2023 年 09 月 02 日 TakuとMasato とNonと一緒に訪れた熱海初島です。

月: 2019年10月 Page 2 of 4

再生 Day 5

■20191021(月曜日曇り)

バクザン省でのブーゲンビリアです。

■昨日は一年ぶりにバクザン省の職業訓練センターを訪問し、センター長のThuyさんを始め施設の子ども達と楽しい一時を過ごしました。施設を訪問するのは4回目ですが、まるで昨日訪れたような、そんな懐かしさが感じられました。日曜日ということもあり、施設にいた子供たちも少なめだったのですが、寄付していただいた医薬品や紙おむつや、そして私たちからの支援金を皆さんにお渡ししました。昨年寄贈させていただいた、リハビリ器具もしっかりと使用されているようで嬉しい思いでした。

施設長さんとのお話し合いも終わり、私は持参したスポットビジョンスクリーナーを用いて施設の子供たち、そして職員の皆さん、さらには施設長さんの目の状態などを調べて、友人達から頂いていた中から、もしも適当なメガネがあれば、使ってもらおうと思っていました。幸い二名の入所者には、近視の眼鏡と老眼鏡を、そして施設長さんにも、遠近両用メガネが使用可能でした。近視の眼鏡をあげた子供さんは、遠くが見えることにとても喜んではしゃいでいました。そしてみんなに掛けろ、掛けろと勧めている様子は、とても微笑ましいものでした。眼科検診が終わった後には、隊員の一人である金原昇さんが、色々な楽器を操ることが得意なので、ハーモニカとギターを伴奏に、みんなで歌を楽しみました。

■さて、今日は8時にホテルでThuyさんと待ち合わせて6件の被害者家庭訪問をする予定です。ところがいくら待ってもやってきません。ベトナム独特のベトナム時間なのかなと、みんなでイライラし始めたところへThuyさんがやってきました。あとで知ったのですが、バクザン省枯葉剤協会副会長のクワンさんが待ち合わせて、一緒に来てくれるように予定されていたようです。すぐ近くにある総合庁舎で副会長さんを待っていて、どうも遅れたようでした。予約8時半にホテルを出発し1軒目の家庭訪問が始まりました。

03ファム・ティ・フオン
o4ハ・ティ・タウォ
05ホン・バン・スン
06ファン・ドック・チュン
07

タン・ティ・サン

08ヴ・ヴァン・ラム

8時25分トゥイさんとバクザン省枯葉剤被害者協会副会長クワンさんがやってこられ、854分には地元枯葉剤協会の方が更に1人同行し、道案内をしてくれました。総計14名のバス旅行となりました。

「「 No 03 ファム・ティ・フオン 」」

五人の子ども。3人に障害。すえっこ。80万ドン支援金。姉が隣に住む。 父は77歳。母は74歳。父の支援金は、110万ドン。枯葉剤を浴びたのは父親。父は大きな体調異常は無い。脚が不自由。クワンチ省で被曝。35歳。知能障害。手足の震え。日常生活すべての面倒を見ている。治療は受けている。最低限の意思の疎通は取れる。痛いの表示あり。姉も手の震えが酷い。 暗い納屋のような部屋でレンガじきの部屋。手足が曲がったまま。

「「 No 4 ハ・ティ・タウォ 」」

1988生まれ、31歳。


背中の骨が曲がっている。手術を受けた。脊柱湾曲症になっている。座っていると痛みができる。他の障害は今のところない。手術を受けたばかりで、仕事ができない。120万円かかった。しなければ、あと3年で死んでしまうと言われた。


子供が3人が枯葉剤被害。子供は5人。父親と3人の枯葉剤被害者、支援金合計550万ドン。他の2人の被害者。妹は同居しているが、同様に脊柱湾曲。まだ手術を受けていない。他に障害はよくない2人ともとても美人。


Thuyさんが二人に職業訓練センターでパソコンなど技能を身に付けるよう勧めている。いずれ稼げるようになり親の面倒をみることも出来る。


フエで被曝。1972年に被曝。18歳で。奥さんが田んぼで米を栽培している。母は63歳。父は65歳。

「「 No 5 ホン・バン・スン 」」

姉妹。弟と姉。姉は知的障害がある。弟は糖尿病で右目は失明している。支援金は2人で140万ドン。食べたりなど生活は自立している。おばさんが、生活一切を面倒見ている。妹は知的障害があり彷徨をすることもある。


1972、1976生まれ。クアンチ省で父か被曝。4年前に肺がんで亡くなった。両親共に亡くなっている。

「「 No6 ファン・ドック・チュン 」」

 

お母さんは75歳。本人は1976年生まれ。父は亡くなっている。90万ドンの支援金のみです。90している、兄は正常で異常はなく、普通に生活しているが、生活が厳しくシーンはしてもらえない。本人には精神障害があり、暴れることもある。自分のことは自分で出来るが、てんかん様発作などを起こした時はできない。ラオス付近で、父は枯れ葉剤に被爆した。田んぼもないので、農業は出来ない。

「「 No7 タン・ティ・サン 」」

1978生まれ女性。子供は3人で旦那さんは死んだ、。長女次女、長男。母と2人暮らし。母は1956年生まれ。2年前に旦那さんは亡くなった。糖尿病で内臓を壊して死亡した。次女と長男は普通に生活をしている。誰も子供の面倒見てくれない。90万ドン 。月の枯葉剤支援金。収入は他にない。水頭症で生まれた。大体は自分で身の回りのことはできる。学校は小学校も行っていない。知的障害がある。悲しくなって、しょっちゅう泣いている。夫はニャンチャンで被爆した。米も作っているが、食べる分は作れないので支援金から購入している。

「「 No8 ヴ・ヴァン・ラム 」」

ダナンで被曝。42歳の長男と一緒に暮らしている。長男は口蓋裂と知的障害がある。孫には脳障害がある。21歳。学校には行かなかつた。枯葉剤被害者の認定は現在のところ2代目までで3代目からは支援金は出ない。バクザン省では三代目までの被害の発生を確認している。現在、支援金の支払いの申請をしている。1950年生まれのちゃん父。肺ガン末期に掛かっている。ダナンで被曝。1ヶ月50万ドンの支援金を父だけが受けている。今日なんとか入れ、農業をして米を作っている。枯れ葉剤被害の認定受けているのは、父のみ。孫さんも障害を持っている。

再挑戦 Day 4

■20191020(日曜日 晴れ)

バクザン省の夜明けです。

■今朝は走りました。バクザン省に戻ってきて、例年泊まっていたホテルに昨夜は宿泊し、今朝は5時前に起きてホテル前の大きな広場を六周しました。これで5.6キロメートルを積み重ねることができました。例年通り、ベトナムの方もたくさんの方がウォーキングを楽しんでいました。それでも例年に比べると若干少ないように感じました。驚いたのは、5時半になると一部の街灯が消えてしまったことです、節電のためでしょうか。とはいっても、明るくなり始めてきましたし、小さな街灯は点いていましたので、暗くて怖いということはありませんでした。

■トラブル続きの支援の旅も、今日で4日目です。昨日は結局一日を無駄に過ごしてしまいました。諸監督官庁との連携が上手くいっていなかったために、支援活動が出来ずに 、いわば無為に過ごしてしまいました。

はるばる日本からやって来たにもかかわらず、予定の活動が出来ずに、皆さん忸怩たる思いで日々を送ることになってしまいました。

さて今日は予定では職業訓練センターでの活動は予定されています。そして午後からは家庭訪問の予定ですが、果たしてうまくいくか、どうか不安な思いです。

■8時半にホテルを出て、バクザン省職業訓練センターに向かいました。一年ぶりの訪問です。トゥイ所長さんとは、3年間に渡って活動をお世話してもらいました。今日も私達を暖かく迎えてくれました。トゥイさんのお話では、

センターには、現在16名が入所。6名が通っている。入所者並びに通所者の年齢構成は4歳から40歳まで。パソコンの勉強や造花の作成などを職業訓練としている。おもにバラの。バラは永遠を意味し、みなさんに好まれる。支援隊のためにも一人ひとりに作ってくれた。バラを作ることによって、手先の訓練や頭の訓練にもなる。バラ1輪で10000万ドンから200000万ドンまで売れる。子供達の為に注意から薬草とってきて、常時飲ませている。

暖かく迎えてくれたトゥイ所長さんと一緒に。

さらなるトラブル Day 3

■20191019(土曜日:晴れ)

ベトナム・ニンビン省の夜明けです。

■今朝は6時半に起きて朝食をとり、8時半にホテルを出ました。3時間のバス旅行の予定で、昨年まで活動をしていたバクザン省の職業訓練センターに向けて出発しました。こちらでの活動を依頼していた被害者協会のビンさんは、不手際が露呈して以来、結局今日も顔を見せることはありませんでした。私達としては、一言で良いから不手際を侘びてほしい、という気持ちで一杯でしたが、その行動には、とても残念な思いでした。人としての取るべき道、という点で、他山の石でした。

途中トイレ休憩を挟みながら、懐かしいバクザン省のホテルに到着したのが11時頃でした。ホテルに寄って予約を確認し、昼食を取るためにバスに乗り店まで出掛けました。

毎度、毎度同じように見える、ベトナムのご飯ですが、新しい料理が、その度に一つぐらいは登場します。今回は鳩の肉料理でした。頭まで丸焼きにしてありますので、ちょっと食べにくいのは間違いないのですが、食べてみると味付けはよくできていました。お店の女将さんはとても親切にしてくれて、珍しい食材をわざわざ紹介してくれました。

さて昼食も終わり、午後から支援活動ができると期待していたところ、急用のため本日は施設が利用できないという連絡が入りました。詳細は全くの不明ですが、あの施設長さんがいい加減な約束をすることはないと思いますので、こちらの通訳との間で十分意思の疎通ができていなかった可能性も考えられます。とにもかくにも相手のあることでので、こればかりはこちらの思いだけでは、いかんともし難いのです。

みんなで再度相談しました。明日には間違いなく施設の受け入れは可能だ、ということなのですが、疑心暗鬼ばかりが先行してしまい、見通しが立ちません。いままでこんなことが無かっただけに、みなさん失望と落胆の気持ちでいっぱいです。忙しい中、時間をやりくりして駆けつけてたわけですから、無為のまま帰るわけには行きません。二軒の被害者家庭訪問だけでなく、なんとか残りの活動も完結して帰国しなければ、と気持ちが焦るばかりです。

活動開始 Day 2

■20191018(金曜日:曇り)

ホン・サン・ピースホテルロビーにある立派な木彫りです。

■昨日は午後から新幹線と京浜急行を乗り継いで羽田空港に到着し16時35分発のベトナム空港便でハノイノイバイ空港に到着しました。現地時間のちょうど夜8時頃でした、日本時間では夜の10時となります。現地の気温は25度。蒸し暑いという程ではありませんが、台風一過すっかり秋らしくなった日本とは、やはりかなり差があります。

タインさん、息子さんのトゥン君、そして運転手さんのチュンさんが出迎えてくれました。早速バスに乗って、まずはハノイ市内に向かいました。道路は毎年整備が進み、ところによっては片側五車線の道路もありました。軽く夕食として牛肉フォーを食べました。1年ぶりのベトナム食でしたが、この店のフォーはとても美味しかったのです。

今年初めてのベトナム食です。懐かしのフォーです。専門店だけあって美味しかったです。

どういうわけか、牛肉フォーしか置いていない店が多いのです。私としてはチキン・フォーが希望なのですが、行った先々で牛肉フォーしかありませんでした。

今年最初のベトナムでの乾杯です。ベトナム語で言える数少ない語彙です。

さて、それからもう一度バスに乗り込みニンビン省のホテルに向かいました。ホテルに向かうハノイ市内の様子は、道路の周辺に高層ビルが立ち並び、昨年よりもさらにいっそう大都市化しかしているようでした。ハノイを抜けてからは有料高速道路が整備されていて、車は順調に目的地に向かうことができました。

ホテルに着いたのは現地時間23時30分。三星のホテルということで、とても立派なホテルでした。810号室に一旦みんなで集まり、支援物資の確認をしました。ようやくベッドに入ることができたのが、零時半を回っていました。明日はフロントに9時に集合し、活動の開始予定です。

ニンビン省のホテルに到着。右から三番目の時計が東京の時刻、午前1時半を示しています。

「「「 活動開始 」」」

■昨日は飛行機バスと乗り継いて、夜中の12時前にホテルに着きました。さすがに皆さん疲労困憊でした。今朝は7時に目覚ましを合わせ、これから朝食を取るために一階におります。外は曇り空、幸い雨は降っていないようです。

ホテルは三星の立派なホテルなのですが、昨夜シャワーを浴びて見て驚きました。排水が全くと言っていいほどできないのです。つまり、シャワーを浴びると、浴室中が水浸しになってしまうのです。床の傾きが排水口とは反対方向になっているのです。一見、作みはとても一派なのですが、これはいただけません。今日は苦情を告げてみる予定です。9時にはフロントに集まって出発ですので、それまでに朝食をとる必要があります。

少食を取りに食堂へ行きました。仲間の皆さんに話を聞くと、それぞれの部屋で問題があったようです。私の部屋は浴室だけでしたが、電気系統に問題があり、スマホの充電ができなかったり、ショートを起こして、湯沸かし器が壊れてしまったり、電灯の金具が外れだりと、多事多難です。このホテルには4泊しますので、なんとか対策を建てる必要がありそうです。

家庭訪問の前にホテル前で記念撮影。ビンさんに役所から問い合わせの連絡が、すでに入っていたようです。

上の写真は家庭訪問出発前の撮影ですが、ビンさんの困惑した表情には、状況の厳しさが反映されていることが、今にしてみれば明らかです。この後、ビンさんは行方をくらましてしまい、二度と会うことはありませんでした。なぜ段取りがきちんとできずに、そんな事態になったかの説明は一切ありませんでした。

01ブー・フェー・ホアン
02ディ・ヴァン・カイ

■Day 1 一軒目 ブー・フェー・ホアン 

祖母が子供の面倒を見ていました。

ブー・ フェー・ ホアンさん。2011年生まれの男の子。動くことはできず、生まれてからずっと、寝たきりの生活です。今は祖母と一緒に2人で暮らしています。祖父が従軍し枯れ葉剤を浴びた。父は亡くなったが、母は家出をして現在家にはいない。枯葉剤を浴びた祖父の妻である祖母と2人で残り暮らしている。父は5年前に死去、母は生後2ヶ月で家出をした。周囲の方から母乳を集めて、祖母は孫を育てた。祖父の軍人年金と枯葉剤被害者への支援金を合わせ1ヶ月90万ドン(約 4,215 円)で生活している。祖母には子供が外に4人いるが、経済的に苦しく支援はない。椅子に座らせて時折、外に連れだしている。食事はお粥、流動食のみ、祖母が作って与えている。診察も受けることなく、薬の服用もしていない。自分自身では、食事の要求もできない。会話は出来ない。祖母は57歳。ホアンさんは枯葉剤とは関係なく身体障害者支援金を受けている。

2 軒目 ディ・ヴァン・カイ 

障害を持った20歳の息子さんです。

2番目の家庭は1999年生まれのディン ヴァン カイさん、20歳。兄は健在。ハノイで仕事。父は58歳従軍中に枯れ葉剤を浴びたが障害は無い。祖父が枯葉剤被害者で、すでに死亡。支援金は無し。父が仕事で生活。100万ドン。言葉は理解出来る。知的障害はない。本人は枯葉剤被害者認定無し。身体障害者補助のみ。家から病院まで10キロ以上。両親で交替で子供の面倒を見ている。

■昼飯を食べて、午後の活動を確認した時に驚くべきことが発覚しました。ニンビン省枯葉剤被害者協会のビンさんに活動の手配を依頼していましたが、人民委員会などの役所の許可が取れていないことが判明したのです。ボランティア活動をするためには、観光と違い、許可を得ないといけないのです。ところが、その許可が下りていなかったのです。

役所の担当者の方が来られてパスポートを確認し、活動の目的などを事情聴取されました。午後の活動は結局中止となり、相談の結果みんなで世界遺産の見学に出掛けました。夕方になり連絡を取ったものの、結局明日からの活動も許可は出ないとことになり、急遽昨年まで活動をしていたバクザン省職業訓練訓練センターの所長さんに連絡を取りました。

Thuy所長さんも私たちの申し出を喜んで受け入れて下さり、急遽明日の午前中にバクザン省へ移動することになりました。3時間の道のりです。明日の午後は職業訓練センターでの活動、そしてその後は可能であれば被害者家庭の訪問ができるかどうか、いま問い合わせを急遽しているところです。

ボランティア活動のためとはいえ、被害者の家庭を訪問するためには、人民委員会、被害者協会などの許可が必要な為に手続きに時間がかかるのです。今年はそういった面での手配が十分できていなかったことになります。支援隊の皆さんはお忙しい中、時間を作り、参加費を捻出した上での参加ですので、活動もしっかりせずに帰るわけにはいきません。支援物資を寄付や、支援金をいただいた皆さんの期待を裏切るわけにもいきません。大釜支援隊会長をはじめ、みんなで知恵を出し合って、残された時間内で、いかに有効な活動ができるか話し合いました。

こうした非常事態の時にこそ、仲間の団結と助け合いが何より大切なのです。非難し合っているだけでは、何の問題も解決しません。前向きに事態と取り組むしかないのです。

方丈記そして旅へ Day 1

■20191017(木曜日晴れ)

羽田空港出発ロビーです。16:35分発VN385便です。

■いよいよ旅立ちの日がやってきました。あれからもう1年が経ってしまったのです。今日は午前中の仕事を終えた後に新幹線、そして京浜急行の電車を乗り継いで羽田空港まで行く予定です。ベトナム枯れ葉剤被害者支援の旅2019です。

昨夜はのんちゃんと3人で夕食をとりましたが、思い返してみると初めてベトナム支援のために出かけたのは2008年でした。あの時はノンちゃんもあやちゃんも参加しましたので、家族4人での旅でした。11年前です。その後色々なことがあって、結局今も残っているのは、家族の中では私1人だけになってしまいました。

あの当時の支援隊の仲間も様々な理由から別れてしまい、結局今年出かけるのは八名となりました。何事も続けるというのは大変なことです。隊員の皆さんも高齢化が進み、活動すること自体が体力的にも難しくなってきています。

被害者の家庭訪問をするとなると、バスで回って、さらに家まで歩かなければなりません。例えば膝が痛いとなると、これが結構負担になるのです。昨年は山奥に住んでいる被害者宅を訪問したのですが、施設からバスで、なんと3時間もかかりました。家の玄関先まで車で行くことができないので、途中でバスを降りて、そこから15分ほど山道を歩いた事もありました。膝の痛みを抱えた高齢者には、かなりの負担なのです。

今年の支援活動が、どのようなものになるのか。昨年とは異なった地域を訪問する予定ですので、楽しみでもあり不安でもあります。

■さて、今朝の東京新聞「私の東京物語」欄では、あのポップデュオ「トワエモア」の白鳥英美子さんが「愛すべき阿佐が谷」と題して書かれています。白鳥さんは神奈川県の横須賀で生まれましたが、お父様の仕事の関係で3歳の頃に、杉並区の阿佐ヶ谷にある会社の寮へ家族で引っ越されてきたそうです。白鳥さんはこう書かれています。

私の家から杉並第1小学校までは歩いて10分ぐらいの距離だ。学校のそばには神社とお寺が道を隔てて並んでいた。大きな銀杏の木があった神社では、放課後ランドセルを木の幹において友達と馬跳びをしたり、お寺の方では、かくれんぼや鬼ごっこをして遊んだ。世尊院という名のそのお寺は、今では境内のあった場所に道路が開通し、駅から早稲田通りに繋がる中杉通りとなっている。

なぜこの記事が目に止まったかといえば、私も同様の経験をしていたからです、京都生まれの私は3歳頃まで京都にいたのですが、父の仕事の関係で東京を経て、埼玉県の川口市の団地に引っ越しました。

今でも自分では、埼玉生まれの埼玉育ちのような気持ちでいます。3歳から19歳までの時期を川口市で過ごしましたので、そう思っても不思議ではありません。

白鳥さん同様、近くのお寺や神社で過ごした時間が、今でも私にとっては貴重な思い出となっているのです。川口市飯塚町にあったその団地も、今では区画整理でマンションとなってしまい、家族とともに過ごした家は、もうどこにも無くなってしまいました。あとかたもありません。

まさに方丈記が何百年も前に描いた、そのままです。きっとこれからも同じことが繰り返えされていくのでしょう。

 

無関心

■20191016(水曜日:雨)

昨年訪れたベトナムのある農家です。枯葉剤被害に苦しむ一家です。

■今朝も走るつもりで準備をしていたのですが、なかなか起きだせませんでした。3時少し過ぎに一度目が覚めて、また眠ろうとしたのですが、どうやら掛け布団が薄すぎて、寒さの為に目が覚めてしまったようです。

10月に入っても気温が高く、暑さのために寝苦しい日があったことが、つい昨日のことのように思い出されます、今度は寒くて熟睡できない季節になったのです。

しかも、よく耳をすますと雨音が聞こえてきました。今朝は雨のようでしたので、起き出すのは止めました。5時半頃起き出して、ビニールゴミを所定の位置に運び、家に戻って朝食の準備をしました。

昨日の夜は医師会の理事会があり、出かけましたが、今日は学校医をしている近隣の小学校の就学時検診です。昼休みに出かけなければなりません。団地を多く抱える私の地域では、昔は小学校1年生は3クラスから4クラスもありましたが、今では一クラスになってしまいました。今日出かける学校の就学時検診の児童数も30名ちょっとだそうです。

検診は短時間で終わるので、楽といえば楽なのですが、これだけ子ども数が減ってしまうと、地域に子どもたちの声が響くことがあまりなく、寂しい限りです。子どもは宝だな、と本当に痛感するばかりです。

■さて今朝の地元の地方紙には、フォトジャーナリストの安田菜津紀さんが、地元の高校で講演した様子を伝えています。題名は「写真で伝える世界の子どもたち 高校生だからできること」です。

安田さんは高校二年生の時にボランティアで出かけたカンボジアでの経験を語っています。「トラフィックド・チルドレン」と呼ばれる人身売買の被害を受けた子どもたちです。

長い内戦の後の貧しい農村では、「子どもを学校に通わせながら働かせることができる」などと騙され、教育を受ける機会のなかった親達は子ども達を連れていかれた、ということが頻発しました。

その子どもたちは実際には一日中物売りなどとして働かされ、酷い虐待を受けることもありました。高校生の安田さんが出会ったのは、そんな体験をした後、保護されて施設にいた子どもたちだったそうです。

しかし、施設にいた子どもたちは自分のことよりも家族のことを気遣い、家族のために自分は何の仕事ができるか、そのためにこれから何を身につけるべきかを考えていた、というのです。

その姿を目の当たりにして、「自分以上に大切な人がいると、人はこんなにも優しく、強くなれるんだ」と感じ、私も人を守れる人間になりたいと、安田さんは思ったそうです。

国際協力は何かをしてあげるのではなく、出会った人から頂いた経験、学ばせてもらったことに対して、何をお返しできるかだと思う

と安田さんは述べています。

最後に安田さんは取材で訪れた、内戦に苦しむシリアの子どもたちの写真を映し出し、シリアで言われ続けてきた言葉を紹介しました。

自分たちのことを本当に追い詰めてきたのは何か、知っていますか。シリアでこれだけのことが起きているのに、世界は自分達のことを無視しているということ。

安田さんは無関心でいることの罪を伝えながら、「大切なものを失った子、奪われた子のことを、みなさんも大切な人と分かち合ってほしい」と高校生たちに呼び掛け、お話を締めくくりました。

■明日から私も仲間たちと、ベトナムへでかけます。ベトナム戦争時に、アメリカにより散布された枯葉剤の後遺症に苦しむ人々に支援物資を届けるためです。

枯葉剤に含まれていたダイオキシンによる遺伝子損傷のため、従軍世代から数えて、第三世代、第四世代にまで被害者が、いまでも出ているのです。ベトちゃん、ドクちゃんの世代で被害が終わったわけではないのです。

もちろん私達にできることは限られていますが、現地の様子を確認し、帰国してからは、その様子を仲間の皆さんに可能な限り伝える努力をしています。日本にいると無関心になりがちな皆さんに少しでも関心を持ってもらえれば、それでよいのです。

 

氾濫

■20191015(火曜日、曇り)

わが町の夕焼けです。

■今朝も走りました。今朝は5時に目覚ましをかけていたのですが、4時過ぎに目が覚めてしまい、このままもう一度眠ると5時に起きるのはかなり辛そうだったので、そのまま起き出して走る準備を始めました。

玄関を出てみると、道はかなり濡れていました。昨日は終日曇り空で時折雨が降る天候でしたが、それほど強い雨にはなっていませんでしたし、天気予報では今日から回復するとのことだったので、ちょっと意外でした。それでも雨が降っているわけではなかったので、生ごみを所定の位置まで運び、準備運動も終え、スタートの準備をしました。

ということで、今朝はいつものコースを走り、6.05kmを積み重ね、今月は9回のランで62.55キロメートル。残り16日で37.44kmのところまで来ました。

今週木曜日の午後に羽田空港に行き16時35分発のベトナム航空便で、ハノイ・ノイバイ空港に向かう予定です。22日に帰国しますが27日には、たくと一緒にハーフマラソンを走らなければなりませんので3日前から休息するのが通例です。ということは、ベトナムに出発してからは走る事のできる日は、帰国後の翌日23日のみということになります。

もちろんベトナム滞在中に走っても良いのですが、今年は今までボランティア活動に出かけたことのないニンビン省での活動が予定されています。昨年までの活動を行ったバクザン省では、定宿のホテルの前が広い広場になっていて一周1キロ弱とちょうど良い、ジョギングコースにもなっていましたので安心して早朝に走ることができたのですが、今年でかける予定のホテルは大きな道路の真ん前にありますので、昨年までのようにはいきません。滞在中に走るのは、どうやら無理のようです。一応身支度だけは用意していくつもりですが。

■さて台風19号のために、関東地方、東北地方などで、各地の川の堤防が決壊して大変な被害が出ています。内容は全然違うのですが、我が家の玄関先のポートの屋根も飛んでしまい、経年変化による劣化が原因なのだろうと思われました。全国各地の堤防や道路、橋などインフラも同様に高度経済成長時代に作られた設備が、次々に経年劣化を起こしているに違いありません。

これからは、そうした設備の補修に多額の費用が必要になります。税金の使い道がいよいよ難しく、また重要になってくるのです。

変わらないもの

■20191014(月曜日:曇)

新沼津カントリークラブのクラブハウスから見た伊豆半島です。

■昨日の夜は、つるちゃん夫婦と定例の夕食会を開きました。大してアルコールを飲んだ記憶はないのですが、疲れもあったのでしょうか、いささか二日酔いになってしまい、朝方眠れなくなってしまいました。アルコールの度が過ぎると私は、いつも肩が凝って頭が痛くなってしまうのです。横になって寝れなくなります。これはとても辛いのです。ところが不思議なことに、寝床を離れて立っていると辛くないのです。

ということで、今朝は思い切って走ることにしました。今日は LSD を敢行する予定だったのですが、さすがにこの調子では無理だと考え、いつものコースを走りました。6.08kmを走り、これで今月は8回のランで56.50km。残り17日で43.49kmのところまで来ました。

■さて今朝の東京新聞論説室から「私説」欄には、『弁護士立会権は?』と題されて書かれています。新聞にはこう書き出されています。

日弁連は徳島で開催した人権擁護大会で、取り調べの際、弁護人の援助を受ける権利の確立を求める宣言を採択した。その前提には「日本の刑事司法制度は国際的水準に達していない」という認識がある。

たびたび誤認逮捕が報道されるのですが、今年の7月には愛媛県警が窃盗事件で女子大生を誤認逮捕しました。今月3日には裏付け捜査を怠ったことが原因との調査結果を明らかにしましたが「任意性を欠く違法な取り調べはなかった」と、自白の強要は否定しています。

ところが女子大生は「自白の強要をされたという認識に変わりはない」と反論しています。紙面では、いまだにこんな水掛け論になるのかと嘆かわしい、と書かれています。最後に筆者は、こう結論付けています。

密室でのやり取りに、事後検証が不可能に近いからだ。弁護士の立会いが任意段階から認められていれば、誤認逮捕という人権侵害もなかったはずだ。

まことに、その通りに違いありません。未だに実現していない日本の刑事司法制度は中世のままだ、という外交からの批判は、当たらずとも言えず遠からず、なのではないでしょうか。

ひょっとすると、この点も戦前から、あまり変わっていないのかもしれません。

台風一過

■20191913(日曜日、晴れ)

今日の駿河湾です。新沼津カントリークラブ10番ホールから見た駿河湾には、昨日の台風による濁流が流れ込んでいます。

■昨日は台風19号が伊豆半島に上陸し一晩中暴風雨が荒れ狂いました。テレビの天気予報を見ていると、超大型の台風が日本に向かってきているのですが、ここ沼津では時々雨と風が吹くものの、18時までは大したことはありませんでした。ところが18時を過ぎた頃から風が強まってきました。

関東地方では、かつて経験したことのないほどの雨量が記録されている、としきりに報道しています。今にも氾濫しそうな川の様子が次から次に、テレビの画面に映り出されています。

いつもの通り、夜の10時には寝床に入りましたので、その後どうなったのかは、わかりません。今朝も5時に目覚ましを鳴らして起き出してみると、窓を開けてみた空には一片の雲もなく、まさに秋晴れです。

今日は新沼津カントリークラブの大西杯が行われます。今週はAクラス、そして来週はBクラスの大会となっています。競技委員として、今日は私もお手伝いをしなければなりません。現在の時刻は、6時40分。そろそろ出かけなければなりません。昨日の嵐のために荒れてしまったコースを総出で整備しているに違いありません。

■無事にお務めも終わって家に帰ってみると、Sunが大変なことが起こった、と言っています。病院の玄関のポーチの屋根が飛んでいるのです。道路に散乱していたようです。隣の方が、教えてくれました。経年劣化が進んでいたのでしょう。開業して、もう30年が経ちます。あちこち、ガタが来ていてもおかしくありません。連休がけたら修理の依頼をしなければなりません。

毎月恒例の夕食会です。それぞれ似たような年齢構成で、家族構成も近く、話が弾みます。

合わせ鏡

■20191012(土曜日、暴風雨)

3歳から19歳までを過ごした川口市の荒川沿いの土手です。

■台風19号が接近し、東海地方はこれから暴風雨に見舞われそうです。鉄道や飛行機も昨日には早々と欠航が決まり、今日に備えています。土曜日からですと三連休のお休みですので、絶好の行楽日和になるはずでしたが、それどころではありません。観光地にとっては大打撃に違いありません。

ホテルなどのキャンセルも、原因が台風であればキャンセル料を取ることもできないようです。相手が自然ですから、誰に文句を言うわけにもいきませんが、それにしても日本は、本当に天災列島だと思います。

ラグビーW杯で来日している、ニュージーランドの代表選手が、今まで台風というものを経験したことがないので、どうして良いか分からない、という趣旨の発言をしていました。私達日本人からすると、台風を経験したことがない、という話自体が信じられない思いです。

地震にしてもしかりです。以前ベトナムの方とお話をしていて、確かその方は地震を経験したことがないと話されていました。私からすると信じられない思いでした。世界中には台風も地震も経験することなく、生活できる地域があるのだと知って、世界は広いなと痛感するのです。

■さて、長周新聞第8409号には、NHK ETV特集シリーズ「日系人強制収容と現代」の記事が掲載されています。「日系人への差別排外主義 3世4世を追うドキュメンタリー アメリカの強制収容の歴史考える」ともあります。

長周新聞は山口県で発行されている地方紙の一つですが、内容は読み応えのある重いものが多く掲載されています。読み流すということが、できにくい構成となっています。しかし、それだけに自分の頭で、しっかり考えなければいけない内容なのです。

この記事では、第2次世界大戦中に、敵性国民として強制的に隔離収容された日系アメリカ人の子供達(三世・四世)の現在を追うドキュメンタリーについて書かれています。この記事の中で、私がなるほどなと思ったのは、以下の部分です。

この番組から思い浮かぶ疑問は戦後ナチスのユダヤ人強制収用への批判は比較的やられてきたが、それに通じるアメリカの日系人強制収容が長い間、なぜ問題にされなかったのかということである。それは後に「市民権を得た」とされる日系人の社会的地位や差別的な待遇がなんら変わらずに来たこととも関わっている

戦後アメリカは原爆投下をはじめ、第2次世界大戦におけるアメリカの戦争犯罪、非人道性に関わる報道を一切禁じました。こうしたアメリカの自由・民主・人権にひれ伏した潮流が、近隣の朝鮮や中国に対する植民地的な侮蔑意識を克服できず、ある場合にはそれを剥き出しにして恥じないでいることは偶然とは思えない、と記事は指摘しています。

東に向かっては卑屈となり、西に向かっては居丈高に振る舞う、未だに続く日本人の行動が、私にはまるで合わせ鏡のように見えるのです。最後に紙面は、こう終わっています。

日系アメリカ人の強制収用の歴史をとらえ直すことは、戦後形成された対米屈従の社会構造のもとで生活基盤の破壊に直面する日本国民の側から、アメリカ為政者の無慈悲な人種差別政策に批判の矢を放つ作業でもある。それはまた、アジア諸民族へのレイシズムを克服し、日本国民の誇りある生き方を取り戻す道筋を探っていくことにとつながっている

西洋諸国に言わば、武力で無理やり開国されて始まった日本の近代以降、未だに克服されていない日本人の精神的な課題のように、私には思えるのです。この点を克服しない限り、真の自由も平等も博愛も、日本人には手に入れることは、できないのではないでしょうか。

 

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