2023 年 09 月 02 日 TakuとMasato とNonと一緒に訪れた熱海初島です。

月: 2018年10月 Page 2 of 4

ニンビン省へ

■20181021(日曜日 晴れ)

 

 

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■今朝は走りました。 朝5時半に 起きてホテル前の広場を 5周しました。 これで 5 km 強を積み重ねました。 朝から蒸す天候で走っていても汗が滴り落ちました。途中からにわか雨が強まり、テントで雨宿りをしました。

 

昨日は一日をかけて8軒の家庭訪問を実施。朝の7時にホテルを出発し3時間をかけて最初の家庭に到着してから、最後の訪問が終了したのが、ちょうど午後7時でした。半日掛かりでした。さすがに疲れました。

 

 

 

旅程をみると走れそうな朝は、今朝だけなのです。何とか起き出して走り始めました。

 

今回初めて遭遇したのですが ホテル前の広場で 盆栽や木製家具の 販売展示会を大々的に開催していました。周囲の地域から多くの業者が集まっていました。

 

 

家庭訪問

■20181020(土曜日:曇)

 

「バイディン寺」です。東南アジア最大の仏教寺としてベトナム人の注目を集めています。

 

Day 2 終日家庭訪問 8軒

No1 ゴー・バン・チュック ラオス国境で従軍。難聴と体の痛み。

 

80歳 五人の子ども。一人はハノイで入院。枯葉剤原因ではない。

 

 

一人は死亡。原因は枯葉剤。子ども達三人と同居。二人娘。他の家に嫁いでいる。残りの一人息子と同居。農業で生計を立てている。豚を飼っている。周囲の野菜で飼育。5−6ヶ月で出荷。

毎月170万ドン支援金あり。1972年頃帰郷。

 

 

奥さんは元気。70歳。

■Day 2 n2   表 7

ダム・グォック・ホン  79歳 男性 ラオス国境で従軍

10年 1966−77年 従軍。100万ドン 毎月支援金

子ども4人 男1人 知的障害あった ⇒ 39歳で死亡、孫が同居

女の子 3人、結婚して付近に住む、別世帯、農業をしている。

現在夫婦で同居、血圧高く脳の血流悪い 頭痛、人民委員会近くの病院に月に一度通院

妻は病気がち、78歳

支援金と娘達の支援で生活、農業していない

今の家は80年前に建てた。

■Day 2 n3   表 8

メイ・バン・ダン 80歳 娘さん1982年生まれ と一緒

1966年から南部で従軍、枯葉剤被害者、娘とともに認定されている。

父 200万ドン、娘 80万ドン 月の支援金

妻は死んだ。父 よく見えない。HT、内服。娘は話せず、言葉理解できない。仕事は手伝えない。この娘の将来のことが一番心配。自分のことができるのみ。

7人 息子 2 娘 5 三番目の娘。

末っ子夫婦と娘3一緒に暮らしている。農業のみで生活。父の年金。毎月400万ドンあり。

父は別居。症状があるのは、娘3のみ。

枯葉剤被害者が集う機会はない。

■Day 2 n4  表 5

ファン・バン・ルォオン

月190万ドン支援金、他の収入無し。本人には目が霞む。枯葉剤障害は自分のみ

夫婦と障害のある子と暮らし。妻70歳。子ども達 4人。娘一人が知的障害あり、枯葉剤とは関係ない。息子さん夫婦は農業するもコメは少し。息子さんは43歳。

他の三人には障害なし。後の二人の行方は分からない。

■Day 2 n5  表 9

ファン・バン・ナン 68歳。

従軍でフエに行っていた。奥さんと二人。写真の二人。

夫 枯葉剤被害 片目は見えない。右手と左足不自由。

月530万ドン支援金。高血圧薬のみ服用。5−10万ドン薬代。

子どもはいない。養子を一人。男子。40歳。

妻は夫の面倒見て終わり。養子と妻同居。娘三人。農業。食べるだけ。

教育費がかかる。

10年間従軍。

■Day 2 n6  表10

チャン・ズイ・チュン  28歳 男性 生後から脚の萎縮、歩けなくなった。自分の事はできない。座れない。話すこともできない。言葉を理解できない。兄がいる。問題なし。

月150万ドン。オレンジの栽培。金にならない。兄が同居。奥さんと子ども二人あり。34歳。

父は10年前に死亡。

■Day 2 n7  表11

ディエン・ティ・ルアン 63歳 寝たきり  二人の息子 一人行方不明の妻と孫二人と暮らしている。

170万ドン 女性兵士として従軍 夫は二年前に死亡。

12年前より寝たきり。話はできた。悲しくて泣いている。

腹痛、

■Day 2 n8  表12

ゴー・バン・チュック 80歳 月180万ドン 支援金

娘さん 42歳 話せない。枯葉剤被害者。

五人の子どもがいて、末っ子の家に住んでいる。

1976年から父は寝たきり。奥さんは77歳、娘と夫お面倒をみている。

夫は自分で食事は取れるが、娘は介助が必要。

ビンディン省で7年間従軍。

ラオスの国境で従軍。

末っ子は農業に従事している。

支援金 本人200万ドン、娘 90万ドン

五人のうち、一人は死んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

スタート

■20181019(金曜日:曇り)

 

Day 1  職業訓練センター 午後から被害者宅家庭訪問 4軒

 

■午前中

 

さて、いよいよ今日から活動開始です。7時に起きて朝食を済ませ、ホテルを9時に出発。施設までは15分ほどです。

 

 

9時前に施設に到着。歓迎を受ける。トゥイ施設長さんがこれまでの活動をパワポでデモしてくれた。ビデオで流しながら、これまでの活動で接したうちの二人の被害者が死亡したことを報告。

 

新谷さんが褥瘡予防に尽くした方も昨年亡くなったとのこと。もう一人オレンジの服を着た女性もガンで亡くなった。

 

私が挨拶をし、三年目の訪問で暖かく迎えもらったことを感謝。

 

今回持参した医薬品などを贈呈。千ドルの現金とリハビリ機器の贈呈をする。眼科医検診をしている間に、機器の組み立てを行う。合計四台の組み立て。

活動の様子をまとめたビデオを流している。これを送ってもらいるか確認。VAVA の副会長が来られた。

 

今年の家庭訪問は、12 軒。

 

子ども達は人数が少なかったのは、それぞれが仕事に出かけているため。

 

友くん、よっちゃんたちで機会を組み立てた。11時前に四台の機器が完成。二台の自転車器具と上半身のトレーニング機器。

 

 

 

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職業訓練センターに到着すると、トゥイ所長さんが、私達のこれまでの活動をスライドにしてまとめてくれました。

 

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お礼とご挨拶を私からさせていただきました。

 

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多くの方から寄付を頂きました。感謝、感謝です。

 

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今年は例年の寄贈品、医薬品などの他に施設からのご希望でリハビリ機器を寄贈しました。これまでにいただきた寄付金を原資にしました。そして運営費として現金 1,000 ドルも寄付することもできました。

 

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現地で購入した機器を若手の隊員で組み立てました。出来上がり、さっそく施設の入所者で試しています。とても楽しそうです。

 

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上の写真でトゥイさんが持っている額は、枯葉剤被害者救済に尽力した、赤いナポレオンこと、ヴォー・グエン・ザップ(ベトナム語: Võ Nguyên Giáp, 漢字:武元甲、1911年8月25日 – 2013年10月4日[1])は、ベトナムの軍人、政治家。ベトナム共産党政治局員。ベトナム人民軍 (QĐND) 総司令官です。

 

■午後  家庭訪問 四軒

 

No1     表の1   被害者名 グエン・ティ・ホイ  女性 1983年生まれ 父も枯葉剤被害者

 

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父と娘 皮膚にコブのような腫瘍多数。

 

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地域の人民委員会幹部同行 支援活動は足りていない、日本からの援助に感謝している。

 

■父の話

 

いつも笑顔で過ごしている。家の仕事を手伝っている。後ろ向きに考えても仕方がない。ここまで来ていただいて感謝している。

 

母は9年前に死んだ。6人の子供あり。症状があるのは、四番目のこの娘だけ。国の援助金のみ。兄弟の支援無理。月の支援金 父親と娘で全部で200万ドン。農業で自給自足に近い。

 

父親はフエ、くアンチ省で従軍。枯葉剤のひどい場所だった。父親は1953年生まれ。皮膚症状は終戦後、1977年時点では症状は無かった。それ以後出現。

 

娘は生まれた時点ではお尻に大きな腫瘍。摘出。病弱。6歳から小さい腫瘍のみ、次第に増大した。知的障害あり。自分のことはできる。父を手伝うことはできる。普段は腫瘍は痛まない。

 

支援金 200万ドン。

 

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■No2  表 2 グエン・ティ・チン 女性  1978年生まれ 40歳 

 

 

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 自分では自分のこともできない

。知的障害あり。鍵をかけた部屋で住んでいる。彷徨する。月45万ドン支援金のみ。農業で自給自足。両親は今のところ元気。父は1952年生まれ。母は59歳。

 

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 父はクアンチから南の地域で枯葉剤を浴びた。従軍は5年以上。父は今のところ障害がないので枯葉剤支援金なし。子どもは、6人。チンさんは第一子。他の子供達には障害なし。15歳までは普通に過ごしていた。それまでは学校へ行っていた。症状が出て病院で枯葉剤障害者と認定された。

 

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■No3 表の四番目 

 

ハー・ティ・ニン

 

二人兄弟 父は10年前に死亡。 自分のことはできない。母が面倒を全て見ている。今日は期限が悪く洋服を破ってしまい、裸でいた。

 

100万ドン 月の支援金。お兄さんと本人。本人は妹。

 

33歳。 1985年生まれ。

 

兄は異常なし。

 

■No4 3番目

 

グエン・バン・ティユ

 

1978年生まれ  現在は弟と二人、兄弟だけでVAVAの支援金で建てた家で住んでいる。四人兄弟の二番目。男性。

 

話すことはできない。父の親戚の女性が二人の面倒を見ている。

 

毎月111万ドンの支援金。両親はすでに死去。弟は、建築土木の仕事をしている。

 

 

 

 

 

 

 

2018支援の旅

■20181018(木曜日:曇)

 

 

■今朝は走りました。今日の午後から、いよいよベトナム支援旅に出かけます。バクザン省のホテル前の広場で一度は走ることができると思いますが、とにかく残りを少なくしておかないと、100キロの目標達成が遠のきます。今朝は、とにかく怪我をしないようにゆっくりと走りました。6.083km を走り、総計 64.1km 残り 35.9km となりました。

 

昨日はTomoくん、Nonちゃんと四人で夕食を取りました。今年の支援の旅にTomoくんも参加するので、名古屋から昨日駆けつけてくれました。結局総勢6名の旅になります。本当に少人数の旅ですが、致し方ありません。できることをしてくる、ということです。

 

今年は昨年まで二年続けて訪れた支援施設に、施設長さんから依頼のあったリハビリ器械を寄贈する予定です。予算総額が、どの程度になるか心配だったのですが、私達の用意できる予算内で収まることが分かり安心しました。少額の寄付金を貯めておいての基金ですので、たいしたことはできません。身の丈にあった支援ということです。それで良いのです。

 

■さて明治150年ということで、色々な企画が検討されています。肯定的なもの、否定的なもの、様々のようです。あの過酷な国際情勢の中で、いきなりその中に放り込まれた明治の日本が、1945年の破滅を迎えること無く乗り越えるためには、どうするべきだったのか、どのような道を取るべきだったのか、という仮定の議論をきちんとすることが大切だと私は思います。

 

もちろん歴史に「もしも」は無いのですが、検証することは極めて大切です。それはこれからの日本の歩む道を大きく左右するからです。あれ以外の道が無かったとは、私には思えません。いちばん大切なのは、何を置いても破滅の道だけは取らずに生き抜くということです。

 

冷戦が終わり、いままたトランプ大統領というこれまでとは違った道を歩もうとする指導者の出現で、日本の進むべき道も大きく変わってくるのです。惰性で進んでは道を誤ります。きちんと情報を開示して、一人ひとりが自分の頭で考える必要があるのです。

 

■仕事を終えて、すぐに原駅に向かいました。東海道新幹線で品川駅、そして京浜急行電鉄で羽田駅国内線ターミナル駅へ行くためです。品川駅での乗り換えには、今回も迷いました。南口から上がれば、そのまま京急の乗り場に直行なのです。いったん北口を上がってしまい、やり直しました。南口です。

 

あとは順調でした。三階の出発ロビーに行くと、すでに大釜さんたちが到着していました。Tomoくんに連絡して待ち合わせ、全員が顔を揃えました。予約してあったWi-Fiルーターを取りに行きました。三階の反対側に窓口があります。

 

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無事に羽田空港で待ち合わせすることができました。

 

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ベトナム航空 VN385 便です。16時35分発ハノイ・ノイバイ空港行きです。

 

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無事位ハノイ・ノイバイ空港に到着です。手荷物の取り出しに1時間近くかかりました。到着口出口は迎えの車で大混雑です。

 

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ホテルのチェックイン前にフォーを食べました。美味しかったです。まずは旅の無事を祈って乾杯です。サイゴン・ビールです。

 

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ホテル近くの行きつけのお店です。この牛肉フォーは美味しかったです。いよいよ旅の開始です。

 

■ 昨夜は羽田空港16時35分発のベトナム 航空便に乗りました。 到着したのが現地時間20時。 気温23°ということで、やはり少し暑さを感じました。預けた荷物が なかなか搬出されずに、しかも 出てくるレーンが二つに分かれてしまい 手間取りました。結局空港を後にしたのは21時近く。 タインさんとトゥンくんが 運転手さんと一緒に到着口出口近くの道路で待っていてくれました。

 

空港前の道路は待ち合う車で大混雑。だいぶ待たせてしまいました。バクザン省のホテルまで道路も整備され、昨年より30分も早く到着できました。チェックインする前に軽く食事を取りました。フォーです。昨年は到着が遅く閉店していたお店も今年は幸いまだ営業中。みんなでサイゴンビールで乾杯の後でフォーを食べました。とても美味しく牛肉フォーをいただきました。思いの外美味しくてびっくりしました。

 

食事を終えてホテルに到着。部屋に入って、さっそく明日からの活動のための準備作業に入りました。支援物資の割り振りと支援金の確認です。コツコツと貯めてきた支援金でリハビリ器具と施設の活動資金として1,000ドルを寄付します。

 

 

 

 

 

 

■20181017(水曜日:曇)

 

 

■今朝は走るかどうか迷った挙句、走りませんでした。疲れが溜まっているのでしょう。起き出す元気が出ませんでした。Nonちゃんと一緒で悪い夢も見ました。今朝の悪夢は、スマホを無くした、という夢でした。5時に目覚ましを鳴らして、布団の中で逡巡している間に見た夢なので、どういうわけか鮮明に覚えています。

 

どこかの川べりの土手を数人の仲間で散策に出かけたようです。川べりには、どういうわけか、梅がなっています。しかも、どういうわけか、木に梅干しがなっているのです。

 

(●^o^●)

 

一緒に行った仲間の後ろポケットに、これまたどういうわけか自分のスマホを入れたのです。ブラブラしている間に、その仲間のポケットからスマホが消えているのに気づきました。あちこちを探したものの見つかりません。ようやく夢から覚めてみて、そうだこれは夢だったのだ、スマホはここにある、とホッとしました。明日からベトナムへ出かけるのに、記録用のカメラ代わりに持っていくスマホは、とても重要なのです。今のスマホは昨年の支援の旅出発前に、記録用に購入したのでした。

 

なぜこんな夢を見たのか、もちろん私には説明できません。でも明日からの支援の旅が影響しているのは、間違いなさそうです。それにしても、記憶に残る夢というのは、たいてい5時に目覚ましをかけて、いったん目覚めたのですが、起床せずに再度うつらうつらと眠りに入りこんだ時が多いようです。しかも良い夢を見ることは、私の場合あまりありません。そこはNonちゃんと一緒であることを、先日一緒に食事をしていて知りました。似たもの親子のようです。

 

(●^o^●)

 

悪夢という言葉はあっても、良夢という言葉は聞いたことがありません。良い夢というのは、めったにないのか、記憶に残りにくいのか、よく知りません。調べてみると悪夢の反対語は、「瑞夢(ずいむ)」とあります。縁起の良い夢とあります。吉夢ともいいます。でも、ちょっと違うように私は感じます。悪夢はとても広い内容を含んでいるのに、瑞夢(ずいむ)は、ほんの狭い範囲しか含んでいない、という感じですが、どうなのでしょう。

 

夢を分析すると、いろいろ面白いことが分かりそうです。

 

■さて今朝届いたメイルを閲覧していて、いつもながら、田中宇さんの鋭い分析に納得しました。今回は無料版ですので、誰にでも閲覧できます。田中さんの分析を批判する識者もいますが、新聞やテレビで解説している識者の中には、全然的外れな政治的宣伝、いわゆるプロパガンダに過ぎないことが多いことが、田中さんの分析を知る私には分かります。日本人は、その手の解説を毎日NHKを中心に、山ほど聞かされ続けているのです。ぜひ以下の解説をお読みください。

 

田中宇:中国でなく同盟諸国を痛める米中新冷戦 ⇒ まだ掲載されていませんでした。

 

 

狩猟採集民

■20181016(火曜日:曇)

 

 

■今朝は走りました。5時に目覚ましをかけて起き出してみると、まだ真っ暗です。道路を走るためにペンライトが必要かな、と思って持ち出しました。今日は生ゴミの日ですから、所定の場所に行き置いてから、準備運動を始めました。玄関を出ると肌寒く感じました。もうフリースが必要かもしれません。

 

いつものコースを走り、6.03km を積み重ね、総計 58.02km 残り15日で 41.97km となりました。明後日からはベトナムですので、残りの距離をできるだけ減らしておかないといけません。あともう一回は出かける前に走るつもりです。

 

■先日からサピエンス全史を再読しています。ベストセラーです。地球上に残った最後のホモ属である、われわれホモ・サピエンスの物語です。われわれの仲間であったネアンデルタール人たちは絶滅しました。なぜそうなったのか。それだけでも興味深いのですが、この本は飽きることがありません。以下の指摘も、その一つです。

 

「天然痘や麻疹(はしか)、結核など、農耕社会や工業社会を苦しめてきた感染症のほとんどは家畜に由来し、農業革命以後になって初めて人類も感染し始めた。犬しか飼い慣らしていなかった古代の狩猟採集民は、そうした疫病を免れた。」

『サピエンス全史(上) 文明の構造と人類の幸福 サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』(ユヴァル・ノア・ハラリ, 柴田裕之 著)より)

 

ともすると、狩猟採集時代は原始的な生活に明け暮れ、貧しく、いわば無知蒙昧の生活をしていたのでは、と考えがちですが、そうではないようです。農業はわれわれに、必ずしも明るい面だけをもたらしたわけではないのです。

 

 

支援の旅

■20181015(月曜日:曇)

 

 

■いよいよ月の半分を迎えました。今月は31日の水曜日までありますから、厳密には少し余裕があるのですが、昨日走って通算50キロを超えたとはいえ、油断大敵です。今週木曜日からはベトナムへ出発です。木曜日の午後から6日間日本を離れますので、その点の埋め合わせが必要です。昨年はハノイの早朝、まだ暗いうちに街中の歩道を走っていて、躓いて転んで歯が欠けてしまいました。幸い大したことも無くて、本当に幸運でした。暗い中で走ったのが不注意でした。

 

バクザン省のホテルの前には、整備された広場があり、あそこならば安心して走ることができます。一周ほぼ1キロです。早朝多くのベトナム人の皆さんがウォーキングをしています。準備だけはして出かけるつもりです。10キロは無理ですが、5キロなら何とかなりそうです。

 

ベトナムに持っていく支援物資の運搬が、いつも頭を悩ませます。支援していただいた医療関係物資として医薬品、消毒薬、バンドエイド、ポカリスエット、マスクなどなどです。仲間の皆さんのスーツケースに分配して運搬するのですが、なかなかに大変です。

 

今年は昨年まで二年続けて訪問した障害者施設に、ご希望のリハビリ器械を贈呈することになっています。滞りなく機器が届いているかも心配です。被害者家庭の訪問や眼科検診など、毎年のことですが、準備をお願いしている皆さんを信頼するしかありません。

 

隊員の皆さんも、様々な事情から顔ぶれが変わってしまい、数少ない人数で何とかやりくりしている状況です。高齢化も深刻です。働き盛りの人間には、参加費の16万円という費用や6日間という時間の問題は一番の関門です。多くの壁を乗り越えないと参加するのは不可能です。

 

いつまで続けられるか分かりませんが、とりあえず今年は出発まで漕ぎ着けました。

 

 

学会

■20181014(日曜日:雨)

 

 

■今朝は走るつもりで目覚ましをセットしたのですが、夜半を過ぎて激しく雨が降り始めました。これは走ることは無理と諦め、目覚ましを一時間遅らせました。午前7時0分現在、空は黒い雲に覆われ、時折雷鳴が轟いています。天気予報では、この後は雨も上がるようです。

 

■昨日は忙しない一日でした。午前中の診療を終えて、その足で東海道線、そして新幹線を乗り継ぎ、有楽町駅前の東京国際フォーラムで開催されている臨床眼科学会に出席しました。友人の山田成明先生の発表を聞くためです。

 

会場に到着したのが14時頃。受付を済ませてから、地下の機器展示会場を周り、どんな新しい検査器械が登場しているのかを見て回りました。様々な光学的な機器や新しい視野検査機器など、進歩の速さに驚くばかりでした。待ち合わせの15時まで、展示・販売されている書籍を調べました。

 

待ち合わせ場所の「相田みつお記念館」前のベンチに座り、いま着いて待っていますと連絡しました。やがて山田先生がやってきて、本当にしばらくぶりの再会でした。保存された写真を調べると2012年に会っています。その時は上野恩賜公園に出かけて、寒さに凍えながら花見をしました。そして一杯やったことを覚えています。

 

17時からの最後のグループ。B棟の7階での発表でした。昔はポスターセッションと言われていたやり方ですが、いまはパソコンでスライド形式での発表です。美術館でのようにイヤフォンを借りた上で、同時に行われている7つの発表から興味のあるものにチャンネルを合わせて聞くのです。私は初めての経験でした。ポスターセッションは、もう過去のものになりました。

 

山田成明先生の発表の前に予定されていた演題の演者が、どういうわけか会場に現れずに、発表が繰り上げになりました。無事に発表も終わり、ご苦労様とねぎらい、さてと思っていると、二人で何やら語り合っています。誰だろうと思うと、なんと相手の先生は、学会長の千葉大学教授山本修一先生でした。成ちゃんは、富山大学時代、山本先生と一緒に働いていましたので、旧知の仲なのです。私は山本先生とは、何十年ぶりでしょうか。一度同窓会でお会いしてお話したことがありましたが、あの頃は、まだ教授になられる前でした。同じ大学出身とは言ってもすれ違いでしたので、交流はほとんどありませんでした。

 

こうして成ちゃんの発表をわざわざ見にやってきて、きさくに語り合う様子を見て、大変驚きました。飾らない人柄に驚いたのです。また逆に成ちゃんは、山本先生とは、そのような付き合いをしていたのだな、と分かり、成ちゃんらしいと納得しました。

 

さて、これはチャンスとばかりに、山本先生に挨拶し、ぜひ静岡にも講演にきていただきたい、とお話したところ、ぜひ誘ってください、とこれも笑顔で答えていただき、本当に有り難いことだと感謝しました。何しろお忙しいのです。病院長でもある山本教授の仕事量は並大抵ではありません。二足の草鞋どころか、三足、四足の草鞋を履いているようなものです。スーパーマンなのでしょう。

 

さて成ちゃんは19時28分の新幹線で帰るということでしたので、東京駅でお土産を買い、そのまま夕食をともにしました。天丼でした。天ぷらが山のようにもられていました。お昼は仕事の合間にかきこんだので、お腹は十分空いていました。楽しいひと時でした。食事しているところを記念写真に撮り、やがて時間がやってきました。改札へ向かい再会を約束しました。

 

忙しなかったけれど、とても楽しい一日でした。出かけた甲斐がありました。やはり学会には出かけるものです。

 

成ちゃんは、お酒が飲めません。ジンジャエールで乾杯です。

 

 

 

 

分散処理

■20181013(土曜日:曇)

 

 

■今朝は走りました。走るには気持ちのよい気候になってきました。今朝も5時に目覚ましをかけ起き出すのに、いささか苦労しましたが、何とか5時半から走り出すことができました。気温は暑からず寒からずで、走り終わって汗ばむ程度ですから最高です。

 

今日は 6.08km を走り、総計45.97km 残り18日で 54.02km となりました。今日は午後から東京の学会に出席し、同級生の山田先生が発表するのを見る予定です。発表前に、少し時間をもらって、お茶でも飲みながら昔話に花を咲かせる予定です。夕方発表が終わったら帰るとのことで、残念ながらゆっくり食事をする時間は無いようです。

 

来週にはベトナム支援の旅に出かけなければなりません。準備をする必要があります。一年など本当にあっという間でした。

 

■10月10日、ようやく地震で被災した北海道苫東厚真発電所が一ヶ月ぶりに全面復旧しました。この地震による全域停電で脆弱性が鮮明になった「大規模集中型」に対し「小規模分散型」への移行を果たしている欧州に学ぶことは多いようです。

 

東京新聞「再生エネ100%の島 大規模停電起きぬ分散型発電 風力など地域で融通」は、これからの方向を示唆しているように私には思えます。それはインターネットに似ています。地球儀の上に網を掛けたように通信網が形成されています。どこかで異常が起きても迂回路が無数にあれば、不通になることは避けられます。とにかく不通になることを避けること。停電も一緒です。どこかで発電所が止まっても、分散された小規模発電所が、融通し合うことで最悪の事態を避ける。

 

破綻を避ける術の基本は、分散処理なのです。

 

 

使命感

■20181012(金曜日:雨)

 

 

■今朝は雨。静かに休みました。6時に目覚ましをかけて、穏やかに起床しました。金曜日ですので、生ゴミの日です。ゴミを出す、というのは英語で「 take out the garbage 」ということを、今週のラジオ英会話で習いました。Ben と話す時に必要だと思うと、勉強にも気合が入ります。Ayaちゃんに感謝です。

 

(●^o^●)

 

さて昨日は忙しない一日でした。午前中の診療はトイレに行く暇もないほどでしたし、終わって昼食を取った後は、学校医をしている小学校での就学時検診に出かけました。90名強でした。昨年からは、Spot Vision Screener という新しい検査器械を持参して、全員の検査をしています。

 

現在沼津市では3歳児健診でも、この機器を使用して不同視弱視などを早期に発見しようと努めていますが、すり抜けてしまった子ども達も少なくないのです。昨年ある学校で、実際にそうした子供に遭遇して驚きました。未来ある子ども達のために、こうした検診は、とても大切だということを改めて実感しました。

 

■昨夜はNonちゃんがご指導をいただいている横田俊平先生を囲んでの楽しい一時でした。今回で二度目です。Sunと四人でひろ繁での楽しい夕食会です。横田先生もリラックスされているようで、私も自身も肩肘張らずに会話に加わることができました。大学で小児科学教授を務められ、引退されてからは、こちらで新たに子ども達のためのセンターを作りたい、と奮闘されている姿は、本当に凄いの一言です。

 

先生はとても明るい性格で、四人で話していても笑いが絶えません。新しいセンターを立ち上げるといっても難題が山積しているために、さすがの先生も気が滅入ることもあるようですが、そんな時に少しでも気晴らしになってくれれば、とNonちゃんも配慮しているのかもしれません。

 

私より5歳年上ですから、今年70歳、古希を迎えられたそうですが、そのパワーは、どこから湧いてくるのでしょうか。やはり病で苦しむ子ども達のために何とかしたい、という一点に違いありません。本当に頭が下がります。使命感なのでしょうか。

 

 

横田先生を囲んで。

 

 

 

 

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