■今年は、自分にとって本当に大切な人を亡くしました。O.Y.さんです。Oさんと知り合ったのは、ロータリークラブを通じてでした。それまで同じ地域に住んでいても、職業が違えば、いわば住む世界が違うので、知り合う機会がありませんでした。

そんな時に、同じクラブに所属することになりました。地域の商工会の有力メンバーであったS.Y.さんが、Oさんに入会するよう誘ってくれました。

クラブ創立10周年の時に、私がクラブ会長に指名され運営に当たりました。2,000年7月からの1年間です。心がけたのは、時代の要請に従って、IT化を進めることでした。

メールのやり取りが、まだ難しかった頃でしたので、閉鎖する前の東海大学の教室をお借りして、会員同士でのメール講習会を開催したり、週報を会員自身の手で作成し、経費削減に取り組みました。

新しいことを始めれば、抵抗する方が出るのは当然です。反発もありましたが、なんとか理解を得た会員の協力で、計画を実行することができました。

そして私の後を継いで会長を務めてくださったのが、Oさんだったのです。様々な事情が影響し、私の年度での改革に対する反発もあり、O会長年度は向かい風でした。

どこの組織にも、つまらないことで足を引っ張ろうとする人はいるものです。自分はなんの貢献もできない上に、人の足を引っ張るのですから、本当に、たちが悪いとはこのことです。

私が実行した改革を、Oさんの年度で反古にすることもできたのですが、時代の流れを理解していたOさんは、むしろ改革を応援してくれたのです。あの一年があったおかげで、未だに我がクラブでは改革が継続しています。O会長年度の一年が、大きな分かれ目でした。

■その後2008年から一年間、私が地区の大役を務めた時にも、応援して支えてくれたのがOさんでした。

無事に務め終えた後には、熱川にあった会社の寮に呼んでくださり、二人で一晩酒を飲みながら語り明かしました。まさに戦友でした。いつも私の構想を理解し応援してくれました。

年に数回、いつものメンバーで熱川に泊まり、翌日稲取CCでゴルフをしたのは、本当に楽しい思い出です。ある時には霧がかかり、ほとんど先が見えない状態でのゴルフの時もありましたが、Oさんのユーモアで4人和気あいあい、本当に寛いだ時間を送ることができたのです。


男同士というのは、本当に厄介です。仕事を離れると話すことが無いのです。女性は違います。いくつになっても寄り集まっては、いつまでもおしゃべりに時を過ごしています。これは、すごい才能なのです。男には、残念ながら、こうした才能は乏しいのです。

ですから、仕事を別にすれば、腹を割って話し合うことのできる間柄を男同士に求めるのは、まさに木に縁りて魚を求む、ことに等しいのです。

そうした意味でも、Oさんとは、いつ会っても楽しい時を過ごすことのできる、数少ない友人でした。それはOさんの豊富な人生経験と、他者を尊重することのできる人間性が可能にしたことです。

とにかく人を飽きさせることがありませんでした。ユーモアのセンスが抜群なのです。いささか偏執狂的な、こだわりを持っている部分もありましたが、それはそれで個性です。

Oさんの若い頃の体験談が、また楽しかったのです。いつも腹を抱えて、私は笑い通しでした。名門韮山高校を卒業され、明治大学に進学。麻雀にどっぷり浸かる学生時代だったようです。

何しろ雀荘の二階に寝泊まりするほどの力の入れよう。勝負事が根っから好きだったのでしょう。東大の学生から巻き上げるのが楽しかったとは、大村さんらしいコメントでした。

ですから、麻雀はプロ級。私は麻雀はできないので、その強さはさっぱり分かりませんでしたが、とにかく負けない麻雀だったようです。本当の勝負師は、勝つことよりも負けないことに重きを置くようです。徹夜麻雀は日常のこと。私の大学時代とは、だいぶ様子が違っていました。

■就職されてからの営業マンとしての奮闘ぶりが、また面白かったのです。根っから営業活動が好きだったのです。人との関わりが嫌いな人には営業は向かないでしょう。

ネット時代の今と違って、とにかく会ってもらえないと営業活動はできませんから、面談してもらうための創意工夫、悪戦苦闘ぶりが、下手な漫才より可笑しかったのです。

大村さんが必ず口にされていたのが、自分はこの仕事が好きなんだ、ということです。好きだから一生懸命できる、ということを常々口にしていました。逆に言えば、嫌いで嫌いで仕方ないものに縛られることほど、人にとって辛いことはない、というのが信念でした。

いつもこの話を聞かされていましたので、父親として私は、進路について子どもたちに指示したことは一度もありません。本当に自分が好きでやりたいことをやってくれれば、それで良い、というのが思いでした。

でも、自分が本当にやりたいこと、自分にあっているものに、必ずしも最初から巡り会えるわけでもありません。取り組んでみたが、どうしても自分には合わない、とてもこれを一生続けることは自分には無理だ、と感じたら、進路を変えれば良いのです。

若い間なら、そうしたことも十分可能です。村上春樹さんの「国境の南、太陽の西」という作品の主人公がそうでした。最初に就職したのが出版社で、教科書の制作が仕事の内容でした。自分には、その仕事にどうしても楽しさを感じることができずにいた、と述懐しています。

そして、ジャズバーの経営を始めるのです。このあたりは、村上さんの自伝的要素が強そうです。自分には、この仕事が向いている、と主人公は確信します。経営も順調に推移します。このあたりも村上さんと、うり二つです。

勤め人生活に見切りをつけて、自分の会社を立ち上げます。プラスチック製品組み立て加工の下請けです。昔風にいうと、内職のおばさんに材料を配布し、できた製品を回収する活動から始めたようです。

ワープロのインクリボン仕事では、当たったようです。時代の波に乗って大きな利益を上げました。やがて自分自身の工場を持ち、規模を拡大していきます。

時代の波に敏感でしたから、このままではやがて行き詰まる、という危機感をいつも持っていました。そして大きな決断をするのです。新たな分野、医療分野への進出です。

大学の同窓会で、たまたま再会した仲間が製薬会社に勤務していました。その方を説得して責任者に据え、規制緩和の波に乗って、医療検査キットの組み立て事業を一から立ち上げます。

インフルエンザ検査キットの組み立て部門は、こうして会社の屋台骨になっていきます。いつも言われていたのは、資格で仕事をしている私達と違って、自分たち経営者はリスクを取らなければならない、ということでした。

リスクとともに借金も抱えて勝負をしているのだ、というのが、いつもの口癖でした。それに比べると医者は恵まれている、自分たちとは違う、と言い合いになるのが常でしたが、もちろんそれは、お互い了解の上での口論です。

アイデアマンで実行力もあり、商工会の会長をされている時には、道の駅創設に尽力されていました。この地域の国道1号線バイパス沿いには、道の駅がないのです。道の駅ができれば、地元の農産物を販売したり、様々な地域おこしが可能になる、と夢を語っていました。

もう少しのところまで行ったのですが、最後の最後で頓挫しました。本当に惜しいことをしました。地元のために、本当に残念でした。

■そして運命の時がやってきます。コロナワクチン接種後、ひどい帯状疱疹に罹り、痛みのために大変辛い時期があったようです。神経ブロックまで受けて、回復にも時間がかかりました。

そんな大村さんが5月12日に、急逝されました。本当に驚きました。健康には人一倍神経を配っていただけに、100歳まで生きるのは当然のように思っていたからです。

まさに、茫然自失です。お通夜で最後のお別れをしてからも、いまだに、その死は信じられないのです。ひょいっと玄関から入ってきて、また一杯やろう、と声をかけてくれそうな気がします。

■時々、海外沿いの堤防をジョッギングします。タイマーを掛けて、往復1時間のランニングです。その帰りに、たまたま本社工場の前を通ることを発見。最上階にある出来上がったばかりの社長室に、以前通してもらったことがありました。

その社長室の方角に手を合わせて、ご冥福を祈るとともに、懐かしい思い出話を心のなかで語り合っています。楽しかった思い出が、山のようにあるのです。あの思い出、この思い出、尽きることがありません。

そんな思い出を残してくれた大村さんに、感謝の気持でいっぱいです。