■20210310(水曜日:晴れ)

2016年に枯葉剤被害者支援の旅で立ち寄ったベトナム・ハロン湾の様子です。

■今朝は走りました。いつものように4時半に目覚ましを合わせて起きようとしましたが、睡眠のリズムがうまく合わなかったようです。0時前に一度目が覚めてトイレに行ったのですが、その後熟睡して目覚ましが鳴った時には夢の中でした。目覚まし時計で無理やり叩き起こされた、という感じでした。

したがってベッドの中から起き出すのに時間もかかりましたし、体も重いままでした。それでも何とか起きだして準備をし、ビニールゴミを所定の位置まで運び、準備運動の後スタートしました。

今朝もアプリとしてランキーパーを使用しました。いつものコースを走り、1.3km ほど走ったところで校庭に到着。今日はここから35分走る予定でタイマーをセットしました。最初のうちはキロ当たり7分10秒程度の速度で走り続けましたが、腰が重く足取りもスムーズとはいきませんでした。

ランキーパーの音声案内も、5 キロ までは順調に案内してくれたように記憶していますが、その後はだんまりを決め込んでしまいました。つまりはアプリが落ちてしまった、自動停止してしまったようです。 原因不明です。

結局今朝は53分13秒、8.37 km を走り、これで今月は通算4回のランで33.97 km を積み重ね、月100 km 走までは残り21日で66.02 km の地点まで来ました。

■さて今朝の東京新聞には、文藝春秋4月号の案内広告が出ています。

走り出したら止まれない「この国の病理」

日本の敗戦

「福島」と「コロナ」


と題して船橋洋一さんが書かれています。まだ読んでいませんので内容についてはわからないのですが、まさに走り出したら止まれないこの国の病理は、 太平洋戦争の敗戦によっても変わることはなかったようです。

よくインパール作戦が引用されます。無謀な戦いの代名詞のように今では語られています。失敗する確率が極めて高いにもかかわらず、最高指揮官のメンツを慮って、いまの言葉でいえば周囲の幹部たちが忖度の結果、多くの兵士が無謀な作戦のために戦う以前に餓死してしまったのです。

Wikipediaで調べてみると、作戦の最高指揮官であった牟田口廉也司令官について、こう書かれています。

牟田口は戦後イギリス軍がシンガポールで開いた戦犯裁判でBC級戦犯の一人として裁かれたが、嫌疑不十分として釈放され、帰国後は東京都調布市で余生を過ごした。

しばらくの間はインパール作戦に対する反省の弁を述べ、1960年(昭和35年)頃まで、敗戦の責任を強く感じて公式の席を遠慮し続けながら生活していた[11]。

しかし、1962年(昭和37年)にアーサー・バーカー元イギリス軍中佐からインパール作戦成功の可能性に言及した書簡[注 1]を受け取ったことを契機に、自己弁護活動を行うようになり[13]、死去までの約4年間はインパール作戦失敗の責任を問われると戦時中と同様、「あれは私のせいではなく、部下の無能さのせいで失敗した」と頑なに自説を主張していた[注 2]。

同様の主張は、多くの機会で繰り返された(#主要著述物も参照[注 3])」

との記載があります。多くの兵士を死なせてしまったことに、彼も戦後苦しかったのでしょうが、晩年の行動は残念でなりません。餓死した兵士も浮かばれないでしょう。

そして、いまでも日本の指導者たちは、少しも変わっていないのです。結局犠牲になるのは、戦前も戦後も少しも変わっていないのです。それこそが、この国の病理なのです。