■20190902(月曜日:晴れ)
■今朝はゆっくりと休みました。昨日は防災の日で、沼津市の保健センターで行われた防災訓練に、医師会のメンバーとして参加し、トリアージの仕方を学びました。静岡医療センター、そして沼津市立病院の災害援助チームDMATの皆さんが来られて指導をしてくださいました。静岡医療センターの小澤先生がまず全体のお話をされて、その後グループに分かれて、現場における実際の手順を学びました。
現実の救護所に置いては、押し寄せる患者さん、1人あたり30秒で仕分けしなければならないようです。これは大変なことです。3人一グループのに別れて、それぞれが患者役、仕分けをする役、そして記録する役と三通りの役割を順番で実際に体験しました。負傷した患者さんの立場になれば一刻も早く治療を受けたいわけですが、押し寄せる患者さんの優先順位を付けることはとても難しいことです。
■さて、午前中いっぱいの訓練も無事に終わり、家に帰る途中のコンビニで買った冷やし中華を昼食として食べました。昨日の朝は9月の初めの日として、走り始めの日でしたので、いつものコースを6.2キロ程走りました。昼食後に少しまどろんで休みを取り、午後からゴルフの練習に出掛けました。
ところが練習の途中で体調に異変が起きました。脱力感と軽いめまいのような症状が起きたのです。いつもの軽い低血糖症状かとも思ったのですが、今回はいつもより重症でした。練習を続けるのはさすがに無理と判断し、木陰に入ってヘタリ込んでしまいました。15分から30分の間でしたでしょうか、木陰で風に当たりながら、体調が戻るのを待ちました。
先日練習していた時にドライバーが壊れてしまい、昔使っていたものを持ち出して練習しようと思ったのですが、さすがにこれ以上練習するのは無理と判断し、家に戻ることにしました。脱力感とまだ体がフラフラしましたので、運転して家に帰るのは心もとないほどでした。
何とか無事に家に帰り、甘いものを早速むさぼり食べました。一口大のアイスクリームと、鳩サブレーです。これで何とか一息ついたと思いましたが、とにかく横になっているしかありませんでした。
夕方帰ってきた、Sunと一緒に日帰り温泉に行きましたが、どこで夕食をとるか、散々迷いました。通常なら、ご苦労さん会と称して一杯やるのです体調からすると、どうもそんな元気もなさそうでした。しかしお風呂に入って、なんとか元気を取り戻しましたので家に車を置き、居酒屋さんへ出かけたのです。
■さて今日は、ベトナム建国の父、ホー・チ・ミンさんの命日です。1969年心臓発作のために亡くなられました。今でもベトナムでは、「ホーおじさん」として慕われています。どこへ行っても肖像画が掲げられています。その様子は、旧ソ連時代のスターリンや北朝鮮のキム一族のものとは、少し違うように感じました。
フランスの植民地として国民生活は、ひどい状態にあったわけですが、そんな中から、多くの仲間とともに、独立を勝ち取っていくのです。そんな歴史を学ぶと、アジアで数少ない欧米諸国の植民地とならなかった日本は、本当に幸運でした。
しかし太平洋戦争でアメリカに敗北した日本が、その歴史をきちんと精算すること無く、あやふまなまま戦後を送ったことの代償を、今払いつつあるようにも思えます。自分たちに不都合は歴史を認めない、という行動を取り始めているからです。経済的に行き詰まり始めている、という面も大きく作用しています。先進国中、唯一のマイナス成長国です。もちろん政府の経済政策の失敗なのです。全ては政治の問題なのです。その結果、「貧すれば鈍する」となり、ネット右翼的な人々が大活躍することになったのです。
ある識者が指摘していましたが、派遣労働者の増加などで雇用形態が変わり、労働者の所属がすっかり変わってしまった。その結果、所属している組織が掛けていた、これまでのタガが外れてしまった、というのです。労働組合も含めて、会社という組織が、それぞれの日本人一人ひとりを社会人として、いわば涵養してきた。つまり「水が自然に染み込むように、無理をしないでゆっくりと養い育てること」をしてきたのですが、その役割を果たすべきものが無くなってしまった、というのです。
良くも悪くも、戦後の日本は会社社会だったのでしょうか。所属する会社が、戦後の秩序を守ってきた面があるようです。欧米の識者が、日本のように宗教教育をせずに、どうして社会の道徳・秩序を保っているのか不思議だ、と首をかしげる話は、よく聞きましたが、日本では会社という宗教団体が、その役割を担っていたのでしょう。いまや、そのタガが外れたのです。これは恐ろしいことです。真剣に考える必要があるのです。
コメントを残す