2022 年 02 月 11 日 北海道小樽市街と石狩湾です。

月: 2019年4月

亡命者

■20190410(水曜日:雨)

富山県護国神社近くで撮りました。
富山県護国神社近くで撮りました。

■今朝はゆっくりと休みました。昨日の夜の天気予報では、 西から低気圧が近づき雨が降る上に、北の低気圧のために冷たい空気が入り込むために、関東地方でも平野部で雪が降る可能性があるとのことです。日中の最高気温が、札幌よりも東京の方が低いとも予想されています。さすがに今日は皆さん外出を控えるのではないでしょうか。昨夜は掛け布団の上から薄手の毛布をかけて休みました。今朝は5時38分に目が覚めて起きだし、ビニールゴミを持って雨の中を、所定の公園前まで傘をさして行きました。まだ、それほど強い雨ではありませんでした。

■さて今朝の東京新聞「この道」欄では、歌手の加藤登紀子さんが、「あなたに捧げる歌」と題して第2回目を書かれています。今日の題名は「ハルビンの詩」です。ご両親が昭和10( 1935)年、新婚生活を始めたハルビンを、昨年12月に旅行をされました。当時のご両親の様子を綴られていますが、最後にこう書かれています。

父や母が一緒に暮らしたロシア人の多くは、ロシア革命の時に亡命した貴族や思想弾圧を受けた文化人、ユダヤ人など、国籍を持たない移住者たちだった。守ってくれる国がなくても、伝統や食習慣を守り、音楽の絶えない彼らの生き方に、母はたくさんのことを教えられた。敗戦ですべてをなくした戦後の荒波を毅然と生きぬくことができたのは、彼らを見ていたからだと、母は言っていた。

私などのように日本に生まれて日本で育った人間には、亡命者の生活など想像もできません。多くの日本人にとっても同様でしょう。しかし考えてみれば、1945年8月を境にして日本人は、いわば庶民全員が亡命者のような状態に突き落とされたのではないでしょうか。何しろそれまで信じてきた一切のものが、一気に崩れ落ちてしまったわけですから。 道徳も、そして国自体も。そう考えると加藤さんのお母さんが言われていたことに、とても納得できるのです。

デフレ要因

■20190409(火曜日:晴れ)

夕日に映える富山城と、城址公園の桜です。
夕日に映える富山城と、城址公園の桜です。

■今朝は走りました。昨夜は11時前に寝たのですが、12時を過ぎて寒さのために目が覚めてしまいました。驚いて薄い毛布を掛け布団の上から、さらに1枚掛けたほどでした。 大した冷え込みでもないのかもしれませんが、一旦暖かい気温に慣れてしまうと、こうした冷え込みが大変辛く感じます。ということで今朝は7.17 km を走り、今月の通算走行距離は31.06 km。残り21日で68.93 km となりました。明日は雨の上、真冬並みの冷え込みとの天気予報ですので、朝は走ることができないようです。気長に機会をみて走るしかありません。

■さて今朝の東京新聞3面には、働き方改革の死角ーー「低賃金正社員 デフレ要因に」と題して記事が掲載されています。

正社員であっても昇給制度もなく、非正規とさほど変わらない低賃金に喘ぐ人が増えている。「正社員なら将来が安心」という時代は過去のものになりつつある、とあります。正社員でも昇給制度がない業種はどんどん広がっています。長時間働いても給料はわずかの場合があり、「時給換算で非正規のアルバイトの方が高いケースも多い」ともあります。

結局、正社員、非正規社員のどちらにしても、ギリギリの生活をしている人が多いために、国内で消費が増えず経済がデフレ脱却できない要因になっている、と指摘されているのです。「新・日本の階級社会」を著した早大の橋本健二教授も「低賃金正社員が次世代に引き継がれる傾向もうかがえる」として「階級の固定化」に警鐘を鳴らしています。

要は、労働者に支払われる割合が減っているわけです。経費が減りますので、企業としての利益は当然増えることになり、一見企業の業績は好調のように思われます。しかし社会全体を考えれば、消費が減りジリ貧の状態に陥ります。とても子育てまで手が回らないわけです。当然少子化となります。どこかで負の循環を断ち切らなければなりません。どのような社会とすべきなのか。 強欲さばかりが闊歩するような社会は、必ず破綻するのです。我々は今、重大な岐路に立たされているのです。

国の形

■20190407(月曜日:雨)

松川沿いの桜です。
松川沿いの桜です。

■今朝は目覚ましを5時に合わせて走るつもりでした。目覚ましの音で目を覚まし耳を澄ますと雨音が聞こえてきました。起きだして窓を開け外を見てみると地面が結構濡れています。これでは走ることはできませんので、目覚ましを、もう一度6時に合わせ直して、眠りにつきました。6時に起きだして玄関を出てみると、雨脚がかなり強まっています。週末に、この雨が降ったら大変でした。お天気の神様は、今回の味方をしてくれたようです。

■昨日は統一地方選の前半戦でした。41道府県議選と17政令市議選が行われましたが、道府県議選では総定数に占める無投票当選者の割合は、過去最多の26.9パーセント。四人に1人が有権者の審判を受けないで、議員に就くことになります。 私自身は土曜日の午後から出張でしたので、木曜日の午後に期日前投票を済ませていました。 県議会議員選挙の沼津選挙区も、選挙区の定員4人に対して、新人が一人立候補したために無投票とはなりませんでした。 しかし得票率の低迷が続いています。

政治はとても大切です。自分たちの未来、或いは幸せを決定すると言っても、言い過ぎではありません。低得票率が続いている間に、国の有様は、どんどんと劣化しているのです。 自由に投票できる民主主義国家では、とても皮肉なことなのですが、それが現実なのです。国民はそのことに気づいていないか、あるいは気づこうとする様子もありません。 国民が着実に豊かに幸福になっているのなら、それも良いかもしれませんが、そう信じることのできる方は、多分少数派であるに違いありません。

先週末富山を訪問した際に驚いたのは、花見を楽しむ市民の中に、多くの外国人と思われる方がいたことです。外国語が飛び交っていました。観光客には見えませんでした。 日本はすでに立派な移民大国のように思えます。知らない間に、なし崩し的に、国のあり様が変わっていくのは、アメリカの現状を見ると、とても心配になります。ごまかしの数字でなく、ごまかしの説明でもなく、きちんとした予想を国民に開示して、国の形を議論していかないと、とても危ないのです。日本の民主主義も、私たちが考えているほど、強靭ではないのかもしれません。

40周年記念式典

■20190407(日曜日:富山 曇り)

富山市松川沿いの桜並木です。多くの市民が花見に訪れていました。
富山市松川沿いの桜並木です。多くの市民が花見に訪れていました。

■昨夜は富山県眼科医会会長の片山先生、副会長の新田先生、そして千葉大学病院の山本院長と一緒に、楽しいひとときを送ることができました。眼科医会の運営について、あるいは医療制度について、そしてよもやま話に花が咲きました。

三次会は午前1時まで、続きました。こんな事は何年ぶりでしょうか。でも、とても楽しい時間でした。ざっくばらんに、色々なお話ができるというのは、本当にありがたいことです。

■さて、今朝は昨夜の遅い就寝にもかかわらず、6時に起きて走りました。ドジなことに、ランニングウォッチを持ってくるのを忘れましたので、スマホのアプリで記録を取りました。通算5キロ程度でした。この五キロの加算はとても大切です。路面電車が走っている道なりに、富山大学のキャンパスまで行きました。途中、桜が満開の場所が何箇所もあり、曇り空でしたが、十分楽しむことができました。

市内を流れる松川沿いの桜は、見事でした。昔、家族揃って出かけたことを思い出しました。話を聞くと、今年は富山では、4月に入って雪が降り、桜の花に雪が舞ったそうです。それも、また美しそうです。

さてランニングから帰ってきて、朝風呂に入りました。ホテルには大きな湯船が2階に三つも揃っています。これがドーミーイン富山の大きな売りです。さっぱりしてから部屋に戻り、昨夜買っておいたコーヒー牛乳とサンドイッチを食べました。着替えをしてしばらく休んでいると、うとうととしてしまい目が覚めると9時44分でした。慌てて準備をしてホテルを出ました。

歩いて5分のところにあるホテルで、記念式典が行われるのです。40年前に、日本中で一県一医大を目指して、新設校が続々と作られました。当時富山医科薬科大学と呼ばれた、現在の富山大学医学部の開講です。その記念式典が城址公園前にある、 ANA クラウンプラザホテルの3階で開催されたのです。10時からは千葉大学付属病院長の山本先生の記念講演、そして医局員一同での記念写真の後、懇親会が始まりました。昔お世話になった、懐かしい顔ぶれの先生ともお会いすることができて、本当に楽しいひと時でした。 食事を取りながら、昔話に花が咲きました。あっという間に時間が過ぎ、14時6分発のかがやき号で東京に戻りました。そして東海道新幹線を乗り継いで我が家にたどり着いたのです。本当に楽しく、また有意義な週末でした。

歴史の重み

■20190406(土曜日:晴れ)

新沼津カントリークラブの桜です。
新沼津カントリークラブの桜です。

■今朝はゆっくりと休みました。 昨夜は夕食後に時間が取れましたので、録画してあったルキノ・ヴィスコンティ監督の映画「山猫」を最後まで観ることができました。イタリアのシチリアを舞台にした映画です。シチリアの歴史を知っていれば、より深く映画を理解できるのでしょうが、残念ながら私にはその知識がありません。ただ私の一番の愛読書である、「地中海のほとり」に、シチリアの歴史に触れた一章があり、とても興味深く読みましたので、全く予備知識がない、というわけでもなかったのです。

ヴィスコンティ監督自身が貴族の末裔だったそうです、自分自身が消えゆく階級の一人であった、という背景が色濃く映画の中に出ています。 何百年にも渡る貴族たちの家系が持つ重みが、ひしひしと感じられるのです。 そして時代は、その貴族たちを舞台から葬り去ろうとしているのです。 新しく勃興する階級、そして消え行く階級。いつの時代にも、そしてどこの国でも繰り返されてきた歴史の一部です。 一つの階級が消え去るということは、一つの文化が消え去るとも言えます。

彼らが長い時間をかけて築き上げてきた文化。それは衣装であったり、絵画であったり、料理であったり、ダンスですらあります。そうした消えゆくものへの哀惜が色濃く感じられるのです。 長い長い年月をかけて築き上げられた、こうした文明の重圧が、アメリカ社会には無いのかもしれません。 それがアメリカ社会の素晴らしい点でもあり、 同時に難しさなのかもしれません。

そんなことを強く感じた映画でした。

電子書籍

■20190405(金曜日:晴れ)

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国道1号線バイパス沿いの桜並木です。もう少しで満開です。

■今朝はゆっくりと休みました。朝方冷え込むまでは、暖かな夜でしたので、掛け布団を一番薄手のものに変えました。 ところが朝方の冷え込みで、今度は寒くて寝付けなくなり、再び掛け布団を掛け替えることになりました。 今日は暖かいものの、風が強くなるという予報です。毎日、毎日天気予報に一喜一憂しながら、天候の変動に振り回されています。暖かさと寒さが、 入れ替わり立ち代わり、舞台に登場するような毎日です。

■私より十歳年上の先輩と、昨日お話をする機会がありました。もう本を読むのが億劫になってしまい、最近はほとんど本を読まなくなった、とお話しされていました。その気持ちは、とてもよくわかります。 高齢者が印刷された本を読むことに困難さを覚えるのは、次の2点にあると、私は思っています。一つは文字の大きさです。老眼鏡をかけなければならないのはもちろんですが、それでも文字を追うという仕事は、なかなかに負担が大きいのです。もう一点、私が感じるのは、ページをめくるという行為が、若い時に比べてずっと面倒になってきた、という点です。指先の感覚が衰えてきているのでしょう。文庫本などの小さくて、使用されている用紙が薄い書物の場合、その困難さを特に感じます。

しかし年をとればとるほど、楽しみの中に占める読書の割合は、若い時よりも、むしろ大きいように私には思えます。年をとればとるほど、外へ出ることが億劫になりますし、活動することも面倒になってきます。 多くの高齢者は、こたつに入ってテレビを見続けるという生活が、結局ほとんどになってしまいます。 もちろん、それはそれで悪くはありません。誰に迷惑をかけているわけでもありませんから、それはそれで良いのですが、ただもったいないような気がするのです。生きている限り、考えること、そして体を動かすことを、続けていきたいと私は思っています。考えるためには文字を読むことが不可欠です。そしてアウトプット、つまり考えたことを文章として記録していくことも、とても大切だと思うのです。考えているだけでは、空を漂う雲のようなもので、とりとめもなく、あっという間に消え去ってしまいます。文字という形に固定することは、考えをまとめる上で不可欠なのです。

そこで電子書籍の出番です。昨日の先輩にお話を伺うと、 電子書籍は利用されていないようです。とてももったいないと、私は思うのです。電子書籍を利用するためには、特別な能力や、多くの資金が必要なわけではありません。極端に言えば、今ではスマホがあれば電子書籍を読むことができます。ただしスマホでは文字が小さすぎて、高齢者には難しいと思います。液晶画面というのは、とても綺麗ですので、映画などを楽しむには最適なのですが、長く文字を読み続けると、やはり負担が大きいのです。絵画についての本、あるいは写真を多用した本などでは、カラー写真を綺麗に見ることができますので、確かに液晶画面が最適です。しかし文字だけを読むのであれば、液晶画面よりも、むしろ白黒画面で読む方が、ずっと目に対する負担は少なくて済みます。eInkの出番です。 昔と違い、技術も進歩しましたので、この電子インクの画面は印刷された書物を読むのと、ほとんど変わらずに読書を楽しむことができます。 代表的な製品が、 Amazon の Kindle です。日本語が表示できなかった頃からの利用者である私には、その進歩には、文字通り目を見張る思いがします。ページの移動なども、とてもスムーズになりました。改良して欲しい点は、まだまだありますが、その利便性は、印刷された書物を十分上回っていると思います。

楽天も今では、Koboという電子書籍用の端末を発売しています。外国の会社を買収して発売しているはずです。私はこの製品を利用したことはありませんので、 Kindle との違いは分かりません。ただ Kindle ではKobo 用の電子書籍を読むことはできませんし、その逆も然りです。 Kindle にはなくて、Kobo 用にだけ発売されている電子書籍というものがあるのかどうかは、私には分かりません。 どちらかだけにしか対応していない電子書籍があれば、私たちは端末を二つ用意しなければならないことになります。これは、とても不便です。そうしたなか、最近中国のある会社が、こうした電子書籍用の端末を発売していることを知りました。Likebook という製品です。 eInk を使用した、画面の大きさも Kindleよりも大きい、 Android 端末という製品です。こうした製品が、日本の会社からではなく、中国のベンチャー企業から発売されているというのが、今の実情なのです。

先輩に電子書籍の利用を勧めてみようと思っています。

サバの水煮缶

■20190404(木曜日:晴れ)

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恋人岬の休憩所です。

■今朝は走りました。朝方気温がぐっと下がり、そのためでしょうか、嫌な夢を見て熟睡できない時間を過ごしました。5時に目覚ましを鳴らしたものの、そのためもあって起きだしたのは5時半近くになってしまいました。今朝は資源ごみの日でしたので、2週間ほど前から食べ始めた、鯖の水煮缶を所定の位置に廃棄してきました。 体質から悪玉コレステロールが少し高く、運動のおかげもあって善玉コレステロールも高いので、バランスから言えば正常範囲内なのですが、悪玉コレステロールを下げようという狙いです。鯖の水煮缶が、コレステロールの沈着を防ぐという話を、知り合いの方から Sunが聞いてきました。毎日一缶を食べるのが目標なのですが、12缶食べ終わったところで、採血して調べてみるつもりです。

今朝は6.00 km を走り、これで今月は通算18.89 km、 残り26日で81.10 km となりました。 昨日これまでのランニングの記録を見返してみました。2013年3月に初めてマラソン大会に出場しました。今はなくなりましたが、駿府マラソンのハーフの部でした。現在では静岡マラソンとなり、フルマラソンだけとなりました。それからしばらくは、目新しさも手伝って、今振り返ると随分頑張って大会に出場していました。2014年には年間9回も大会に出ていたことを知って、改めてびっくりしたほどです。距離は10キロからハーフまで、様々でしたけれども、前日宿泊したり当日の朝出かけたりと、せっかくの日曜日を潰して出かけていたのです。今では考えられません。去年は千歳マラソンとお伊勢さんマラソンの2回だけでしたので、随分と減ってしまいました。今年も今のところ予定としては、千歳マラソンしかありません。秋にでも群馬県で、Takuと一緒に大会に出場できればと願っています。なかなか難しいかもしれませんけれども、検討してくれないかと、先日Takuに頼んでおきました。

文化財

■20190403(水曜日:晴れ)

伊豆半島。恋人岬の休憩所です。
伊豆半島。恋人岬の休憩所です。

■今朝はゆっくりと休みました。昨夜の天気予報では、今朝の冷え込みはプラス1度でした。真冬並みの冷え込みです。ということで準備をして布団に入ったのですが、夜中に暑くなってフリースを脱ぎ、薄手の毛布を外しました。しかし明け方になって、やはり冷えてきたようです。薄手の毛布を掛け布団の上に、かけ直しました。5時半に起き出してビニールゴミを所定の位置においてきた後で、朝食をとりました。今朝の朝食は、コーヒー一杯、バナナ一本、納豆一パック、そしてヨーグルトでした。月曜日の夜、そして昨日の夜と、夕食が重めでしたので、今朝は軽めにしました。

■今朝の東京新聞「本音のコラム」欄では、文藝評論家 斎藤美奈子さんが「文化財への道」と題して書かれています。元号が次第に文化財への道をたどっているのではないか、という趣旨の内容です。 例えば、こう書かれています。

それでいくと平成は、昭和以上に元号が形骸化した時代だった。東日本大震災が平成何年だったか覚えています?答えは平成23年だけど、単に何年かと問えば、多くの人は2011年と答えるはず。ーー行政文章で使用されているとはいえ、合理性や国際性が求められる時代に、元号は合わなくなっている。直接生活の役には立たないが、歴史的・文化的な価値があるものを文化財という。従来の機能を失った現在の元号もすでに文化財に近い。

なるほど、たしかに一理あると思います。そして最後にこう書かれています。

ことの性質からいけば、元号は内閣と切り離し、文化庁か宮内庁の所管にしたっていいほどだ。政治利用よろしく首相が得々と意味を解説するなんて醜悪な姿も見なくて済むし。

確かに、首相の長々した解説には、うんざりでした。そしてそれを、営々と放映し続けるテレビ局は、さらに醜悪でした。

令和

■20190402(火曜日:晴れ)

旅人岬です。残念ながら、富士山は雲に隠れていました。
旅人岬です。残念ながら、富士山は雲に隠れていました。

■今朝も走りました。5時に目覚ましを合わせていたのですが、4時半頃に目が覚めてしまい、そのまま起きだそうかとも思ったのですが、そのまま布団にとどまりました。でも結局眠ることはできませんでしたので、なんだかんだと色々な思いを巡らす時間となりました。昨日の朝も走ったのですが、その前の晩に食べた焼き芋が功を奏したのか、走っている途中でトイレに行きたくなり、切り上げて家に戻りました。そのために6 km 弱しか走れませんでしたので、今朝は予定通りのコースを走り、結局7.08 km を走り通算12.88 km 残り28日で78.11 km となりました。 記録を見ると7 kmのうち、5キロを過ぎてから、むしろペースが上がり、昨日よりはずっと軽快に走ることができました。6月の千歳マラソンに向けて、トレーニングを積み重ねるしかありません。今月も日曜日は予定が詰まっており、 LSDができるかどうか微妙なところです。

■さて昨日は一日、元号発表に終始しました。 新元号「令和」が発表された1日でしたが、まさに元号祭りの様相でした。もちろんそれはそれで大変結構なことだと思います。しかし逆に大変違和感を感じたのは、首相会見でした。今朝の東京新聞「こちら特報部」欄にも書かれていましたが、安倍首相のはしゃぎすぎが異様なほどに目立つばかりでした。 夜の NHKニュース9にも顔を出し、 まるで自分が決めたかのごとくにしゃべりまくっていましたが、とても奇妙で奇異に感じました。まるで選挙演説のごとくです。記事の中でも、こう書かれていました。

宗教評論家の大角修氏は、

元号は純粋に儀礼的なもので、本来は選定や発表に関わる人は己を無にして臨まなければならない。そこに私的な思いを持ち込むから不純な印象を受ける。

と、話しています。この言葉にすべてが語られていると思います。安倍首相の行動には、 あまりにも不純なものが入りすぎているのです。 またそうした行動を煽るかの如く報道する NHK の報道姿勢というものには大変疑問があります。 抑制された知性というものが全く感じられないのです。 軽薄そのものとすら思われるほどです。 元々そうだったのかもしれませんが、安倍政権になって以来、本性が剥き出しになった、と感じられるのは私だけでしょうか。ジャーナリズムが堕落する時、国の進路は大変危うくなる、とは歴史の教えるところです。

新しい時代

■20190401(月曜日:晴れ)

伊豆の海です。風が強く、白波が幾重にもたっていました。

■今朝は走りました。新しい月の始まりの日。毎月、毎月、一からのやり直し、積み重ねの始まりなんですが、今朝も5時に目覚ましを鳴らして起きだしました。縁起を担いで、今朝は8 km を走ろうと出発したのですが、昨夜夕食に焼き芋を食べたおかげでしょうか、途中でトイレに行きたくなり、コースの途中で家に戻りました。結局5.80 km を走り、今月も100 km 目指して積み重ねの開始です。

先週末はTakuとYukoさんが沼津に遊びに来てくれましたので、戸田の民宿に四人で泊まり、日曜日には伊豆半島をドライブしました。朝の9時頃に宿を出発し、三島駅に着いたのは結局、14時過ぎでした。14時21分の新幹線で東京へ向かいました。恋人岬から黄金崎に行き、黄金崎では桜の花の下で、野点(のだて)と琴の演奏を楽しみました。外国の方もたくさん来られていました。地元の中学生でしょうか、女生徒が和服を着て、ボランティアとしてお手伝いをしていました。やはり日本の女性には和服がとても合います。ベトナムの女性にはアオザイが似合うように、時代が変わり、若い人々の体型も変わったとはいうものの、それが伝統というものなのでしょうか。

■さて今日のお昼には新しい元号が発表されます。1ヶ月の準備期間を経て、来月からは、いよいよ新しい時代のスタートです。平成という時代は戦争もなく、平和であったことは間違いありません。しかし冷戦の終焉で、 歴史は動きました。それまで覆い隠されていた、いわば潜在意識といったものが噴出した時代とも言えます。決定的な敗戦という事実を、 精神的に整理整頓することなく、糊塗したまま高度経済成長に突っ走った、日本の土台があらわになったとも言えるのです。

安倍政権登場以来、 ヘイトスピーチに代表される精神的な下劣さといったものが、 何の恥じらいもなく、露出されるようになったのです。本当に恐ろしいことです。 東に向かって卑屈になり、西に向かって居丈高になるという、明治以来の日本人の分裂した精神状態というものが、 再度爆発寸前にまで煮えたぎってきているように見えます。新しい時代に入り、私たち日本人は、こうした精神状況に、きちんと向き合って、決着をつけていかないと、また奈落の底に突き落とされることになりかねません。そのことを本当に心から、私は恐れているのです。

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