も終わりです。先週の木曜日の診療終了後に慌ただしく羽田空港へ向かってから、あっという間の6日間でした。

 ホテルのロビーに5時に全員集合し、5時半までに精算をして6時前にはホテルをあとにしました。これでベトナムともお別れです。8時45分発のベトナム航空便 VN384 で羽田へと出発です。エアバスの機体はほぼ満員の状態でした。5時間ほどで羽田に無事に到着。15時39分発の京浜急行線で品川駅、そして新幹線で熱海駅まで行ったあとに、東海道線浜松行きに乗り換え、無事に17時27分原駅に到着しました。

■ベトナムでは朝3回走ることができました。いま統計を取ってみると、14.05km を積み重ね、これで総計 67.46km となりました。何とか目標に少し近づきました。

ハノイでの一日

20171023(金曜日:曇)

 

■今日はハノイ市内を散策しました。まずは旧市街でショッピングです。夕方からは有名な水中人形劇を観劇しました。そして最後の夕食はタインさん親子のご馳走をいただきました。

今朝も走りました。早朝のハノイの歩道を走ったのですが、とんだハプニングに襲われました。この写真は、かの有名なオペラ・ハウスです。

タインさんご夫妻が遊びに来られました。ホテル前の路上カフェにて。

ハノイ旧市街のお店にて買い物中です。絹製のスカーフは名物のようです。明るい店員さんとの駆け引きも買物の楽しみの一つです。

セント・ジョセフ教会前にて。多くの観光客が訪れていましたが、自分自身は内部に入ったことはありません。

かの有名な新聞社ニャン・ザンの本社前にて。

水中人形劇を楽しみました。ここでも多くの観光客で、ごった返していました。

最後の晩餐は、タインさん親子がごちそうしてくださいました。またの再会を誓いました。

 

■こうして、あっという間のベトナム支援の旅でした。大釜会長の具合が最後まで心配で、今年も無理をしない方が良いのでは、というのが仲間の偽わらざる心境だったのですが、驚異的な回復力で復帰されました。凄い精神力です。

 私も今回の旅の間に三回も早朝ランニングをしました。昨年と比較すると明らかに力が付いているのが自分でも分かりました。ただし、好事魔多しです。

 23日の早朝、ハノイの歩道を走っていて躓きました。暗い歩道で段差に気付きませんでした。あっという間に前のめりに転んでいました。口の中が何やらザラザラして不快でした。

 痛みは無かったものの、あちこちを擦りむいていることに気付きました。前歯が一部欠けています。走るのを止めました。歩いてホテルに戻り始めました。

 次第にあちこちが痛み始めてきました。道路を横断していてバイクと接触しました。文字道理、接触です。脚の一部を少し擦りむきました。

 ホテルに帰って、さっそく鏡を覗き込みました。どうやら歯の損傷は他者には分からない程度のものでした。幸運でした。本当に幸運でした。知らない街の暗い歩道を走るのは、絶対に止めようと決心しました。

■仲間で振り返りの時間を持ちましたが、支援活動を継続して行く事の難しさを改めて痛感しました。高齢化の問題が一番です。半数が70歳を超えています。

 以前の様に真夏に出かける事は、もう無いのですが、海外旅行をするだけでも、かなりの体力が必要です。膝の痛みは大敵です。

 車の乗り降り、ホテルやレストランの階段の昇降、そして訪問家庭への歩行は、思ったよりも体に負担を掛けます。若い時には何の苦もなく出来た事が、いちいち負担になって立ちはだかるのです。

 来年も訪問したいという気持ちは全員が持っているものの、実現できるかどうかは、来年になってみなければ分からない、というのが正直なところです。

 兎にも角にも健康に留意して来年に備えるしかありません。

 今年は、ベトナム語を少し勉強して出かけました。今まで、そうしなかったのが不思議なのですが、ユーチューブでの無料講座に取り組みました。

 と言っても、施設での自己紹介など、本当に微々たる一歩なのです。でも全ては一歩から始まるのです。

 経済的な問題もあります。今年の費用は一人あたり14万円でした。決して軽くはありません。それでも生活支援金を寄付で賄えたので大変助かりました。来年は難しそうです。

 何とか来年も皆で参加できるようにしたいものです。

ハノイへ移動

20171022(日曜日:晴れ)

 

■午前中三軒の家庭訪問をしました。そして午後からハノイへの移動です。

「「 家庭訪問 1 軒目 」」

 

20171022日一軒目 グエン・ディン・ビンさん。

 被害者はグエン・ディン・ビンさん。1982年生まれの35歳の女性。三人兄弟の二番目。兄と弟。二人に異常はない。足が変形し歩けない。話すこともできない。右腕は拘縮。身の回りのことは何もできない。終日木製のベッド上での生活。大人しくしており暴れることは無い。熟睡できないようだ。父は娘が枯葉剤の被害者だと知らされた時、仕方がないと思うしか無かった。月140万ドンの支援金あり。

 父は中部のダナンで従軍し枯葉剤に被爆。9年間従軍していた。父母で面倒をみている。父、母ともに66歳。父も枯葉剤被害者の認定あり。糖尿病と診断されている。父には170万ドンの支援金。

「「 家庭訪問 2 軒目 」」

10月22日二軒目の家庭訪問 チュン・バン・ティエンさん。

 被害者はチュン・バン・ティエンさん。1938年生まれ、79歳、男性。第一世代の被害者。会話はできるが体が動かないので、家族に身の回りの世話をしてもらっている。本人が南部で従軍していた時に枯葉剤に被爆。寒いと言って夏でも、写真の服で生活している。暖房を使うことが多い。食事の時は体を起こして食べることができる。今年に入り下肢の浮腫がひどくなり病院を受診したが原因不明とのこと。今年の2月から寝たきりの生活となる。沢山のサプリメントを服用。費用がかさむ。おむつを使用。枯葉剤被害者の認定を受け、7年前から支援金を受けている。年金と合わせて270万ドンの支援金あり。

 妻は77歳。末っ子が話に応じてくれた。三洋・パナソニックのベトナム法人で勤めていた。今はサムスンに勤務。5名の子どもたちのうち、二人は障害なし。三人には知的障害などがある。

 

「「 家庭訪問 3 軒目 」」

10月22日三軒目の訪問 グエン・タイン・カットさん。

 被害者はグエン・タイン・カットさん。85歳の男性。妻も85歳。タイニン省で7年間従軍していた時に被爆。今は難聴がひどく話が聞き取れない。寒気がひどくオーバーを着ている。年金など含めて月250万ドンの支援金あり。糖尿病と診断されている。

 五名の子どもたちがいる。末っ子の息子さんはハノイで仕事をしているが、右目が悪く肝臓に腫瘍がある、と言われている。未だ認定はない。

 昨日と今日ともに被害者家庭訪問時にそれぞれの地域の人民委員会の方達が大勢同行され、二度にわたり昼食をご馳走になった。本日は15名ほど人民委員会の方が同席。

 

「「 ニンビン省から来られたビンさん達との夕食 」」

 

■被害者家庭14軒の訪問を全て終え、高速道路を走ってハノイに帰ってきました。午後3時42分ホテルに到着。コニファー・ホテルです。昨年は別のホテルでしたが、エレベーターが無く階段を登らなければいけませんでした。重い荷物を持って登るのは大変でした。ということで、今年はエレベーターのあるコニファー・ホテルにしてもらいました。チエックインも終わって部屋に入り、シャワーを浴びて休憩しました。

 今年は昨日、今日の訪問に人民委員会のみなさんが同行してくださり、昼食を二度にわたってご馳走になりました。施設長さんのお力でしょうか。今まで、そんなことは無かった、とは大釜会長の弁です。言葉が通じれば施設長さんを始め、委員会のみなさんと色々お話をすることができたと思うのですが残念です。施設長さんは英語ができませんし、私はベトナム語がさっぱり分かりません。つまりは意思の疎通のしようがないのです。もどかしい思いで一杯でした。

ニンビン省旧559部隊の一員の皆さん。わざわざニンビン省から車で駆けつけてくれました。

 二人の仲間と一緒にタクシーで駆け付けてくれました。ビンさんとは三度目の対面です。体調も良いようで、前回お会いした時には皮疹が酷かった記憶があるのですが、すっかり治癒されたようです。

 ニンビン省の枯葉剤被害者協会会長に昨年就任され、各家庭を精力的には回られているようです。来年ぜひ来て下さい、と依頼されました。そうしたいのは山々なのですが、バクザン省とニンビン省はハノイから見ると南北正反対に位置しています。

 もう来年の事を考えなければなりません。仲間も高齢化して参加する事が困難になって来ています。若い世代に輪を広げたいのですが、経済的な負担の問題もあり、容易ではありません。

 難問山積です。

 

 

終日家庭訪問

20171021(金曜日:晴れ)

 

■今日は終日被害者の家庭を訪問しました。合計7件です。施設長さんのご希望で遠方の家庭も訪問しました。ホテルから施設までは15分ほど。そして施設から最初の家庭に辿り着くまでには1時間以上、山道を車で揺られました。こんなに山深い場所へ出かけたのは初めてでした。

「「 家庭訪問 1 軒目 」」

 

2017年10月21日 一軒目の訪問 レ・ティ・フエさん。

 被害者の家は施設からバスで一時間。バスを降りて10分ほど歩いて到着。被害者はレ・ティ・フエさん。1971年生まれ36歳。枯葉剤被害者第二世代。父が従軍中に枯葉剤に被爆。10年前に死去。4歳の息子が一人。自身は生まれつき肛門閉鎖があり手術を受けている。

 母は弟と一緒に5キロほど離れたところに住んでいる。子どもの父親は不明。フエさんに他の障害は無い。毎月85万ドンの支援金。あとは農業で自給自足の生活。自転車で街まで片道40分ほどの山道を買い物に行く。息子との二人暮らし。息子さんには障害はない。

 4キロ離れた幼稚園(?)に息子を自転車で毎日送っている。農作物を市場で売却し現金収入としている。子どもが病気になった時は、自転車で1時間掛けて病院まで連れていく。コメは自分たちの分として、8ヶ月分ほどが収穫できる。テレビは壊れて使用していない。水は井戸水。携帯電話はあり連絡は可能。

 

「「 家庭訪問 2 軒目 」」

 

2017年10月21日 二軒目の訪問 ファン・ティ・トゥイさん。

 

 被害者はファン・ティ・トゥイさん1978年生まれの39歳女性。父は南部で従軍し被爆。2014年に死去。母は弟と同居。本人は枯葉剤被害者第二世代。首が曲がって痛い。痛み止めを使用。3歳の娘がいる。娘さんには、今のところ異常はない。子供の父親は不明。

 毎月140万ドンの支援金。バクザン省職業訓練センターで学んだ刺繍の技術を活かして作品を作り、生活の補助にしている。一日1万ドン(50円ほど)の収入になる。いま製作中の作品は半年かけて完成予定。

「「 家庭訪問 3 軒目 」」

 

2017年10月21日 三軒目の訪問 ドゥ・チョン・トゥーさん。

 

 26歳男性。ドゥ・チョン・トゥーさん。全ての生活介助を母がしている。写真にある納屋のような場所で生活している。壁に頭をぶつける自傷行為がある。父は64歳。母は60歳。父親は農業をしている。隣は製材所兼木製品を作っている。支援金は毎月130万ドン。三人兄弟の末っ子。兄は消化器系に障害があるが結婚して子どもがいる。二番目の兄も被害者支援金80万ドンを受けている。一番上の兄は認定なし。

 

「「 家庭訪問 4 軒目 」」

 

10月21日 四軒目の訪問 グエン・ティ・フエンさん。

 被害者はグエン・ティ・フエンさん、34歳女性。父76歳。母は72歳。フエンさんは産まれた時から寝たきり。身の回りのことは全て父母が面倒をみている。座ることもできない。37歳の姉がいる。知的障害はあるが自立しており結婚して子どもが一人いる。今のところ障害は出ていない。

 父は南部に従軍中に被爆。体中にケガの傷跡あり。10年間従軍した父は毎月240万ドンの軍人恩給あり。娘には130万ドンの支援金。被爆した時には枯葉剤は植物にだけしか影響がない、と父は言われていた。気候によって頭痛がひどい時がある。湿疹は痒みがひどい。

 フェンさんの障害の原因については、生後いろいろ調べたが分からなかった。20年前に初めて政府から枯葉剤によると知らされた。枯葉剤による障害者が沢山いるので、娘が枯葉剤によると知っても仕方がない、と思った。

 

「「 家庭訪問 5 軒目 」」

2017年10月21日 五軒目の訪問 グエン・ティ・リェンさん。

 被害者はグエン・ティ・リェンさん。34歳の女性。母は60歳。77歳の父は枯葉剤の影響で体調が悪く、現在故郷へ帰っており、母が面倒をみている。妹が一人いる。障害は無く結婚して家を出ている。

 リェンさんは7−8歳頃から足の変形が始まり、徐々に歩けなくなってしまった。その後に病院で枯葉剤のためだと診断された。そう診断されても母は仕方がないと思うしか無かった。知的障害があり話は理解できない。今は食事も排泄も一人ではできない。母が全ての世話をしている。ベッドの下にバケツがあり、排泄後に処理している。毎月生理があったが医師に頼んで薬で止めてもらった。

 国からの支援は50万ドン程度とのこと。お米を買うだけで精一杯の生活。勤めていた道路補修会社の年金として母には、月に220万ドンの収入あり。母が仕事をしている頃は、父がフエンさんの面倒をみてくれていた。

 

「「 家庭訪問 6 軒目 」」

2017年10月21日 六軒目の訪問 ロン・デゥック・ニエンさん。

 被害者はロン・デゥック・ニエンさん。本人が中部に従軍していた時に枯葉剤に被爆した第一世代被害者。妻と二人暮らし。二人とも79歳。7人の子どもが産まれたが4人はすぐに亡くなった。一人は枯葉剤被害者の認定を受けた息子で25歳で死亡。枯葉剤のためと聞いても仕方がない、と母親は諦めるしか無かった。三人の娘は元気で結婚している。

 父には毎月170万ドンの支援金。母親には年金はない。80歳からは老齢年金が支給される予定。ペンライトで診た限りでは、母親の右目は白内障で、ほとんど見えないようだ。左目もかなり進んでいる。三人の娘から少し支援してもらっている。

 

「「 家庭訪問 7 軒目 」」

2017年10月21日 七軒目の訪問 グエン・デゥク・ティンさん。

 被害者はグエン・デゥク・ティンさん。40歳の男性。金属製のベッドに寝たきりの生活。足の指にひどい変形があり動けない。腕は少し動く。父が中部で従軍し枯葉剤に被爆。二年前から寝たきりとなった。それまでは日常生活ができた。

 ベッドの下に排水溝があり排泄物を流せるようになっている。元気な頃は108キロの体重があった。二年前から動けなくなり糖尿病になった。薬草を煮込んだ液体で体を洗っている。

 父は78歳。2歳の時の診断では、息子が話すことができないのは枯葉剤の影響ではない、と言われた。父子ともに1999年から枯葉剤被害者の認定を受けている。父は170万ドン。息子は140万ドンの支援金を受けている。

 2012年に母親は乳がんにて死去。父親とお手伝いさんの二人で息子の面倒をみている。戦争前に産まれた三人の娘は元気で学校の教師をしている。

 

■こうして、ようやく一日が終わりました。次から次へと被害者の家庭を訪問していると、正直気が滅入りました。私達の知らないところで、こうして無数の被害者が毎日を送っているのかと思うと、暗澹たる気持ちになります。いったん戦争が起これば、どこでもこうした被害者が生まれるのです。戦争を起こした人間たちは、賢明にも無傷で、のうのうと生き抜くのでしょうが、庶民はそうは行きません。人生を台無しにされてしまいます。そのことを忘れてはなりません。

活動開始

20171020(金曜日:晴れ)

「「 20171020  Day 2 午前中の施設での活動 」」

■ 今日は午前中は施設で活動し、午後からは被害者家庭の訪問です。一年ぶりのバクザン省職業訓練センターの訪問です。道路が新しく敷設され昨年と周囲の風景が変わっていました。

迎えて下さったKhong Thi Thuy さん。施設長さんの女医さんです。ご自身の長男も障害を負っていてアメリカ製の高価な医薬品が欠かせません。
 一年ぶりでしたが、つい昨日のことのように思い出されます。

Khong Thi Thuy さんのご挨拶。今年もThuyさんが訪問家庭を選んで手はずをして下さいました。

会を代表して私が挨拶をさせていただきました。ベトナム語で自己紹介しました。

今年も医薬品を寄贈していただいた「メディオ薬局」、医療用マスク、清拭用洗剤などなど寄付をいただいた鈴木和憲さん、成田みちよさんには、感謝するばかりです。施設と被害者家庭に寄贈することができました。

今年は子ども達と玉入れを楽しみました。新谷さん手製の遊具で楽しむことができました。

シャボン玉を作って楽しみました。みんな大喜びでした。

音楽療法です。リズムに合わせて体を動かすことで、子ども達は大喜びでした。

音楽療法です。リズムに合わせて体を動かすことで、子ども達は大喜びでした。

そして私は眼科検診です。今年は Spot Vision Screener を持参して子ども達の目の状態を客観的に調べました。暗くないと良い値が出ないので、診察室は何とサウナでした。治療の一環としてサウナを使用しているそうです。さすがに十分な暗室となりました。

 

「「 20171020  Day 2 午後からの被害者家庭訪問 4軒 」」

 

午前中の施設での活動を終え、昼食を取るため地元のお店に入りました。地元のサッカーチームのみなさんが一緒になりました。中学生のようです。

 

「「 家庭訪問 1 軒目 」」

一軒目の家庭は、ドン・バン・フンさん。

 被害者ドン・バン・フンさんは第二世代。父が従軍中にカンボジアに近い所で被爆。父は2010年に死亡。兄は父が従軍する前に生まれたので異常なし。最近結婚した被害者夫婦はともに41歳。母曰く、生まれて数カ月から頭が大きくなってきた。病院でも原因不明と言われた。現在は水頭症の状態。子どもを病院へ連れて行くのが一番大変だった。障害を持って生まれ大変だったが、いろいろな人が手伝いに来てくれて話を聞いてくれるので嬉しい。

一ヶ月120万ドン(6千円ほど)の被害者支援金。コメを作って生活しているが大して収入にならない。被害者の妻は知能障害があり手伝えない。豚を飼っているのは長男の家族。支援してもらっている。自分が死んだ後に誰が息子の面倒を見てくれるか心配だ。

 

「「 家庭訪問 2 軒目 」」

二軒目の家庭は、ドン・ビエット・ハイさん。

 被害者ドン・ビエット・ハイさんは1980年生まれ37歳。知能障害のために会話が理解できない。父は67歳。三人兄弟の真ん中。姉は結婚している。弟は農業をしている。二人とも特に異常は無い。毎月100万ドンの支援金。家族で農業をしている。食事、排泄など全て家族が介助。話すことはできない。

16歳までは歩けなかった。外出すると彷徨して帰ってこない。父はカンボジアの近くのビンディン省で1975年頃従軍し被爆。自分の従軍によって子ども達に障害が出たことを、とても苦しく思っている。いつも子ども達のことを心配している。戦争に行って戦ったことは後悔していない。私達と話ができたことを大変嬉しく思っている。

「「 家庭訪問 3 軒目 」」

三軒目の家庭は、グエン・バン・カンさん。

 障害者グエン・バン・カンさんは1972年生まれ45歳。別の離れ小屋で一人暮らし。放置していると徘徊してしまうので、普段はドアを締めて閉じ込めてある。母は74歳。父は31年前に死亡。三人兄弟の二番目。姉は結婚して普通に生活。三番目は生後間もなく死去。父は南部カンボジア近くで従軍、被爆。

カンさんは知恵遅れのため、食事のコントロールができない。徘徊してしまう。大きな声を出すが暴力を振るうことはない。排泄の始末ができないので世話が大変だ。

毎月140万ドンの支援金。収入は支援金のみの生活。人民委員会に増額を要請したが断られた。母親の年金は無い。娘さんから時々支援あり。鶏をもらった。カンさんも以前は薬を服用していたが、現在は効果がないので止めた。母親は農業をして米を作っている。

父親が死んで子育てが一番たいへんだった。祖父が手伝ってくれた。母の父もフランスとの戦争で死亡。夫はベトナム戦争で死去。夫の実家に現在住んでいる。

「「 家庭訪問 4 軒目 」」

四軒目の家庭は、グエン・ティ・ニンさん。

 枯葉剤被害者グエン・ティ・ニンさんは一人娘。19歳女性。時々暴れる。母の兄が現状を話をしてくれた。母は1963年生まれの54歳。ハノイで乳がんで治療中で体調は良くない。治療費が掛かり大変。同席しているのは93歳の祖母。ニンさんの父が枯葉剤被害者の第二世代。ニンさんは第三世代の被害者。祖父が従軍中に枯葉剤に被爆。父はガンで、すでに死去。

ニンさんは大声を挙げたり物を投げたり暴れたりする。食事は自分で可能。目を離すと徘徊する。現在は薬は使用していない。ニンさんの面倒は親戚が力を合わせて見ている。地域の老人会の会長をしている母の70歳の兄が一番面倒をみている。この叔父は四年間韓国で仕事をしていたので韓国語は話せる。

被害者協会の認定を受け毎月100万ドンの支援金あり。家族としての収入は支援金のみ。家族や近所に住む親戚、近所同士で助け合って生活している。お米なども周囲の人々に援助してもらっている。ボランティアの支援グループが時々支援に来てくれる。

93歳の祖母は、娘は乳がん、そして孫は枯葉剤被害による障害を持っていることに心を痛めている。

これで、ようやく今日の活動も終了です。同行してくれた人民委員会の皆さんの建物です。今回も地域の人民委員会の皆様には大変お世話になりました。17時少し前でしたが夕暮れです。ベトナム、バクザン省の夕暮れです。

 

■しばらくはベトナム料理の日々です。ルールーと呼ばれるパパイヤの漬物がとても美味しいのに驚きました。

なんとか 持って帰れる形で購入して、お土産にしたいと思いました。

旅立ち

20171019(木曜日:雨)

韓国の保養地、雨の海雲台です。シーズンには無数のパラソルが立ち並びます。

■今朝は雨。昨日は久しぶりに青空を見ることができましたが、それも一日で逆戻り。今日の予報では12月並みの寒さのようです。今朝も一応念のために5時に起きてみたのですが雨が降っているのを確認して、再度眠りにつきました。

 今日はいよいよベトナム枯葉剤支援の旅に出かける日。昨年も同じ時期に出かけましたが、この一年間本当にあっという間でした。昨年はロータリークラブの会長年度でしたので、木曜日の例会で会長挨拶をしてから羽田空港へ向かうことも考えたのですが、それでは飛行機に遅れる可能性が大きいので、宮島副会長に代理をお願いしました。

 いつものように快く宮島さんに引き受けていただき、本当に感謝したものです。今日の欠席の分は、すでに補填を済ませましたので、堂々と出かけることができます。

 予定で行けば今夜遅くにハノイ・ノイバイ国際空港に到着し、そのままバクザン省のホテルへ向かい投宿できるはずです。昨年は初めての施設、バクザン省職業訓練センターを訪問し活動を行いました。施設長のKhong Thi Thuy さんが迎えてくださいました。聡明で美しい私と同年配の女性医師です。息子さんが枯葉剤の被害者であり、施設と家庭で苦労を重ねておられました。

 施設での眼科検診に、今年は最新鋭の Spot Vision Screener という機器を持参し、施設の子どもたちの視機能検査を行う予定です。また被害者家庭訪問では、Khong Thi Thuy さんから遠方の家も訪問してほしい、という希望が昨年出されました。今年は、どんな家庭を訪問することになるか、不安と期待が入り混じっています。

■さて帰ってくる頃には日本の総選挙の結果も出ているはずです。これからの日本を占う大きな選挙です。野党の分裂で与党の圧勝という予想が出ています。おそらく歴史の大きな分水嶺となるでしょう。戦後日本が大きく変わる転換点です。

 いずれ矛盾が臨界点に達してアメリカの様に二大政党を離れた指導者が出現する可能性が大です。その時には没落した中間層が、あの時選挙に行って投票しておけば良かった、と後悔しているかもしれません。本当に驚くのは、多くの人は先のことを考えていない、ということです。いや考える余裕がない、という生活を送られている人も多いことは事実でしょう。

 しかし余裕がありながら、考えていない人がいかに多いことか。目先のことで頭が一杯なのです。もちろんマスコミの影響が大きいことが確かです。本当に視野が狭い。それには驚くばかりです。組織の中で陶酔してしまっている。オウム真理教でも、そうだったのでしょう。傍から見れば、なんでそんなことが分からないのだろうと思うのですが、組織の中にいると外が見えない。とんでもない行動を平気で取ってしまう。

 考えてみれば私達も他者を笑うことはできないかもしれません。結局は自分の視野の中で、ああでもないこうでもないと考えているだけかもしれないからです。

■とにかく無事に返ってくることが最優先です。

「「 20171019  Day 1  」」

■今日は仕事を終えて、すぐに車に駆け込み原駅に向かいました。Kumiちゃんに送ってもらいました。そして東海道線、東海道新幹線、そして京浜急行電鉄で羽田空港国際線ターミナル駅に到着しました。

 14時少し前に出発 L カウンター前に着きましたが、皆さんはバスが渋滞に巻き込まれ、まだ到着していませんでした。10分ほど待ってみなさんと合流発券のために列に加わりました。
 
 発券もスムーズに終わり、チェックも無事に終えて、143番搭乗口へ向かいました。小腹がすいていたので、途中みんなでうどんを食べました。

 16時45分定刻通りに羽田空港を離陸しました。順調に飛行し約5時間後の21時45分、現地時間19時45分にハノイ・ノイバイ国際空港に着陸しました。
 
 やはり5時間の旅は長く感じました。無事に到着し入国手続も順調に終わり、出口で待っていましたが、タインさん親子はなかなか現れません。大釜さんが電話をかけると、10分ほどで一年ぶりの再会となりました。

 バスに乗り込みバクザン省のホテルに一直線です。年々道路事情が改善していますので、かかる時間も短縮されています。今回は2時間はかかりませんでした。まずはホテルにチェエク・イン。荷物を確認して明日からの活動に備えました。

 それから明日からの活動が成功裏に終わることを祈って一杯やりました。

みんなでうどんを食べました。美味しいつゆでした。麺ももちもちでした。

ようやくハノイ・ノイバイ国際空港に到着しました。これからバクザン省のホテルに直行です。現地時間19時45分に到着です。ホテルまではバスで1時間半ほどです。

ようやくホテルに到着しました。一息ついてからビールを飲みに繰り出しました。

部屋に入り明日からの活動の準備です。支援物資の振り分けをしました。医薬品一式、ポカリスエット、山口さんが友人から送られた金属製の折り鶴、などなど。

さて明日の準備も終わりバスで繰り出しました。明日からの活動に備えて、まずは乾杯です。
モッ・ハイ・バー ヨー

■沼津では寒さに震えながら出発したのですが、こちらでは半袖一枚でも十分です。ホテルでは冷房をかけて眠りました。

ISの崩壊

20171018(水曜日:晴れ)

我が家の三階から見た今朝の富士山です。愛鷹山の裾野に隠れています。

■今朝は先週の木曜日以来、6日ぶりに走りました。こんなに間が空いてしまったのは記憶に無いほどです。青空は良いものです。雪国に長く住んだことがありますが、それはそれで美しいのですが、さすがに青空を見ずにいると、気が滅入ってきます。今朝は気持ちの良い晴天でした。

 ということで今朝は頑張って 10.19km を走り今月の通算距離をようやく 53.41km と 50km の大台を超えることができました。今朝のペースは、キロ6分16秒ですから悪くありません。ただ8キロ過ぎから右膝に違和感を覚え始めて、屈伸運動で何とか誤魔化しましたが、以前苦しんだランナーズ膝の再発か、と不安になりました。

 それに途中から左の首筋が痛み始め、なるべくうつ向きを止めて、とにかく首を挙げて、しっかりと前を見るように心がけました。久しぶりのランニングだったためか、とにかく不具合が色々出現して困りました。

■今朝はこれまで一度もうまく行かなかったクロムブックのスマートロック機能が成功しました。どのパソコンも今は、IDとパスワードでログインしなければいけないのですが、それはクロムブックも同様です。ところが同じIDとパスワードでログインしたアンドロイド・スマホが近くにあれば、それを認識して自動的にログインできる、という優れた機能です。ブルートゥースで通信して認証するのです。

 今やグーグルのサービス無くしてはネットの生活はできません。つまりネットに繋ぐ意味もない、ということです。メールから写真からホームページや予定の管理まで、グーグル三昧です。これは危険でもあるのですが、今のところは致し方ありません。

■さて中東におけるISが崩壊したようです。一時は国家をすら形成しようかというほどの勢いでしたが、ロシアの参戦で形成が逆転。徒花に終わりました。日本のマスコミは本当のことを報じていませんので、ISを真剣に潰そうとしたアメリカの努力にも関わらず、という前置きがいつもついて回りましたが、アメリカが裏でISを支援していたのは、公然の秘密のようです。

 誰が誰の味方か敵なのか。誠に奇々怪々の世界です。一つはっきりしたのは、ロシアやイランの影響力が中東では格段に強くなった、ということです。日本にいるとアメリカが全てを仕切っているように錯覚しがちですが、どうも日本のメディアはフェイクニュースを垂れ流しているようです。

戦略的投票

20171017(火曜日:雨)

ちょうど一月前の世界遺産河回村の様子です。ハングル文字では(하회마을)と書きます。

■雨が続いています。南の海では台風も発生して週末に日本にも影響が出そうです。先週以来、今日で5日間走ることができずにいます。そこで今朝は5時前に目が覚めましたので、起き出して本当に久しぶりにエアロバイクを漕ぐことにしました。

 ずっと以前は運動としてエアロバイクを漕いでいました。その後にウォーキングを始め、毎日一万歩の目標を達成し続けていたのですが、2012年7月からは継続的に走っています。

 ということでエアロバイクは、本当に久しぶりです。漕ぎながらベトナム語の講座をユーチューブで聞きながら、30分間漕ぎ続けました。汗をかきました。昨夜スマホでハングル語講座とベトナム語講座を聞きました。木曜日からベトナムへ出かけますので、少しは語彙を増やしておかなくては、と思い立ったからです。

 毎年出かけていながら、どうもベトナム語は敷居が高すぎて勉強する気力が出ませんでした。考えてみれば、もったいないことです。せっかく現地に出かけるのですから、基礎だけでも学んでおけば意思の疎通が少しはできるかもしれないからです。

 と思ってレッスン第一課を聞いたのですが、めげました。母音だけで12もあるし、声調という声の上げ下げだけで6つもあるというのです。今のところはハングル語のほうが、ずっと取っ付きやすそうです。

■さて今朝の東京新聞には、アベノミクスの成果が零細企業にも及んでいるのか、という記事が掲載されています。記事によれば支援策も末端までには及ばずに、廃業に追い込まれる企業が後を絶たないようです。もちろん全ての企業を救うという事は不可能です。さらに、そうして廃業に追い込まれた人の声として、総選挙には投票に行かない、行っても仕方がないから、という声が掲載されています。本当に残念です。

 同じ朝刊には、「戦略的投票」という内容が解説されています。丸山真男先生が福沢諭吉の言葉、「悪さ加減の選択」を挙げて、政治的選択とはせいぜいベターの選択だ、と述べています。小選挙区制ですから、本来ならば与党と野党の候補が一騎打ち、という選択が有権者には一番分かりやすいのです。しかし現実は、そうはなっていません。

 誰かが仕組んだのでしょうが、結局分裂した状態での選挙ですから、与党はニンマリです。

 世界で起きつつあるのは、実は二大政党制の瓦解です。一応保守とリベラルという体裁は取っているものの、アメリカがそうであったように、結局は莫大な選挙資金を拠出できる上位1%の人々のための政治をしているのであって、政権交代があっても格差は一向に縮まらなかったのです。その結果がトランプ大統領の誕生です。

 日本は周回遅れで二大政党制を目指しているのですが、自民党と希望の党では、アメリカの二の舞いに過ぎません。それは多くの国民にとって幸せをもたらすことにはならないでしょう。

 兎にも角にも、投票するしか無いのです。投票しない人の意見は決して政治に反映されないのですから。

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