■20191222(日曜日:曇)

松江城の中にある茶屋です。

■今朝も、ゆっくりと休みました。昨夜は沼津西ロータリークラブのクリスマス例会でした。例年ですと、これが今年最後の例会となるのですが、今年は来週もう一度26日に例会が開催され、最終例会となります。

その最終例会で、私が仲間と共に今年の10月に行った、ベトナム枯れ葉剤被害者支援活動について報告しなければなりません。したがって、今その資料を作成中です。

今朝は6時に目覚ましを合わせてあったのですが、その後しばらく布団の中で、ウトウトと時間を過ごしました。平日ですと、そのようなまどろんだ時間を持つことはできませんので、今朝は、まあいいか、と時間の流れに身を任せました。

色々な夢が浮かんでは消え、消えては浮かんできました、内容は、やはり子供たちのことが多かったように記憶しています。子供達が、いくつになっても、やはり自分にとっては子供なのです。

さて今朝の東京新聞朝刊「時代を読む」欄では、哲学者の内山節さんが、「権力者の扇動ゲーム」と題して書かれています。自分が何かを判断しなければならない時に、自然はこの問題をどう思っているのだろうかと考え、判断の材料にすると、内山さんは書かれています。

日本の伝統的な考えでは、社会とは自然と人間によって作られているものだから、人間の論理だけで勝手に社会を作ってはいけないと人々は考え、絶えず自然という他者に思いを寄せてきた、とも書かれています。今、そうした思いがなくなって、人間の論理だけで社会づくりが進められる時代に変わってしまった、と内山さんは嘆いておられます。

そうして1年間を振り返り、今年を象徴する出来事は何かと考えた時に、内山さんは、桜を見る会をめぐる一連の出来事だと断じているのです。なぜなら、それは権力は腐敗するということを立証する出来事だったからであると言われています。

20世紀を代表する社会学者であるマックス・ウェーバーの「職業としての政治」を引用し、国家は暴力の独占によって作られた強い権力機関であり、それゆえこの権力に携わる者は腐敗、堕落しやすい。そうならない方策として、マックスウェーバーは政治に関わる者達に高い倫理観、道徳観を求めたのだ、と書かれています。

ところが現実の世界では、倫理観など持ち合わせてはいないとしか言えない政治家たちが、世界中で跋扈していると嘆いているのです。そしてこう述べられています。「そのひとつの表れが、桜を見る会の出来事だった。税金や権力を私物化しても平気な人々が、日本の政治を握っている。その人達に高い倫理観を求めても、そもそも倫理観など持ち合わせてはいないのだろう」。そして今の政治が権力を掌握するための扇動ゲームになってしまっていると指摘しているのです。

アベノミクスという何年やっても何の成果も上がらない経済政策で国民を扇動し、外国の脅威で扇動する。野党批判で扇動し、女性活躍、働き方改革などの扇動スローガンを次々に打ち出し、格差社会の現実や加計学園の獣医学部開設などであらわになった、権力の私物化から、人々の目をそらそうとする。このような扇動型の腐敗政治の象徴が、桜を見る会をめぐる一連の出来事の中にも表れていた。

明治に始まった日本の近代社会。150年の時を経ようとしている現在、ちょうどその半ばに敗戦を迎え、その敗戦の焼け野原から立ち上がった日本人が、さらに半分の月日をかけて築き上げてきたのが現在の政治だとすれば、日本の近代社会の行く末は、どこへ向かおうとしているのか。暗澹たる気持ちに陥るのは、私だけではないはずです。