■20210402(金曜日:晴れ)

花吹雪の中の愛車、インプレッサ・スポーツです。

■今朝はゆっくりと休みました。昨日は朝は、月初めのランニングをしましたし、昼休みにはロータリークラブの例会に出席し、その後新沼津カントリークラブで少しゴルフの練習をしました。

帰ってきて一休みしてから、Sunと一緒に日帰り温泉に行って、ゆっくりと湯に浸かり疲れを取りました。その後二人で一杯やりましたが、疲れもあったのでしょう、帰ってきてからは一時うたた寝をしてしまいました。夜は夜で何回か目が覚めました。暑いような寒いような、苦しいとかつらいとか、そういうことでは決してないのですが、なぜだか熟睡できないのです。

運動をした後、体から疲れが抜けきらないのが、年をとった証拠でしょうか。 こればかりは致し方ありません。上手に自分自身と対話しながら、付き合って行くしかありません。

■さて今朝の東京新聞こちら特報部では、「在日韓国人元 BC 級戦犯・李鶴来さん死去」と題して書かれています。 見出しはこうです。

「最後の一人」不条理訴え、「日本国籍失い保証対象外」同朋のため奔走、「何のための刑死か」晩年まで怒り。

書き出しの部分は、こうです。

『在日韓国人元 BC 級戦犯の李鶴来さん死去、96年の生涯を閉じた。日本軍の捕虜監視員に動員されて戦犯として裁かれたうえ、戦後は「外国人」扱いされて援護の対象外に。処刑された同法の無念を引き継いだ人生が残したものはーーー』

李さんの人生は苦難の連続でした。日本支配下の朝鮮半島で生まれ、1942年、17歳の時に日本軍の捕虜監視員としてタイに渡りました。当時の日本総督府は朝鮮や台湾の青年を動員し、約 3,000 人がアジアの戦場に送られたのです。

泰緬鉄道の建設現場に配属された李さんは、米国や豪州の捕虜を監視したが、2年の契約が過ぎても帰らせてもらえず、終戦を迎えました。そして待っていたのは連合国による戦犯法廷。捕虜虐待の罪で死刑判決を言い渡され、約8ヶ月シンガポールの刑務所で死刑囚として過ごした後に減刑され、 1951年に東京の巣鴨プリズンに移されました。

しかし、翌1952年サンフランシスコ平和条約の発効で、李さんら 朝鮮半島出身者らは日本国籍を失うことになりました。 日本人として戦争の罪を裁かれながら、外国人と見なされて日本政府の援助から排除されたのです。日本の元軍人・軍属に支給される恩給や遺族年金もありません。

捕虜収容所の末端で、上官の命令に従うしかなかった朝鮮の青年たちが裁かれたのです。朝鮮人 BC 級戦犯148人のうち、23名に死刑が執行されました。生前李さんは、こう訴えていました。

日本人戦犯の場合は自分の国のために死んでいくんだとまだ思えるのだろうが、韓国人の場合はそういう気持ちさえ持てなかった。誰のために、何のために死ななければならなかったのか。ーー刑死者に報いてほしい。不条理を正したい。

超党派の日韓議員連盟は特別給付金を支給する法案をまとめましたが、成立していません。幹事長の河村建夫衆議院議員は「このままでは済まされるものではない。ご逝去を無にしない」と誓うように語っています。

■BC 級戦犯の問題は、 テレビドラマ「私は貝になりたい」で多くの国民が知ったはずです。フランキー堺さん主演のこのテレビドラマを、私も見た記憶があります。まさに不条理の塊です。

戦争そのものが不条理なのですが、結局被害者となるのは、弱い者たちなのです。強いもの、ずる賢いものは、最初に逃げ出し、そして生き延びているのです。

そうした人々の一部が、戦後の日本を作り上げてきたのです。私たちはそのことを、ほとんど学んでいませんし、知ってもいません。 まずはそのことを知ることから、 戦後目指すはずだった真の民主国家日本が、生まれてくるのではないでしょうか。