2022 年 02 月 11 日 北海道小樽市街と石狩湾です。

月: 2021年12月 Page 3 of 4

年の瀬

■20211211(土曜日:晴れ)

■今朝は走らずに休みました。昨日走りましたので、今日は休養日です。最近は連続して走ることはやめました。疲れが取り切れないからです。

今日からは、もう月の3分の一が過ぎて、いよいよ年の瀬も迫ってきました。

勉強会も終わってほっとし、来年まではのんびりできるかと思ったら、そうはいきませんでした。来年の講習会のための準備をしなければならない上に、医師会の会報の編集後記を頼まれました。順番です。

さらには、検診のための書類を作成する必要がありました。新しく印刷しなければならないので、変更点があれば出してほしい、という知らせがあったのです。他の先生とも相談しながら、少しでも使いやすいものにしていこう、と考えています。

なんだか、ゆっくり休むこともしばらくはできません。年末まで、この調子でしょうか。次の日曜日は休日当番医ですし、せっかくの休日もゆっくり休むことができません。もうしばらくの辛抱でしょうか。

オンライン会議

■20211210(金曜日:晴れ)

2019年に出掛けた松江の様子です。松江といえば、小泉八雲です。武家屋敷跡がありました。

■今朝は走りました。昨日は目覚ましが鳴っても、起きだすことができませんでしたが、今日は大丈夫でした。7日の火曜日以来、3日ぶりとなります。

今朝は40分49秒、6キロちょうどを走り、これで今月は4回のランで24.54kmを積み重ね、目標の88キロまでは残り21日で、63.46kmを残すことになりました。今日の時点での目標ラインまでは少し届いていませんが、とにかく少しずつ積み重ねていくしかありません。

今週は今のところ3日に1回のペースですので、これでは目標達成は難しい状態です。もう少し回数を増やして、なんとか新しい目標に到達したいと思っています。

■昨夜は県眼科医会の役員会があり、次年度からの役員の人事ならびに活動計画などを相談しました。Zoomによるオンライン会議でした。

以前ですと静岡まで電車で出かけて、そして帰ってこなければなりませんでしたけれども、パソコンの前に座って必要な発表を行い、討議を行って、終わればそのままお風呂に入れるという今の状況は、昔では考えられない事です。

もちろんオンライン会議が良いことばかりではないのですが、それを超える利点の方が、ずっと大きいと感じています。

ただし、こうしたオンライン会議で一番大事なのは準備ではないでしょうか。前もって相当に根回しをして、問題点を共有していないと、一定の結論にたどり着くまでに、時間ばかりかかってしまい、有効な会議とはならないこともあります。

今は試行錯誤の状態と言っても良いかもしれません。ただし、昔のように戻ることは、もう難しいでしょう。広い地域から、離れたところに居住する人々が集まって会合をしようとすれば、時間的な問題が、とても重くなります。忙しい方々ばかりですから、オンライン会議はとても有効だと思います。

新型コロナウイルス蔓延に伴って、本当に社会のあり方がガラッと変わってしまいました。しかし、こうした状態も奇貨とすべきではないでしょうか。日本社会を変える良いチャンスかもしれません。

忘年会

■20211209(木曜日:晴れ)

2019年に出掛けた松江の様子です。松江といえば、小泉八雲です。記念館の庭です。

■今朝は走るつもりで目覚ましを合わせてあったのですが、睡眠のリズムが合わなかったようです。ちょうど目覚ましのなった頃には、スキット起き出すことができず、グズグズと布団の中で時を過ごしてしまいました。

起き出すチャンスを逸すると、なかなか走る気力が出てこないのです。まぁ無理をしても致し方ありません。明日に延ばすことにしました。

■昨夜は大の仲良し、古屋先生と2人だけの忘年会でした。ひろ繁で美味しい食事を食べながら、よもやま話に花を咲かせました。お付き合いを初めて、もう20年以上になりますが、どういうわけか、古屋先生とは馬が合い、長い付き合いになりました。

お互いすっかり歳をとってしまいましたが、様々なことを経験してきて共通する思いもあり、話の種も尽きることはありません。これからも定期的に夕食会を開いていきたいと思っています。

長い付き合いです。各々に、様々なことが巡ってきた20年でした。

華族

■20211208(水曜日:雨)

2019年に出掛けた松江の様子です。松江といえば、小泉八雲です。記念館の庭です。

■今朝はゆっくりと休みました。昨日の朝走りましたし、今朝の天気予報は雨でした。5時半に目覚ましを合わせて、起き出したのは6時でした。予報通り雨が降っています。

ビニールゴミを所定の位置に運び、新聞をとって家に戻りました。今朝の朝食の果物は、リンゴと柿をSunと2人で半分ずつ食べました。今朝は放射冷却現象が無かったためか、冷え込みも強くなく、むしろ暖かな朝でした。

■さて12月8日は、太平洋戦争開戦80年となります。「大事なことはすべて、昭和史に書いてある」。今年1月に亡くなった半藤一利さんの言葉です。

東京新聞12月6日の紙面で、近現代史研究者の保阪正康さんは、驚くべき内容を語っています。日本軍が事実をねじ曲げてまで、何故開戦と継続に固執したのか。様々な原因が絡み合っている中でも、大義や戦略論とは別質の動機に気付いた、と言われるのです。それは栄達を渇望する軍官僚の心理だったのです。

東条英機のことを調べていて、昭和天皇の側近だった木戸幸一がまだ生きていたので、彼に東条や軍幹部はなぜあそこまで戦争にまい進したのか聞いたんです。

その答えの一つに私が思いもよらなかったのがあった。『彼らは華族になりたかった』という。戦争に勝つことで爵位が欲しかった。だから幾多の犠牲を出しても勝つまでやる。

これに引き続いて半藤一利さんが、その内容について、こう解説しています。

■さて今夜は恒例の二人だけの夕食会です。古谷先生とは、どういうわけか馬があって以前から仲良しでした。訳あって最近はゴルフは、ご一緒できないのですが、歓談の場を持ちましょうとなり、ほとんど毎月のように店を変えて開催しています。

今回は、「ひろ繁」です。個室もあり気兼ねなく話すことができます。あっという間のひとときでした。来年も同様に楽しく時を過ごしましょう、と約束して別れました。

こんな友を持つことができた私は幸せものです。大切にしなければいけません。

恒例の二人だけの夕食会です。楽しく歓談して、あっという間のひとときでした。

半ドン

■20211207(火曜日:曇)

2019年に出掛けた松江の様子です。松江といえば、小泉八雲です。記念館の庭です。

■今朝は、走りました。土曜日以来ですので、3日ぶりとなります。2日間の休養も取れましたので、今朝は5時に合わせた目覚ましと共に起き出し、燃えるゴミを所定の位置に運び、準備運動の後に走り始めました。

今朝は42分03秒、6.39kmを走り、今月は3回のランで18.54kmを積み重ね、目標の88キロまでは、残り24日で69.46kmのところまで来ました。途中、左の腰に違和感を感じましたが、最後は気持ちよく走り終えることができました。

今朝は曇り空で、冷え込みも強くなかったようです。ほどほどに湿気もあり、走るには丁度良い天候でした。とは言っても時間帯的には、まだまだ真っ暗ですので、LEDライトを持って校庭を走りました。

■さて、今朝の東京新聞11面には「昭和遠近  短歌にみる時代相」第99回「半ドン」と題して、島田修三さんが書かれています。

半ドンとは、本来は日曜日を意味するオランダ語が、日本風に、どんたくと訛り休日の意に転じたそうで、半ドンですからその半分、つまり、午後半休の土曜日が半ドンということになったようです。

島田さんが、小学校から高校までの在学期間12年間、昭和30年代前半から40年代半ばまで、土曜は授業が昼までの半ドンでした。土曜日が待ち遠しく、朝からソワソワして落ち着かなかったそうです。

午後に何をするか、どこへ行くか、旧友の誰と遊ぶか、と考えるだけで嬉しかった覚えがある、と書かれています。

そして、土曜日の翌日には黄金の日曜日が待っています。寝坊しても母には叱られなかった。土曜は少々遅くまでテレビを見ることも許された。夜9時過ぎから始まる、「日真名氏飛び出す」という連続サスペンスドラマも、両親の傍らで島田さんは毎週見ていたそうです。

大人の気分も味わえて豊かなひととき、と書かれています。

おそらく時間というものを、この上なく貴重な恩恵として意識した最初の経験だったかと思う。

とも書かれています。

私も両親と一緒に、「事件記者」というドラマを同様に、ワクワクしながら見たことを覚えています。

私の小・中学校の頃も、土曜日半ドンだったように記憶していますが、土日休みの企業が次第に増え、1992年(平成4年)には国家公務員が週休2日となり、公立学校も2002年(平成14年)には、完全な土日休校となりました。

完全な週休2日になってから、もうそんなに経つのか、とも感じますし、まだそれしか経っていないのか、とも感じるから不思議です。今や週休2日制は当たり前のようになりましたから、土曜日仕事をする必要のある方は休む暇がない、と感じるのは分かります。自分も、そうだからです。

これからの社会は、どのように変わっていくのでしょうか。

すり替え

■20211206(月曜日:曇)

2019年に出掛けた松江の様子です。松江といえば、小泉八雲です。八雲の有名なレリーフです。

■今朝は、ゆっくりと休みました。5時半に目覚ましを合わせてありましたが、目覚ましが鳴った後も、うとうとと時を過ごし、6時に起き出しました。

曇り空のためか、今朝は冷え込みも緩く、暖かな朝です。12月も、もう第2週に入ってしまいました。毎日、毎日が、あっという間に過ぎ去ります。

2021年も本当に、もう残り少なくなりました。

■さて、今朝の東京新聞こちら特捜部には、とても興味深い記事が掲載されています。亡くなられた半藤一利さんが残した教訓と題して、日米開戦80年、保阪正康さんに聞く、という内容です。

「事実をねじ曲げ 破滅の道邁進 国民的熱狂 作ってはいけない」と題されています。

「主観的願望を、客観的事実にすり替えていった」。旧日本軍が犯した過ちの中でも、最も罪深い組織的な問題点を、保阪正康さんは、こう断罪しています。

米国と比較して、物理的な戦略比は1対10ぐらいで劣っていたにも関わらず、戦場は太平洋で日本の方が有利だとか、精神力では上回っているなどの主観的材料をこじいれ、四対一あるいは三対一にしてしまう。願望が生み出す数字で戦争を初めてしまった。

なぜ、そこまでして戦争を始めてしまったのか。さらに読み進めると、驚くべき事実も書かれているのです。

早起き

■20211205(日曜日:曇)

2019年に出掛けた松江の様子です。松江といえば、小泉八雲です。記念館の庭です。

■今日は大の仲良し、長倉さんとゴルフをすることができました。思い当たる何人かの友人も誘ったのですが、皆さん都合がつかず、結局2人で回ることになりました。シングルプレーヤーの長倉さんと回れば、当然勉強になることばかりです。

青空が見えることはなく、今日は寒々しい一日でしたが、風が吹かなかったことは幸いでした。朝一番7時31分のスタートでしたので、ハーフを回り終わって、まだ9時半前ですので昼食というには早すぎました。長倉さんはモーニングを注文していました。

1時間食事をとりながら、色々歓談することができました。楽しいひとときでした。同じ学年でもあり、同じような時代を生きてきましたので、話が合うことは多々あります。

お互い子育ても終わって、仕事もひと段落。似たような状況といえば状況なのですが、父親の創業した会社の幹部として、会社の行く末を考えなければならない立場と、私のそれとは若干異なっています。

まぁ、それでも馬が合うと言えばいいのでしょうか、一緒にいても飽きることはありません。こうした友人を持つことができるかどうかが、年をとってからも、豊かな時間を送るためには必須の条件なのです。感謝するしかありません。

ラウンドしていたら途中のホールで、反対側のホールから声がかかって驚きました。友人の長谷川さんが、上海時代の友人4人とプレイしていたのです。私たちがハーフを終わる時に、ちょうどスタートホールで打ち終わったところでした。

随分スタートが早いですね、と言われたので、年寄りは早起きなのです、と答えておきました。私より一回り以上若い長谷川さんの目覚めと、古希を前にしつつある私とでは、雲泥の差です。

来週は月例なので、いつもはご一緒できるのですが、私は休日当番があって出場できず、とても残念です。来年のお楽しみです。

300万台

■20211204(土曜日:晴れ)

2019年に出掛けた松江の様子です。松江といえば、小泉八雲です。

■今朝は走りました。5時に目覚ましを合わせていましたが、15分ほど前に目が覚めましたので、そのまま起き出して、準備運動の後走り始めました。昨日は休養日として、ゆっくり休みましたので、今朝はスムーズに走ることができました。

今朝は40分34秒、5.68kmを走り、これで今月は2回のランで12.15キロメートルを積み重ね、目標の88キロまでは、残り27日で75.85キロメートルとなりました。

帰ってきて、エプソンのランニングホームページに記録を登録すると、年間1,000km達成おめでとうございます、と祝ってくれています。

9月までは月100キロ走を達成していたのですが10月、11月と目標達成ができませんでした。それでもなんとか、年間1000キロ走は達成できましたので、来年に繋がると前向きに考えるしかありません。

■さて、中国自動車工業協会によると、今年1月から10月の中国における新エネルギー車の新車販売が、昨年同期の2.8倍にあたる、過去最高の254万台に達したと、朝日新聞が報じています。

今年1年間で300万台を突破するのは、確実とみられています。中国の定義している新エネルギー車とは、プラグイン・ハイブリッド車と100%電気自動車の2種類だけとのこと。通常のハイブリッド車は含まれないようです。

こうした新エネルギー車トップ15のうち、アメリカのテスラが発売しているモデル3とモデルY以外は、全部中国メーカー社製でした。つまり、この300万台の中には、日本車は入っていないということです。

日本車の中国での売上が300万台減ったとも言えます。これは、決して小さくはない数字です。来年以降、この流れが強まることはあっても、弱まることはなさそうです。

日本にいると、電気自動車など遠い将来の話と思いがちですが、アメリカ、ヨーロッパ、そして何よりお隣の国、中国では事情は全く異なります。

ガソリンエンジン車では、日本に太刀打ちできない他国が、脱炭素をキーワードに競って、電気自動車開発に舵を切っています。これは、国と国との争いなのです。

かつて、アメリカで厳しい排ガス規制が車に求められた際に、アメリカの自動車メーカーは、そんなことはできない、とタカをくくっていたら、日本のメーカーが見事にその規制をクリアしたのです。

それにより、アメリカでの日本車の売り上げが、一気に増大しました。

今、時代は巡って、かつての厳しい排気ガス規制車が、電気自動車に取って代わられようとしているのです。

国をあげて取り組まない限り、日本の屋台骨が大きく揺らぐことになりかねません。日本に残された時間は、あまりないのです。

運・不運

■20211203(金曜日:晴れ)

熊本県天草市崎津天主堂付近です。カトリック教会と神社が共存しています。

■今朝は、ゆっくりと休みました。6時に目覚ましを合わせて、暖かい布団の中で時を過ごしました。たまには、こういう日もあって良いのではないでしょうか。昨日はロータリークラブの例会が昼からあり、午前中の仕事が終わってから出かけるつもりでした。

もうすぐ午前中の仕事が終わろうか、という頃に異変が起きました。左眼が見にくいとして来院された患者さんが、検査を受けている途中から、左半身が痺れてきたと訴え始めたのです。検査をしていた看護師が、患者さんの異常に気づき、指摘してくれました。

30代の男性でしたので、高齢者のような動脈硬化による脳梗塞などは考えにくいのですが、眼科的には全く問題がなかったので、何か異常なことが起きていると考え、急いで市立病院に連絡し、紹介状を持たせて行ってもらうようにお話ししました。

あとになって市立病院から連絡をいただいたところでは、内頸動脈解離ということで、本当に危機一髪だったようです。病院に到着した頃には、患者さんは症状が一時的に消失し、訴えがなくなってしまったとのこと。

しかし、心配なので検査しておきましょうということで、紹介した脳外科では、まず頭の中を詳しく調べてくれたのですが、異常が見当たらず、念のために血管系も調べたところ、上記の病巣が見つかったのです。

医療の現場でも幸運な場合、不運な場合と様々です。ちょうど週末に症状の出現が当たってしまい、迅速な、そして適切な処置を病院で受けられずに、不幸な転機をとってしまった症例もありますし、今回のように、幸運が重なって一命を取り留めるという場合もあります。

運と言ってしまえば運なのですが、医療現場というのは本当に、崖っぷちを歩いているようなものだ、ということを痛感した一日でした。

人種差別

■20211202(木曜日:晴れ)

熊本県天草市崎津天主堂付近です。カトリック教会と神社が共存しています。

■今朝は走りました。5時に目覚ましを合わせてありましたが、4時半に目が覚めてしまい、そのまま起き出して、準備運動の後スタートしました。今朝は冷えました。

いつものコースを走った後、校庭に着いてからは、25分に合わせてあったタイマーをスタートしました。今日は12月最初のランで、46分20秒、6.47kmを走り、目標の88キロまでは、残り29日で81.53kmとなりました。

走り方が良かったのか、何が良かったのかは分からないのですが、今日はとても時間が早く感じました。つまり、あまり苦しい時間帯が無かったということです。多分、休養が充分とれていたのが良かったのでしょう。

あちらこちらに、筋肉痛はあるものの、足取りはとても軽やかで、久しぶりに、走っていて気持ちの良い時間を過ごすことができました。

■さて、今朝の東京新聞には「米出身歌手、仏殿堂入り」と題して、パリからの報告が書かれています。

フランス・パリにある国家的偉人の殿堂パンテオンに11月30日、米国出身の歌手ジョセフィン・ベーカーさん(1906-1975)が黒人女性で初めて祭られた。

フランス国籍を取得し人種差別と闘い、第2次世界大戦中はドイツ軍の占領に抵抗するレジスタンスの一員としてフランスの解放に貢献した功績が認められた。

と、あります。NHKスペシャル「映像の世紀」において、私は初めて彼女のことを知りました。

1920年代においてアメリカで活躍していたジョセフィン・ベーカーさんがフランスに渡り、アメリカとは異なり、人種差別や黒人女性に対する偏見のないことに大変驚いて、フランス贔屓となり、異国の地で活躍し、大きな人気を博したのです。

その後の活躍は、上記の通りです。しかし、このことはフランス人が人種差別をしていなかったという意味では、もちろんないのです。当時フランスはベトナムを植民地として支配し、収奪の限りを尽くしていたのです。

米国黒人女性には寛容だったかもしれませんが、アジアの民にとっては、そうではなかったのです。

一面だけを見ていると、現実を見誤ります。自由・平等・博愛などと欧米諸国が声高に叫びますが、それはあくまで戦略としての建前であって、実際は真逆のことがよくあるのです。

私たちは、そのことを冷静に見極めなければなりません。踊らされてはならないのです。

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