2023 年 09 月 02 日 TakuとMasato とNonと一緒に訪れた熱海初島です。

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MIRAフィットネスクラブに出掛けた日。

停電

■20260312(木曜日:晴れ) ( D 153 )  停電

2月1日、北鎌倉駅近くの庭に咲いていた梅の木です。

■昨夜午前2時過ぎから、どうやら停電したようです。朝起きる時になって気付きました。確認してみると、1階は停電していません。さて困りました。廊下にある配電盤を確認して、漏電ブレイカーを上げると、いったん回復するのですが、すぐにまたブレイカーが落ちてしまいます。

1階は正常ですので、こうしてWi-Fiは2階でも利用可能なのですが、オール電化の我が家では、電気が無いと手も足も出ません。

■さて、グーグル先生に尋ねてみると、助言をもらうことができました。廊下の壁の中にある配電盤を覗いてみると、スイッチが縦2列に20ほども並んでいます。それぞれにオンとオフがあり、中央一番上に漏電スイッチ・ブレーカーが鎮座ましましています。

まず、このスイッチをオンにしたのですが、一瞬電気が戻るものの、すぐにブレーカーが下りてしまい、停電状態に戻ってしまいます。例えばキッチンの20並んだ、

モリンガ

■20260305(木曜日:晴れ) ( D 161 )

今朝の朝食・温野菜です。モリンガ加えて食べ始めました。

■今朝は快晴です。昨日は皆既月食でしたが、残念ながらこちらでは見ることができませんでした。テレビでは宮崎の様子が、報道されていましたが、月が次第に地球の影に隠れていく様子は、自然の脅威でした。

何が起こっているか分からない頃には、本当に驚くばかりだったに違いありません。でも、天文学が異常に発達していたインカ帝国なら、予想できていたかも知れません。

■さて今朝から、モリンガを摂り始めました。奇跡のスーパーフード・モリンガです。QwenChatに尋ねてみると、以下のように教えてくれました。

スーパーフード・モリンガの健康への利点 3 選

モリンガ(Moringa oleifera)は、「奇跡の木」や「生命の木」とも呼ばれる栄養価の高い植物で、近年スーパーフードとして世界中で注目されています。主な健康への利点を 3 つご紹介します。


1. 豊富な栄養素による総合的な健康サポート

モリンガは驚くほど多様な栄養素を含んでいます。

栄養素特徴
ビタミンA、C、E、B 群など
ミネラルカルシウム、鉄、カリウム、マグネシウム
タンパク質9 種類の必須アミノ酸を全て含む
抗酸化物質ポリフェノール、フラボノイド


特に、ビタミン C はオレンジの約 7 倍カルシウムは牛乳の約 20 倍鉄はほうれん草の約 30 倍とも言われ、少量で効率的に栄養を摂取できます。


2. 強力な抗炎症・抗酸化作用

モリンガに含まれるケルセチンクロロゲン酸などの抗酸化物質が、体内の活性酸素を除去し、細胞の老化を防ぎます。

  • 慢性炎症の軽減 – 関節炎や心血管疾患のリスク低減
  • 免疫力向上 – 風邪や感染症への抵抗力強化
  • 肌荒れ改善 – 抗酸化作用によるアンチエイジング効果

3. 血糖値・コレステロール値の調節

複数の研究で、モリンガが血糖値の安定化悪玉コレステロール(LDL)の低下に役立つことが示されています。

  • インスリン感受性の向上 – 糖尿病予防に効果的
  • 脂質代謝の改善 – メタボリックシンドロームのリスク低減
  • 血圧調整 – カリウムによるナトリウム排出促進

まとめ

利点期待される効果
栄養豊富総合的な健康維持、栄養補給
抗酸化・抗炎症老化防止、免疫力向上
血糖・コレステロール調節生活習慣病の予防

摂取方法の例

  • パウダー – スムージー、ヨーグルト、スープに混ぜる
  • サプリメント – カプセルやタブレットで手軽に
  • ティー – モリンガ茶として飲む

注意点

  • 過剰摂取は避け、1 日 5〜10g 程度を目安に
  • 妊娠中・授乳中の方は医師に相談
  • 薬を服用中の方は相互作用に注意

モリンガは万能ですが、バランスの取れた食事と併用することが大切です。あなたの「腸活・筋トレ・マラソン」の三位一体に、モリンガも加えてみてはいかがでしょうか。

なるほど、大切なのはバランスの良い食事を摂ることのようです。いつもの温野菜お椀一杯に、今朝はモリンガパウダーを小さじ半分だけ入れました。色は抹茶とそっくりなので、モリンガ茶として飲むのもありです。味は、ちょっと苦かったでしょうか。温野菜に入れたので、今度はお茶として飲んでみます。

サプリも大切ですが、こうした自然食品で有効な要素を摂取できれば、一番安心ですし、廉価で済みます。100 (g) で 1,296 円ですから、とてもお買い得です。種も手に入れましたので、自分でも栽培してみるつもりです。

加齢に伴う様々な身体の変化を、少しでも改善できれば、医療費の削減に貢献できそうです。

待合室

■20260302(月曜日:曇) ( D 164 )

2023年に大学病院で受けたVIP人間ドックの夕食です。
子ども達がお金を出し合ってくれました。

■先月受けた人間ドックの際に指摘された、ある腫瘍マーカー値上昇についての説明を受けに、今日は静岡県立がんセンターに行ってきました。先日受けたがんドックの結果説明では、念の為に造影CTを受けたほうが良いかも知れない、というお話でしたので、今日の予約となりましたが、私の勘違いか、話の行き違いか、結局今日は検査予約をしただけでした。

予定時刻から1時間待って、3分ほどで終わりましたが、予約患者さんのほとんどは、これから手術をどうするか、といった深刻な内容がほとんどですから、私が文句を言える筋合いではありません。

ただ、私のようにがんドックでの軽微な異常をどう判断するか、といった場合は、別のルートで処理してもらえると、お互い時間の節約になるとは感じました。

まず本人に、さらなる精密検査を希望するかどうか確認の上、必要な検査を検診室レベルで予約。私の場合は、肝胆膵関連の腫瘍マーカーでしたので、そちらの専門医が最後に結果説明する、という流れです。この流れなら、ドック担当医のレベルで、判断が充分可能です。

今日は、肝胆膵が専門の担当医が、値の上昇について話をしてくれましたが、このマーカーの、この程度の値なら画像診断では何の異常も無かったので、無理して検査しなくてもよいのでは、という思いが口調の端々に感じられました。ただ、3年前の結果よりも値が上昇しているのが私は心配でしたし、いわば乗りかかった船ですので、こうなったら乗るしかありません。

検査日の予約と、その結果の説明日の予約をして帰宅の途に付いたのは、11時を回っていました。朝7時15分に家を出て帰ってきたのは正午前です。静岡一洗練された病院ですから、あれ以上の対応は難しそうです。スタッフは、どの人も忙しそうで手一杯。暇そうにしているのは、待合室の患者さんぐらいでした。

患者さんには、必ず家族が同伴していました。自分たちも、いずれこうなるに違いない、と思いながら待合室を静かに見つめていました。家族に負担を掛けないようにするには、今からどう日々を過ごしていけばよいのか。考えても結論が出そうもない、堂々巡りの思案をするばかりでした。

文化の力

■20260228(土曜日:曇) ( D 166 )

10年前の今日、勉強会に出席するために訪れた名古屋駅です。

■暖かな朝です。昨夜も何度か目が覚めたもの、途中4時間ほど目覚めることが無かったので、熟睡感がありました。もう少し間隔が空いてくれると、さらに熟睡感が向上するように思うのですが、焦っても仕方ありません。色々工夫してみるしかなさそうです。

今日で2月も終わりです。あっという間に2ヶ月が過ぎ去ろうとしています。春がやってきます。

■さて今朝のNHKニュースでは、韓国と日本の間での文化交流について、報道されていました。鎌倉というと大仏が思い浮かびますが、その裏手にあった「観月堂」が、韓国から来たものとは知りませんでした。

かつてヨーロッパ諸国がアジア・アフリカでしてきたように、文化財を強奪して博物館に飾るような真似をしたのかと、一瞬心配しましたが、幸いなことに、そうではありませんでした。

ほぼ100年ぶりに、2025年には無事に返還されましたが、様々な努力がなされたようです。

国家遺産庁は、「光復80周年と韓日国交正常化60周年を迎えた、ことしに行われた今回の返還が、両国の文化における交流と未来志向の協力に向けた象徴となることを期待する」と述べました。

韓国政府は、観月堂の返還に尽力した高徳院の佐藤孝雄住職に大統領表彰を授与すると発表した。

ある地方で日本統治時代に建てられた日本建築を活かして、レトロでおしゃれな店舗を作り続けている、地元建築家の活動も報告されていました。

韓流ドラマのお陰で、韓国がどれほど身近な国に変貌したかは、語るまでもありません。文化の力は恐るべしです。

■考えてみると、1960年代に入りテレビが普及した際に、私たちが毎日目にすることになったのは、ほとんどがアメリカのテレビドラマでした。いやアメリカ製しか無かったと言っても過言ではありません。

アジア諸国が経済発展し、そうした国々から次々と身近なテレビドラマが輸入され、お茶の間で見ることができるようになったことは、大変な変化であり進歩です。

両国における意外な共通点や相違点を発見するのも、テレビドラマの楽しみの一つです。これかも、そうした視点で韓国や中国からのテレビドラマを楽しみたいものです。

検査結果

■20260226(木曜日:晴れ) ( D 166 )

2023年3月5日にAyaとBenと3人で食べた名古屋の「ひつまぶし」です。

■今朝は青空です。昨日の雨で今朝の富士山は、ま白き富士になりました。朝日を浴びて、見事な姿を見せてくれています。やはり富士山は、こうでなくてはいけません。

■今日は1月に行った、がんセンターでのがんドックの結果を聞くために、仕事を休んで出掛けます。担当の先生と話をしていて、3年前に受けた大学病院での人間ドックの結果を持参することになり、自分でも再度、その結果を見直してみました。

その際は、PET検査も含めて全て特に問題ない、という説明でしたので、ざっと検査結果を見ただけでしたが、自分自身で再度確認してみると、こんな検査もしていたのだ、と少し驚いたほどです。

骨密度はもちろん、頸動脈の超音波検査など、動脈硬化所見の精査は受けなければいけないと思っていたのですが、その時すでに検査済みとは気付きませんでした。

さて、今日はどんな結果を告げられるか心配なのですが、こればかりは開き直るしかありません。

今日も、また

■20260223(月曜日:雨のち晴れ) 天皇誕生日 ( D 169 ) 
関東地方に春一番

2011年2月24日に訪れた、メルボルン近郊の街アネキーです。

■今日は天皇誕生日。天皇陛下66歳の誕生日です。私より6つ年下ですが、とても若々しく見えます。いつまでも、お元気でいて欲しいと願うばかりです。

■さて今日の写真は、Nonがホームステイでお世話になった、オーストラリアのパパとママの家を、Sunと私が初めて訪問した際の写真です。アネキーと呼ばれる街にあるその家は、丘の上にある広大な敷地の中にあり、どこまでがパパの所有地なのか分からないほどの広さでした。

アネキーの街について尋ねてみると、こんな回答でした。

アネキー(Anakie)はオーストラリアのビクトリア州に位置する小さな街で、メルボルンの中心から約70kmほど離れています。主に農村地域で構成されており、自然が豊かで、静かな環境が魅力です。アネキーは、特に観光地として人気のある「アネキーイーワイニ」などの周辺に近く、美しい景色やワイナリー巡りを楽しむことができます。

地域の特徴としては、地元の農産物やワイン、牧場が多く、観光客も訪れることがあります。また、アネキーはハイキングやアウトドア活動にも適した場所で、自然愛好者には人気です。周辺には様々な交流の場やコミュニティイベントもあり、地元の文化や人々との触れ合いが楽しめます。

総じて、アネキーはリラックスしたい方や田舎の魅力を感じたい方にとって理想的な場所です。

と、あります。滞在中の夜、家族みんなで地元の商店を訪れた際の写真です。周囲はほとんど真っ暗で、お店が一軒ぽつんと建っているだけでした。星空が美しかったことを、よく覚えています。

その後、パパは病気で亡くなり、まだ子どもだった娘さんの披露宴に招かれたのが2024年でした。初めての訪問から、もう15年も経っているのです。

■さて、昨日は真面目にトレーニングをしました。3月には2回のマラソン大会への出場が予定されているからです。と言っても、今年から無理をせずに、ハーフから10キロ走へ変更しました。

午前中にフィットネスクラブに出かけ、いつもの筋トレの定番をこなした後に、久しぶりに 1 時間走にチャレンジです。1時間1分51秒、7.30km を走り、これで今月は、15.70kmを積み重ねました。調べてみると、1時間走は 1月25日以来です。

ほぼ1ヶ月ぶりですので、単純に疲れていなかったからと言えば、それだけなのですが、走ってみて昨日は今までと明らかに異なっていました。まずは最後まで足取りが軽かったのです。有酸素運動目的ですから、キロ8分強程度のペースなのですが、今日はここまでにしておこうとは、一度も思いませんでした。

そして驚いたのが、息遣いが乱れることが無かったことです。呼吸をほとんど意識すること無く走り切ることができました。想像するに、筋トレで筋肉量が増加し、走り続けるために必要な酸素量や血流量が少なくて済むようになった事が、一番大きな理由のようです。

つまりは楽に走り続けることができた、ということです。たまたまかも知れません。それでも自分としては、トレーニングの成果を実感できて、大会参加への期待が膨らんだのは大きな収穫でした。

フィットネスクラブでの筋トレだけでなく、自室で続けているブルガリアン・スクワットも大きく寄与しているように感じています。今年になって始めて以来、太腿が目に見えて太くなっているのです。朝、昼、晩と毎日、合計50回ほどなのですが、結構効果があるようです。

こうして鍛錬の成果を実感できる機会があると、鍛錬を続けることが苦ではなくなります。筋トレをしている、と友人に話をすると、地味で退屈そうだね、と大抵の人は反応します。そのとおりです。それ自体は、面白おかしくも何ともありません。

ところが、摩訶不思議。ある時、そのご利益を実感する瞬間を経ると、ハマってしまうのです。今日もまたフィットネスクラブに行こう、と思うのです。

■昨夜は同期生であるTuruちゃん夫婦と、定例夕食会を開いたのですが、やはり一番のテーマは健康です。こうして元気で集まって、美味しい料理を一緒に食べることほど、幸せなことはない、という結論になります。まさに、そのとおりなのです。

そのためにも、トレーニングを今日も続けるしか無いようです。

初戦の案内

■20260222(日曜日:曇り) ( D 170 )

2023年2月の伊豆半島です。原海岸の堤防から撮りました。

■今日は日曜日、そして明日は天皇誕生日と世間は連休です。2年前から月曜日を休診としてからは、日曜日に安心して、マラソン大会にも参加できるようになりました。それまでは、日曜日に走っても翌日は仕事でしたので、休む暇がありませんでした。

それでも何とかなっていたのは、単純に若さのおかげだったのでしょう。とは言っても、初めてフルマラソンを完走したのが、61歳4ヶ月の時でしたから、もう還暦を過ぎていたのです。大会に参加するのが楽しくてならない、60代の10年間でした。

■3月8日に参加する小田原尊徳マラソンの案内が、昨日送られてきました。ビブスや記録チップなど一式です。今年で3回目の出場です。ゲストランナーは東洋大学陸上部となっています。

朝早く家を出て、東海道線、小田急線を乗り継いで小田原まで行きます。螢田駅から歩いて15分ほどの小田原アリーナが会場です。昨年はハーフの部に出場しましたが、今年は無理をせずに 10 km の部にしました。10キロ60歳以上男子の出場選手数は、250名弱のようです。

昨年出場したハーフ60歳以上男子では、151 人中 121 位の成績でした。完走しただけで、私の場合は上出来です。

コースは酒匂川沿いの土手を走ります。制限時間は、10キロの部、ハーフの部が、それぞれ90分、170分です。昨年の私の記録を確認すると、ハーフの部で 163 分 04 秒ですから、ギリギリカスカスでした。15キロを過ぎてからは、本当に苦しい時間ばかりでした。

それでも完走した時の達成感は、何物にも代えがたい、そして得難いものです。完走できるのだろうか、という不安感一杯のスタートラインから、疲れや寒気や、時には脚の痙攣などに襲われながら、何とかゴールした時の安堵感は、何度経験しても貴重なのです。だから苦しくても止められないのです。

今年の初戦は横浜での大会でしたが、父の法事と重なってしまい、出場が叶いませんでした。今年は、この小田原が初戦になります。一年間、とにかく無事に全ての大会で完走できるように、体調管理に努めるつもりです。

こうして大会案内が送られてくると、さて走らなくては、と背中を押されるのです。今日もこれから、1 時間の LSD をする予定です。

さて、どうなりますことやら。

低体温症

■20260219(木曜日:晴れ) ( D 172 )

2024年2月4日参加した横浜海の公園冬マラソンです。
ハーフを雨の中、よく無事に完走しました。

■昨夜はキンドルで「サピエンス全史」を30分ほど読んだ後に、眠りに付きました。いつものごとく午前1時頃に1回目の目覚めがあり、その後3時に2回目の覚醒がありました。

自分の中では、その後なかなか熟睡できずに、6時の起床を迎えスッキリしなかったのですが、スマートウォッチの睡眠診断では、この2回の覚醒以外は、浅い睡眠の割合がギリギリの55%と、やや多かっただけで、全体としては総合点は84点、「91%のユーザーより上」と思ったより良質の睡眠との診断です。

午前3時の覚醒後に、もう一度すんなり入眠できると熟睡感が得られるのですが、なかなかそういかないところが悩みの種です。贅沢を言ってもきりがないのですが、毎晩睡眠との戦いです。

■昼間時間の空いた時に、最近再読しているのが村上春樹さんの「走ることを語る時に僕の語ること」です。マラソンランナーとして有名な村上さんが綴ったエッセイです。ランニングをしている人なら、そうだそうだ、と頷く部分が多々ありますし、そうでなくとも楽しく読み進めることのできる内容です。

団体競技、あるいは1対1での競技が苦手だった村上さんが、作家生活に入って、体調管理のために始めたのが走ることだったのです。

昨日読んでいたのは、こんな内容でした。60歳を前に千葉県のある大会に出場した時、ハムストリングでしょうか、30キロ付近で痙攣に襲われ、やっと歩くことしかできなくなってしまった、初めての経験を語っています。

それまで何十回も出場したフルマラソンで初めて歩いてゴールした、その間の驚き、屈辱感、そして寒さに凍える恐怖を綴っています。真冬の大会ですが、走っている限り、タンクトップと半パンという出で立ちで何の問題もないのですが、いったん走ることができなくなると、寒さが襲ってきます。

それまで、そんな経験をしたことのない村上さんには、大変な恐怖だったようです。ランナーとしてのレベルは全然違うものの、私も同様の経験をしたことがあるだけに、その恐怖感は理解できます。村上春樹さんが、とても身近な存在に思えたから不思議でした。

自立

■20260212(木曜日:曇) ( D 179 )

2022年2月11日に訪れた小樽市街です。
氷柱(ツララ)が立派で驚きました。

■昨日は久しぶりの雨でした。気温はそれほど下がりませんでしたので、氷雨というわけでもなく、休日の一日を過ごしました。午前中は書類を書き上げ、午後からはフィットネスクラブで筋トレと有酸素運動を行い、黄金の組み合わせを完遂しました。

知り合いになって話すようになった仲間と、帰りがけに言葉を交わしました。40代でしょうか、だいぶ長く筋トレに彼は取り組んでいるようです。チェストプレスは 70 kg を上げるそうですが、体重は 60 kg とのことで、自体重以上の重さを上げているわけです。

チェストプレスの解説ビデオを見ると、まず語られるのが、「目標は自分の体重分を上げるようになりましょう」と、あります。私の場合は、体重が 58 kg で現在可能なバーベルの重さは、25 kg ですから目標には、全然足りません。情けないのですが、これが現実です。

それでも少しずつ力が付いてきているのは、自分でも分かるほどになりましたので、悲嘆はしていません。むしろ、希望を持つことができるところまで来ました。そこまで辿り着けば、しめたものです。

■さて、いつもの知恵袋「田中宇の国際ニュース解説」です。高市総理の大勝利に終わりましたが、選挙結果について解説しています。

田中宇の国際ニュース解説 無料版 2026年2月11日

★日本が高市化した意味

この内容を信じるかどうかは、読む人次第ですが、私はいつものごとく、田中さんの指摘は的を得ている、と感じます。

高市総理が台湾有事発言をした際の中国の発言、反応は結果として、高市人気を後押ししたのですが、どう見ても計算ずくとしか思えません。中国は高市首相に勝って欲しかったのです。その方が都合が良いからです。

日本のマスコミの発言の中には、高市総理が勝利したことに中国は失望した、ざまあみろ的な発言が散見されますが、あまりに愚かな内容で笑うしかありません。

さて、これから日本は、どの方向へ向かうのか。自立するとは、どういうことなのか。なにしろ戦後 80 年間、自立したことが無かったのですから、検討もつかないというのが正直なところです。

何にしても、経験したことのない状況に、日本人は巧みに対応するしかありません。

人生50年時代

■20260211(水曜日:雨) 建国記念の日 ( D 180 )

2020年2月に出掛けたさっぽろ雪まつりの様子です。
たくさんの出店が並んでいました。

■今日は久しぶりのまとまった雨です。太平洋側では、あまりの少雨のために、ダムの貯水量が激減し取水制限が行われています。午前中いっぱいは降り続くようですから、恵みの雨になってくれると良いのですが。

■6年前の写真を見ながら、当時のことを思い出していました。サホロでスキーを楽しんだ後に、電車で戻り新札幌駅前に宿を取り、雪まつりを見に出かけたのです。

ある区画では、鍋の素を販売している会社がスポンサーとなって、鍋料理を無料で提供していました。お椀一杯いただきました。たまたま、東京から仲間と一緒に来ていた大学生の皆さんと話すことができました。

まさに青春真っ盛りの頃です。男女揃って楽しそうに話をしていましたが、もう皆さん社会人になっているはずです。この6年の歳月は、あの若者たちの毎日を大きく変えたに違いありません。私にとっても楽しい思い出です。

■今朝のNHKの朝ドラを見ながら、意外なことに驚きました。小泉八雲といえば松江と反射的に連想してしまうのですが、14年5ヶ月のうち、実はたったの1年半しか松江には住んでいません。この事実は、松江の小泉八雲記念館で知りました。

しかし松江を離れた理由が、冬の間の寒さに耐えきれなかったから、という事を今朝のドラマで初めて知りました。おそらく事実なのでしょう。松江には私も何度か行き、小泉八雲記念館も見学しましたが、寒さに耐えきれず松江を離れた、という記載は目にしませんでした。

当時の日本では、蒸し暑い夏に耐えられるように、風通しの良い木造住宅でしょうから、冬の寒さは現在では考えられない程の厳しさだったと思われます。

しかも調べてみると、彼は生まれてから日本に来るまで、寒さ厳しい地に住んだことが無さそうなのです。

以下は、QwenChatからの引用ですが、

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、1890年4月に日本に来るまで、以下のような地域で暮らしていました:

1. ギリシャ(出生)

  • 1850年6月27日、ギリシャ西部のイオニア諸島・レフカダ島(レフカス島)で生まれる。父親はアイルランド系イギリス人軍医、母親はギリシャ人。[[29]]

2. アイルランド(幼少期〜思春期)

  • 2歳の頃(1852年)、アイルランドのダブリンに移り、大叔母に育てられる。[[32]]
  • 両親から事実上見捨てられ、アイルランドで孤独な少年時代を過ごす。[[45]]

3. イギリス・フランス(教育期)

  • イギリスとフランスでカトリックの教育を受ける。[[27]]
  • 16歳の頃、遊戯中に左目を失明するという不幸な出来事も経験する。[[32]]

4. アメリカ合衆国(青年期〜壮年期)

  • 1869年(19歳)、経済的困窮を理由にアメリカへ渡航。[[36]]
  • シンシナティ:約8年間(1869〜1877年)を過ごし、新聞記者として赤貧から這い上がる。[[39]]
  • ニューオーリンズ:1877年から約10年間(1877〜1887年)、ルイジアナ州ニューオーリンズで新聞記者・編集者として活躍。クレオール文化に深く触れ、『クレオール料理の本』などを執筆。[[43]]

5. 西インド諸島・マルティニーク(短期滞在)

  • 1887〜1889年、フランス領マルティニーク島に約2年間滞在。この経験をもとに『マルティニークの二夏』(Two Years in the French West Indies)を執筆。[[47]]

日本行き

  • 1889年、ハーパーズ・マガジンの依頼で日本取材の旅に出発し、1890年4月に横浜に到着。以後、日本で生涯を終えるまで暮らす。[[41]]

ハーンは「西へ西へ」と移動を続け、一度も故郷に戻ることなく、40歳でようやく「心の故郷」となる日本にたどり着きました。[[31]]

以上の記録から見ると、フランスで厳しい寒さに出くわした可能性はありそうですが、あとは比較的暖かな地域のようです。それが日本に来て、最初の冬が松江となると、辛かったことは想像できます。暖房器具も不十分です。重ね着をしても限界があります。

日本での引っ越しの様子を調べると、以下のとおりです。

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、1890年(明治23年)4月に来日し、1904年9月に亡くなるまで約14年5ヶ月日本に滞在しました。地域別の滞在期間は以下の通りです:

滞在地域と期間

  1. 島根県松江市:1890年4月〜1891年10月(約1年半)
  • 来日直後、松江藩士の武家屋敷に住み、枯山水の庭を愛でるなど日本的生活を送りました。[[6]]
  • 1891年1月に松江の士族の娘・小泉セツと結婚し、同年6月に別の武家屋敷に転居、約5ヶ月を過ごしました。[[14]]
  1. 熊本県熊本市:1891年11月〜1894年10月(約3年)
  • 第五高等学校(現・熊本大学)の英語教師として赴任し、最初の1年は手取本町の家に居住しました。[[11]]
  • 長男が誕生するなど、家族生活を送りました。[[12]]
  1. 兵庫県神戸市:1894年11月〜1896年8月(約2年)
  • 神戸クロニクルなどの英語新聞で記者業と著述活動に従事しました。[[9]]
  1. 東京都:1896年8月〜1904年9月(約8年)
  • 1896年に日本に帰化し、「小泉八雲」という日本名を正式に採用しました。[[7]]
  • 東京帝国大学で文学の教授を務め、『怪談』などの代表作を執筆し、1904年9月に東京で亡くなりました。[[15]]

ハーンは日本各地で異なる生活を送りながら、日本の文化・風俗を深く理解し、『知られぬ日本の面影』『怪談』などを通じて世界に紹介する重要な役割を果たしました。

静岡県民にしてみると、ここで、あれっと思うはずです。焼津に「小泉八雲記念館」が、あるではないかと。と気付いて調べると、焼津は夏の避暑地だったことが分かります。

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、焼津に連続して何年も住んでいたわけではありません。焼津は彼にとって避暑地・バカンス地であり、以下のような短期滞在でした:

焼津滞在の実態

  • 初めて訪れたのは1897年(明治30年)8月4日で、妻セツや子どもたちを伴い、焼津の旅館「秋月楼」に約1週間滞在しました。[[3]]
  • その後、1897年から1904年(没年)までの間に計6回、夏の避暑として焼津を訪れました。[[10]]
  • 毎回の滞在期間は数週間〜2〜3ヶ月程度の短期間で、本拠地はあくまで東京(1896年8月〜1904年9月)でした。[[20]]
  • 焼津では魚屋・山口乙吉の家を借りて夏を過ごし、駿河湾の荒々しい海での水泳を楽しみました。[[19]]

補足

  • 1968年(昭和43年)9月16日に焼津の家は解体され、現在は愛知県犬山市の「博物館明治村」に移築・保存されています。[[4]]
  • 焼津市には「焼津小泉八雲記念館」があり、彼の焼津での足跡や作品を紹介しています。[[11]]

つまり、焼津に「何年間住んでいたか」という問いに対しては、「長期滞在はなく、6回の短期避暑滞在」が正確な答えです。彼の日本での主な居住地は松江(約1年半)、熊本(約3年)、神戸(約2年)、東京(約8年)でした。

■さて最後に思い出すのが、熊本、東京で同じように英語あるいは英文学を教えた日本人がいました。そうです夏目漱石です。

夏目漱石は、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の後任として、1903年(明治36年)4月に東京帝国大学文科大学英文科の講師に就任しました。ただし、正確には「教授」ではなく「講師」としての就任です。

詳細な経緯

  • 小泉八雲は1896年8月から東京帝国大学文科大学の英文学講師として勤務していましたが、1903年1月15日に学長・井上哲次郎名で解雇通知を受け、同年3月31日に正式に退職しました。[[47]]
  • 解雇の理由は、帰化していたにもかかわらず「お雇い外国人」並みの高給を受けていたことや、講師の身分でありながら長期休暇を取得していたことなどが挙げられています。[[50]]
  • その後任として、1903年1月にイギリス留学から帰国したばかりの夏目漱石が、同年4月に第一高等学校嘱託と東京帝国大学英文科講師に同時に就任しました。[[37]]
  • 当時の学生からは、情緒豊かで人気の高かった小泉八雲の講義と対照的に、漱石の理論的・知識詰め込み型の講義は不評だったという記録もあります。[[14]]

補足

  • なお、熊本の第五高等学校でも、小泉八雲の後任として夏目漱石が赴任しています(1896年4月)。[[65]]
  • 漱石は1907年(明治40年)に東京帝国大学を辞職し、朝日新聞社の専属作家となって以降は作家業に専念しました。[[37]]

したがって、正確には「小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の後任として講師に就任」が事実です。漱石は東京帝国大学で「教授」には昇進していません。

なかなかに興味深い偶然です。共通するのは、どちらも還暦を迎えることができなかったという事実です。人生50年の時代でした。

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