■20230618(日曜日:晴れ)

白老町の宿です。玄関前の様子です。

■今日は新沼津CCの水無月杯Bクラス月例でした。曇り空で強い日差しが無かった分、楽な一日でしたが、結果は散々でした。どこか特別悪かったいうわけでもないのに、101回も叩いてしまうところが、救いがないのです。

それでも、大の仲良し長谷川さんと一緒にプレイできて満足でした。楽しい一日でした。来週の日曜日には、年に一度のクラブのお祭りである、理事長杯の予選があります。

私は会議のために、これで6年続けて欠場です。来年は役も退任しますので、自由になれそうです。

■さて、以下の記事に深い感慨を覚えるのは、どの世代からでしょうか。

「一太郎」が「ワード」に奪われた地位、「マイクロソフトの戦略に敗れた」…それでも伝説の開発者はITの魅力に夢託す

そもそも、「一太郎」というワープロソフトを知らない世代が、今ではほとんどではないでしょうか。昔は、マイクロソフト社製のワープロソフトではなく、日本の会社のワープロソフトが、事実上の標準だったのです。

役所へ提出する書類は、「一太郎」で作るのが当たり前でした。記事にもある通り、ウインドウズ95の登場以降、マイクロソフト・オフィスが事実上の標準になり、他の製品は静かに消えていきました。

ネットで調べてみると、興味深い事実が次々と出てきます。例えば、

日本では、アルファベットより複雑な字形の印刷、漢字入力の方式策定という課題があったため、開発が困難であったが、登場するとたちまち受け入れられた。

そのため20世紀日本では多くの場合、手書き・ガリ版→ワープロ専用機→パソコンでのワープロソフトとタイプライターを経ないで移行が行われた。

そうなのです。日本では、タイプライターというものは、ほとんど見たことがありませんが、逆に欧米では「ワープロ専用機」というものは登場していません。

1978年(昭和53年)、東芝が初の日本語ワードプロセッサJW-10を発表した。これはワープロ専用機で、発売価格は630万円であった。

なんと一台630万円もしたのです。しかし、いったん普及に弾みがつくと、恐ろしいスピードで価格は低下します。

1980年(昭和55年)より電機メーカー、事務機メーカーなどが次々と日本語ワープロ市場に参入し、競争により価格も下がり、大手企業への導入が進んだ。

同年に平均単価200万円だったワープロの価格は、1985年(昭和60年)には16.4万円と劇的に下がった。

私もワープロ専用機を使用していました。その頃は、文章は印刷するのが当たり前でしたから、ワープロ専用機はとても便利だったのです。

1983年にはPC-9801用の松や、一太郎の前身であるPC-100用のJS-WORDが登場した。松と一太郎はそれぞれベストセラーとなった。

1990年代にはMicrosoft Windowsが普及し、ワープロソフトもWindows版が主力となった。海外ではWordPerfect(Windows版)、Lotus WordPro、Microsoft Wordが、それぞれ単体およびオフィススイートの形で、激しく競争した。

日本でも1995年よりWindows 95が普及すると、専用ワープロやMS-DOS版から、Windows版の日本語ワープロソフトが主力となり、一太郎(Windows版)、Microsoft Word、WordPro、OASYS(Windows版)などが競った。なお日本では「一太郎 + Lotus 1-2-3」など、メーカー間で提携したパッケージも販売された。

2009年では、英文も日本語も、Windows上で動くWordがほぼ事実上の標準となった。

そうなのです。競争に敗れて、一太郎は消えていきました。今思い返して、果たして違う結果を得られる分水嶺が、どこかの時点であったのでしょうか。ジャストシステムの経営戦略が誤っていたから、こういう結果になったとは言えないように思います。世界中で同じような結果が、得られているからです。

それだけマイクロソフトの戦略が巧みだったとも言えます。しかし、こうした結果、つまり単なる一私企業の製品の使用を、公共団体までもが強制するという事態は、決して望ましいものではありません。誰もが無料で使用できるわけではないからです。

そうした視点が欠如したまま、当然のように事が進むことを、私はとても危惧しています。