■20180815(水曜日:雨)

 

 

 

■今朝も走りました。蒸し暑くて寝苦しかった頃から見ると、本当に楽になりました。暑さと湿気が重苦しく頭を押さえつけていたような、あの頃の気候からは、もう季節が完全に移ったように思えます。

 

今朝もいつものコースを走り、6.13km を積み重ねました。これで、57.94km となり、残り16日で 42.05km で目標達成です。

 

■東京新聞の連載記事「象徴天皇と平成」は読み応えがあります。「第6部 戦争と平和 上」は、以下の目的を持って始められています。

 

 

天皇皇后両陛下は15日、在位中最後の全国戦没者追悼式に出席される。昭和から平成へと時代が変わり、戦火の記憶が風化する中、陛下は折に触れ、戦争への反省と平和の尊さを語り続けてきた。

戦時中は軍国少年だったという陛下が、戦後の新憲法下で象徴天皇のあり方を模索していく歩みは、父・昭和天皇の実像を知るところから始まったとされる。

資料や関係者の証言で、平和を希求する陛下の原点を探る。

 

 

戦前誰もがそうであったように、平成天皇も「少国民で軍国少年だった」とある学友は、戦前の陛下を評しています。ある日の陛下の作文には、こう書かれています。

 

 

日誌は1945年4月29日付で昭和天皇の44歳の誕生日。昭和天皇が雨の中、外套を着ずに青少年学徒を閲兵したと聞き「実にご立派だと思います」とたたえ「それなればこそ命を投げ捨てて体当たりをする特攻隊も出るのです」と、つづられている。

学友の明石元紹(もとつぐ)は「そうとでも書かない方がおかしい世の中だった」と回顧する。

 

 

陛下が、このような作文を書かれていたことに少し驚きを感じますが、それは当時の状況を知らないものの言葉でしょう。皇太子として、いずれは自分が大元帥として軍を率いる立場になることは陛下もご存知だったのですから、その責任の重さに震えていたのでしょう。

 

 

そして敗戦を迎え、焼け野原になった東京を11月にご覧になった時の言葉が残されています。

 

 

原宿の駅に降りた時、あたりが何もなかったのでびっくりした。

 

 

記事の最後に、こう書かれています。

 

 

敗戦翌年の1946年1月、陛下は書道で「平和国家建設」と記した。明石はその6文字を「どこまで当時の陛下の思いも反映していたか分からない。はやり言葉みたいなものだった」と語るが、後の陛下の歩みを貫く言葉となる。

 

 

戦争と平和を実体験した自分の歴史的な役割というものを、平成天皇は深く自覚されたに違いありません。そして今日は、敗戦記念日。政府主催の全国戦没者追悼式が東京都千代田区の日本武道館で開かれます。来年 4 月に退位される天皇陛下は、最後の参列となります。きっと万感の思いを持って語られるに違いありません。

 

 

陛下の思いを私達も引き継ぎ、決して戦争に加担しない国として、これからも平和で世界から尊敬される日本を築いていかなければなりません。