■20200826(水曜日:晴れ)

昨年訪れた北海道旭岳です。

■今朝は走りました。昨日も昼間は35度を超える猛暑でしたが、日が暮れてからは蝉の声が虫の音に置き換わり、空調を入れなくても過ごすことはできる気温になりました。

今朝も4時半に目覚ましを鳴らし、5時から走り始めました。今朝はいつものコースを長めに走り、桃沢神社まで往復し10.56 km を積み重ねました。

これで通算走行距離は81.41 km となり、月100 km 走まで残り5日で18.58 km の地点まで到達しました。計画どおりの距離に何とか追いつきそうな状態です。

ただ週末は出かけなければなりませんので走ることができません。来週の月曜日、8月31日の最後の日が、とても貴重な一日になりそうな予感です。

■先日の東京新聞に、こんな記事が掲載されていました。「どこへ行く、「葬儀」と「死」です。 宗教学者の蒲池勢至(がまいけ・せいし)さんが「家族葬で閉ざされた死」、「社会性の喪失」と銘打って書かれています。

あっという間に「家族葬」が増えた、と書き出されています。家族葬という表現は魅力的だけれども研究上の厳密な定義はないそうです。およそ30人未満の会葬者で、家族や親族だけで行う葬儀というのが一般的な定義のようです。

世間的な見栄や義理を捨て、本当に愛する者の死を悲しみ悼む儀礼であり異論はないが、その実態には別の課題もある、と指摘されています。

年老いた親が死ぬと、突然子供達が来て「家族葬でします」となり、長い間のお付き合いで世話になったから葬儀に出たいが、家族葬では出るのはやめようかとなってしまいます。地域と人とのつながりの中で生きてきた人の死が、家族葬によって閉ざされてしまう、と蒲池さんは指摘されています。

子供でも親の人生について半分も知らないと蒲池さんは書かれていますが、確かにその通りです。 蒲池さんは最後に、こう書かれています。

死の痛みは生きている自身への懺悔となる。

死とは為すべきことを為し、聞くべきことは聞き、あきらかにすべきことをあきらかにして「命終(みょうじゅう)の時」を迎えることである。

介護も看取(みと)りも、手のかかるものほど愛(いと)おしい。

そして他者を受け入れ、死を受け入れた時、人は優しくなれる。