2023 年 09 月 02 日 TakuとMasato とNonと一緒に訪れた熱海初島です。

月: 2018年8月 Page 2 of 4

誕生日

■20180821(火曜日:晴れ)

 

 

 

■今日は私の65回目の誕生日です。自分自身が65歳になるなんて、本当に夢のよう、というか悪夢のようです。

 

 

(●^o^●)

 

 

大学に入りたての頃、テニス部の先輩に、「おまえ何年生まれだ?」と訊かれて、「昭和28年です」と答えて、驚かれたのを覚えています。その先輩にとっては、別世界から来たかのように感じられたのでしょう。それがいつの間にか、後輩たちが平成生まれと聞いて、本当に驚きましたが、あの当時の先輩の気持ちが分かりました。

 

■今朝は走りました。昨夜は暑苦しくて寝苦しかったのですが、何とか起き出して、いつものコースを走り、6.14km を積み重ねました。これで 76.29km となり、残り10日で 23.70km の所まで来ました。あと4回走れば目標達成です。

 

 

■65歳になったからというわけでもないのでしょうが、アチラコチラの衰えというか筋肉痛で困ります。最近はランニングやゴルフの後には、ヘソから下の丹田と呼ばれる部分の筋肉痛に襲われます。横になった状態から起き上がろうとすると痛みます。今まで、そのようなことは無かったように思います。

 

 

ということで、何だかんだとブツブツ言いながらも元気は元気です。ここ数年は風邪をひいていません。これは有り難いことです。気管支が弱い私には、これが一番のご褒美です。冬でも暖房はコタツだけ。夏でも寝る時には冷房はかけません。走り続けているおかげで、風邪に苦しむこともないのかもしれません。

 

 

これから先、どうなることか想像もできませんが、とにかく積み重ねていくしかありません。将来を思い煩っても、なるようにしかなりません。なすべきことを、毎日積み重ねていく。それだけを考えて過ごしていくしかなさそうです。

 

 

丹田

■20180820(月曜日:曇)

 

 

 

■今朝は走りました。いつものコースを、6.11km 走り総計 70.15km 残り11日で29.85km と30キロを切るところまで辿り着きました。相変わらず右太ももの違和感があり、不安を抱えながらのランニングなのですが、何とかだましだまし完走しています。

 

 

昨日はゴルフでしたが、最近は困ったことに、終わって家に返ってくると筋肉痛に襲われます。特に最近は、丹田、つまりはへそから下の部分の痛みを来すようになりました。

 

 

ランニングコーチの金 哲彦さんが、丹田に力を入れて前傾姿勢を保って走ること、と指導の中でよく話されています。今まで、ゴルフの後に丹田部に痛みを覚えるということは、あまり無かったように思います。それだけしっかりと丹田に力を入れて打つようになった、と言えばプラスのように聞こえますが、実は丹田の筋肉が衰えてきて、今までの運動量に耐えきれなくなった、というのが真実かもしれません。

 

 

要は、年を取って筋肉量も減り、力も衰えてきた、という単純にそれだけの話しかもしれません。以前毎日していた腹筋運動を、再開したほうが良い、という兆候なのかもしれません。困ったものです。

 

 

 

月例

■20180819(日曜日:晴れ)

 

 

 

■今日は新沼津カントリークラブの月例でした。Bクラスの格下げになりましたが、おかげ仲間と一緒にプレイできるのは、本当に楽しいひとときです。有り難いことです。こうして楽しいひと時を一緒に送れる友人がいるというのは、まさに人財産です。これはお金には替えられません。

 

赤井さんは静岡市からお越しくださいました。赤井さんこそ、本当の紳士です。世の中には偽物が多いのですが、赤井さんこそは、本当に紳士なのです。そうした友人を持てることの幸せを、つくづくと噛み締めています。

 

 

赤井さん、久松さん、植松さんです。本当に素晴らし友人です。感謝、感謝です。

 

 

■素晴らしい仲間は良いのですが、腕前がさっぱりなのは困りものです。最近は100回を切るのが難行になってきました。本当に困ったものです。以前よりも上達している、と思われる部分もあるのですが、全体としては下手になっています。

 

歳のせいにしたくないのですが、結局はそれなのでしょうか。もっと練習しないと駄目なのです。

 

(●^o^●)

 

 

 

 

 

沼津の海

■20180818(土曜日:晴れ)

 

 

 

■今朝は走りました。爽やかな朝です。昨夜は本当に秋が来たのかと思える、ちょっと冷え込むほどの夜でした。窓は全て閉めて寝ました。

 

ということで、今朝は爽やかな空気の中を、のんびりと 6.09km を走り、残り13日で35.96km の残となりました。あと6回走れば目標を達成できます。しかし相変わらず右太腿の痛みが消えません。負担を掛けないようにはどうした良いか、思案しながらのランニングでした。普段は捻ったりしなければ、ほとんど痛みを感じないのですが、なかなか完治しません。

 

 

■さて昨日の東京新聞には、とても嬉しい記事が掲載されていました。「エンタメ 日和」です。昨日取り上げられたのは、映画「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」でした。

 

 

漫画家の押見修造が実体験をもとに描いた同名のコミックを、実写映画化した青春ドラマ

 

 

と、あります。副題には、「沼津の海に心和む」とあります。かつて同様に沼津の海に魅せられた一人としては、ぜがひでも観たい映画です。残念ながら今のところ静岡市でしか見ることができません。もちろん内容も素晴らしいようです。吃音(きつおん)という障害を持つ主人公が、不器用ながらも仲間と心を通わせ合う。誰もが、本当は孤独で自分の心の殻に閉じこもっているのです。

 

 

40年近く前でしたが、沼津の海は本当に光り輝いていました。あの輝きは忘れることができません。

 

 

GAFAの時代

■20180817(金曜日:晴れ)

 

 

 

■昨夜は寝苦しい夜でした。久しぶりにゴルフの練習をしたのですが、頑張りすぎたようです。筋肉痛と右内股の腱鞘炎が悪化したようです。夜中に鎮痛剤を服用して軽快しましたが、年寄りの冷や水でした。今朝は走らずじまい。積み重ねは明日に延期です。

 

 

■予報では、今日も気温は30度を超えるものの、湿度が半分ほどに低下するために、秋の爽やかな気候になりそうだ、とのことです。一直線に秋になるわけでもないでしょうが、ようやく記録的な暑さとはおさらばできそうです。記録的な暑さといえば、Takuの披露宴でお客様へのお礼の挨拶の中で、「ご多忙の中、そして歴史的な暑さの中お越しいただきましたみなさまに御礼申し上げます」と述べたことを思い出します。また来年歴史的な暑さがやって来る度に、Takuの披露宴を思い出しそうです。

 

 

■さて野口 悠紀雄さんの本を再読していますが、例えば以下の部分は、とても大切です。

 

 

GAFA のすべてが、このような革新的技術によって支えられている。これらのいずれもが、ごく少数の人間によって生み出された革新的なアイディアだ。GAFA に限らず、高度サービス産業では、創造性から生み出される革新が、きわめて大きな利益と成長をもたらしている。

こうしたアイディアは、簡単に出てくるわけではない。誰にも考えつくようなものではない。それらを考え出すためには、適切な環境が必要である。だから、個人の創造性を引き出す労働環境を整備することが、大変重要だ。

このため、アメリカをリードする先端ハイテク企業は、さまざまな工夫をして、大企業病に陥ることを避け、個人の創造性を引き出そうとしている。」

『「産業革命以前」の未来へ ビジネスモデルの大転換が始まる (NHK 出版新書)』(野口 悠紀雄 著)より

 

 

IT時代の覇者、グーグル、アマゾン、フェイスブック、アップルについての指摘です。翻って考えてみると、どうも日本では実現が難しい内容です。個人の創造性という面で日本人が劣っているわけではないのですが、社会の仕組みが、そうなっていないように思われるのです。そして、その点がこれからの時代に大きな重荷になってきそうなのです。

 

 

まずは教育から変えていかないと駄目なのでしょうが、とても難しい問題です。

 

 

 

杞憂

■20180816(木曜日:雨)

 

 

 

■今朝はゆっくりと休みました。二日続けて走りましたし、ここは休養が必要でした。午前7時4分現在、激しく雨が降っています。台風の影響で九州だけでなく、東日本も観測史上に残る大雨になりそうです。

 

 

■東京新聞記事「象徴天皇と平成 下 第六部 戦争と平和」を読むと、終戦当時軍国少年だった平成天皇が人間として、どのように成長されてきたかを窺い知ることができます。昭和天皇の子として戦中、戦後を生きた平成天皇にとって、思いは複雑であったに違いありません。

 

戦後73年は、いわば平成天皇の人間としての成長の73年でもあったと思います。そして行き着いた思いが、「平和希求 背中で語る」であったのです。即位後は戦後50年の長崎、広島、沖縄、60年のサイパン、70年のパラオなど慰霊の旅を、陛下は続けましたが、元宮内庁幹部は、こう語っています。

 

 

花を手向け、頭を下げる姿を示すことで、国民に忘れてはいけないと背中で語った。

 

 

象徴天皇としてどうあるべきか、ということが、もちろん第一義的な課題であったに違いありませんが、平成天皇という一人の人間が、過去とどう向き合い、そして未来に向かってどうあるべきか、という重い課題と格闘した73年でもあったはずです。そこには誠実で真摯な人間像が浮かび上がってきます。

 

 

近代以降、平成は戦争のなかった初めての時代でした。それだけ日本は、明治以降戦争に次ぐ戦争に明け暮れていたのです。国際情勢の変化が一番大きな要因ではあるのでしょうが、戦争という手段が永遠に消え去ったわけではありません。

 

 

平和というのは戦争を始めるより、よほど強い精神力を持ち続けないと維持できないものです。

 

 

冷静に彼我の違いを判断し、無謀な行動を取らない、という基本中の基本を、日本人は忘れがちです。貴重な戦力となるはずの若い兵士を、特攻という手段で失うことを選ぶ精神状況。それを止められない日本という国が持つ、いわば空気の存在。このあたりは、岸田秀さんの「ものぐさ精神分析」に書かれているとおりです。

 

 

そして私が心配するのは、いまだにあの当時の精神状況が、根本的に解決されていないように見える点です。被害者意識と夜郎自大的な精神、日本の素晴らしい面の一部だけを過度に強調することで、こうした歪んだ精神を満足させる行動の数々。とても不思議に思えるこうした言動に、実は多くの日本人が酔いしれている、というか、精神的に逃げ込んでいる、とすら私には思えるのです。

 

 

そうすることで、現状は素晴らしい、決して自分たちは間違っていないのだ、と思い込み心の安定を得ようとする。こうした行動では、しかしながら問題を解決することはできません。先送りしているだけです。そして、いつかまた暴発しかねないのです。そのことを私は、本当に心配しています。

 

 

杞憂であってくれればよいのですが。

 

 

 

敗戦記念日

■20180815(水曜日:雨)

 

 

 

■今朝も走りました。蒸し暑くて寝苦しかった頃から見ると、本当に楽になりました。暑さと湿気が重苦しく頭を押さえつけていたような、あの頃の気候からは、もう季節が完全に移ったように思えます。

 

今朝もいつものコースを走り、6.13km を積み重ねました。これで、57.94km となり、残り16日で 42.05km で目標達成です。

 

■東京新聞の連載記事「象徴天皇と平成」は読み応えがあります。「第6部 戦争と平和 上」は、以下の目的を持って始められています。

 

 

天皇皇后両陛下は15日、在位中最後の全国戦没者追悼式に出席される。昭和から平成へと時代が変わり、戦火の記憶が風化する中、陛下は折に触れ、戦争への反省と平和の尊さを語り続けてきた。

戦時中は軍国少年だったという陛下が、戦後の新憲法下で象徴天皇のあり方を模索していく歩みは、父・昭和天皇の実像を知るところから始まったとされる。

資料や関係者の証言で、平和を希求する陛下の原点を探る。

 

 

戦前誰もがそうであったように、平成天皇も「少国民で軍国少年だった」とある学友は、戦前の陛下を評しています。ある日の陛下の作文には、こう書かれています。

 

 

日誌は1945年4月29日付で昭和天皇の44歳の誕生日。昭和天皇が雨の中、外套を着ずに青少年学徒を閲兵したと聞き「実にご立派だと思います」とたたえ「それなればこそ命を投げ捨てて体当たりをする特攻隊も出るのです」と、つづられている。

学友の明石元紹(もとつぐ)は「そうとでも書かない方がおかしい世の中だった」と回顧する。

 

 

陛下が、このような作文を書かれていたことに少し驚きを感じますが、それは当時の状況を知らないものの言葉でしょう。皇太子として、いずれは自分が大元帥として軍を率いる立場になることは陛下もご存知だったのですから、その責任の重さに震えていたのでしょう。

 

 

そして敗戦を迎え、焼け野原になった東京を11月にご覧になった時の言葉が残されています。

 

 

原宿の駅に降りた時、あたりが何もなかったのでびっくりした。

 

 

記事の最後に、こう書かれています。

 

 

敗戦翌年の1946年1月、陛下は書道で「平和国家建設」と記した。明石はその6文字を「どこまで当時の陛下の思いも反映していたか分からない。はやり言葉みたいなものだった」と語るが、後の陛下の歩みを貫く言葉となる。

 

 

戦争と平和を実体験した自分の歴史的な役割というものを、平成天皇は深く自覚されたに違いありません。そして今日は、敗戦記念日。政府主催の全国戦没者追悼式が東京都千代田区の日本武道館で開かれます。来年 4 月に退位される天皇陛下は、最後の参列となります。きっと万感の思いを持って語られるに違いありません。

 

 

陛下の思いを私達も引き継ぎ、決して戦争に加担しない国として、これからも平和で世界から尊敬される日本を築いていかなければなりません。

 

 

 

 

 

平戸

■20180814(火曜日:曇)

 

 

 

■今朝は走りました。昨夜から今朝にかけて、急に涼しくなりました。一日で夏から秋に季節が移り変わったのかと思えるほどです。5時に起きて準備をして、走り始めたのが5時半頃。暑さも峠を超えたためか、昨夜熟睡できたためなのか、あるいは右太ももの痛みが軽減したためなのかは分かりませんが、今朝は今までとは違って気持ちよく走ることができました。

 

 

やはり痛みが無いというのは有り難いことです。全く違和感がない、という訳にはいかないのですが、明らかにこれまでとは違います。休養が取れて、炎症が収まってきたのでしょうか。6.16km を走り、総計51.81km、残り17日で 48.19km まで来ました。

 

 

■先週の夏休みで九州へ出かけ、台風と台風の合間に楽しい時を過ごすことができました。今また台風15号が九州に近づきつつあるようです。大雨の恐れがあると警報が出ています。本当に幸運でした。暑くてバテましたが、大雨に遭うことを思えばなんでもありません。

 

 

最後に泊まったのが平戸でした。Wikipediaによれば、

 

 

平戸市(ひらどし)は、長崎県北西部の平戸島とその周辺を行政区域とする市で長崎県と九州本土の市としては最西端に位置する都市。旧平戸藩松浦氏の城下町で、鎖国前は中国やポルトガル、オランダなどとの国際貿易港だった。

1641年(寛永18年)- オランダ商館が長崎の出島へ移転、平戸での南蛮貿易が終焉を迎える。

 

 

と、あります。つまりは出島に窓口が集約される以前は、国際貿易で繁栄を謳歌した、ということです。

 

誰もが、そしてどの地域も歴史の中で生きるしかありません。平戸も例外でありませんでした。しかし貿易で繁栄した地域というのは、開かれた、そして異文化を取り入れるという点で、独特の佇まいを見せます。そこが魅力なのです。町並みも古い佇まいを残しており、のんびりと歩くには、とても魅力的な街に思えます。

 

ただし車で通るだけですと、道幅は狭いし、近代的とは言えない、その町並みは不便といえば不便です。しかし近代的な町並みなどは、掃いて捨てるほどあります。税金を投入して近代化しても、少しも魅力的でないのは、各地を訪れれば歴然としています。古いものこそが新しいのです。

 

 

 

 

 

 

街の歴史

■20180813(月曜日:曇)

 

大分県玖珠町の様子です。福岡から由布岳への道の、ちょうど2/3 を過ぎた辺りです。

 

 

■夏休みも終わり、今日からは日常が再開です。昨日は雷が激しく鳴り響き、恐ろしいほどでした。5時半にSunと家を出て、ザブーンでゆっくりとお風呂に入り、旅の疲れを取りました。そして、そのまま一杯やって旅の思い出を語り合いました。

 

 

本当に楽しい旅でした。いささか厳しい日程の場面もありましたが、知らない街をドライブするのは楽しいものですし、知らなかった街の歴史を知ることは、さらに楽しいものです。

 

 

 

アジアとともに

■20180812(日曜日:曇)

 

カトリック平戸ザビエル記念教会です。

 

 

■今朝は走りました。いつものコースを 6.14km 走り、これでようやく月100キロ走の計画に追いつきました。合計39.65km となり、残り19日で 60.34km となりました。

 

 

先週はSunと二人で夏休み。九州旅行を楽しみました。レンターカーを使っての結構目いっぱいの移動旅行です。計算すると毎日220キロ超を走ったことになります。借りた車はホンダのフィットでした。リッター当たりの平均走行距離が25キロの旅でした。ですので、最初に満タンの状態でスタートして、最後に車を返却するまで給油する必要がありませんでした。ハイブリッド車は違います。

 

 

■昨夜は富士山静岡空港から帰宅したのが、21時半頃。窓を開け放って荷物を整理したら、さすがに疲れて、それからお風呂に出かける元気はありませんでした。今夜のお楽しみです。

 

 

旅行中も暑苦しい夜でした。ホテルですと冷房を入れないと寝付けないのですが、高千穂で泊まった民宿「暖心(のごころ)」では、寝る時には冷房をかけていたのですが、夜中に目が覚めて、思い切って窓を開け放して冷房を切りました。

 

 

女将さんの話では、このあたりでは夜は冷房を入れることは殆ど無いようですが、今年は例外とのことでした。ただ冷房を入れて寝ることで家族三人が全員風邪を引いたそうです。山の中ですから、昼間どれほど暑くても、夜は冷えるのです。私が泊まった部屋は、東と南に窓がある構造なのです、風が抜けずに窓を開けるだけでは寝付けないだろう、と心配して冷房をかけたのですが、杞憂でした。十分涼しく、明け方には寒いほどに冷え込みました。

 

 

昨夜は我が家に帰って、いつもの部屋で寝たのですが、冷房など必要ありませんでした。いや扇風機すら必要なく、熟睡できました。我が家が一番快適です。単なる慣れなのでしょうけれど。

 

■今日は一日家でゆっくりしました。午前中は青空も覗きましたが、午後からは黒い雲が空を覆いはじめ、時折激しい雷と雨が降る天候。今日は新沼津カントリークラブの月例ですが、とてもプレイどころではない、という天候になってしまいました。

 

旅の間の記録をまとめる作業で一日終わってしまいました。写真と記憶を頼りに、記録をまとめるのですが、記憶とはいい加減です。順番に思い出そうとするのですが、どちらが先立ったか後だったか、あるいはどこに行ったのかさえ分からなくなります。

 

その点GPS機能付きのスマホでの写真撮影は、情報整理に大変役立ちます。つまりは写真を撮ったのは、どこどこで何時何分だったか、という情報が間違いなく記録されますから、それを辿れば良いわけです。

 

ベトナム支援の旅でも、そのことを痛感しました。インタビューの記録をもちろん取るのですが、全く理解できないベトナム語での会話と印刷された資料では、誰を、どの順番で話を聞いたのか、後になると全く分からなくなります。写真に記録された情報が、あとで大変参考になります。

 

そういった機器のなかった以前の話を支援隊の仲間に聞くと、全くと言っていいほど、情報が残っていません。うろ覚えの雲をつかむ様な話の連続になってしまいます。それでは人様に活動の内容をお話することはできません。単なる思い出話でしか無いからです。もちろんそれはそれで大切な内容なのですが、聴衆を前に話すようなものではありません。

 

やはり記録係がいて、きちんとした記録を残していかないと、単なる個人の思い出づくりに過ぎなくなります。難しい問題です。

 

■ということで、なんとかまとめた旅の記録は、こちらからどうぞ。

 

⇒ 2018九州旅行

 

 

 

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